われら六稜人【第27回】ある音楽家の生涯

第5楽章
大学でも音楽三昧

    さて、北中を卒業したあと、同志社の予科2年を経て同志社の経済学部へ入りました。そこでも迷わずオーケストラ部へ入ったんですが、その時の指揮者が当時 「天才少年」と言う名を欲しいままにしていた宮本政雄さんというヴァイオリニスト。この人は戦後、関西交響楽団(これは六稜楽友会の白井次郎名誉会長 (39期)と朝比奈隆さんとが一緒になって作られた楽団ですけれど)が大フィル【大阪フィルハーモニー管弦楽団】と大阪交響楽団とに分裂する際に後者のほ うを率いられた人です。朝比奈さん同様、この人を知らない人はいない…というぐらい有名な人でした。ところで少し脱線しますけど「職業演奏家で飯が食えるか」という問題ですが…なかなか日本の交響楽団で独立採算でキチンと楽団員に給料を払えてるところは 無くてね。N響【NHK交響楽団】くらいじゃないですか。それと「京都市交響楽団」これは公務員ですからね。あとは給料だけでは…何かアルバイトでもしな いと、とても食って行けないはずです。
    世の中によく、何百億という大金持ちに「そんなに儲けても使い途ないやないか」という人がいらっしゃいますけど、ボクはそういう人にいつも言うんです。 「ボクだったらすぐに無くなりますよ」と。「一度、個人でオーケストラのオーナーをなさるとよろしい。一体いくらお金がかかると思います?」とね。日々の 練習場所を確保して、楽団員には十分な給料を支払わないといけない。そして演奏会を定期的に開催する。もちろん、それで得た収入なんかではとても三管編 成、四管編成のオーケストラは維持できませんからね。
    これは外国でも同じですけど、作曲家と違って、演奏家には必ずスポンサー(金主)がいるんです。晩飯の心配をしていたら演奏家はやっていけませんからね。 ピアノでもヴァイオリンでも一日最低6時間、多い人なら10時間は練習しますから。そうなると家事や他の労働は一切できないわけです。
    天才といわれた女流名演奏家の中で晩年まで演奏を続けられたのは安川加寿子さん(旧姓・草間さん)一人です。あの方はパリのコンクールで賞をとって帰って きた名ピアニストですけど、これが普通のサラリーマンのところへお嫁に行ってたとしたら炊事・洗濯・子育てで…とても練習なんかできませんよね。ボクの 知ってる中にもピアノのうまい子がたくさんいますけど、プロになったらダメです。プロになって一流の腕を維持しようと思ったら…大金持ちのところへお嫁に 行って子育てや炊事洗濯は女中がする、自分はピアノ弾いていればいい…という状態でないと、とても無理ですね。草間加寿子さんは幸いにして安川財閥の御曹 司のところへお嫁に行かれたから、ずっと演奏ができたんです。音楽演奏家というものはそういうものなんです。

    だからN響でも…定期演奏会が何回かあって外国にも行くけれども、そんなもん演奏会収入だけであの楽団を維持できませんから、どこから給料が出ているかというと、日本放送協会から出てるわけです。NHKがN響のスポンサーということです。
    財源の無い一般のオーケストラは設立しても必ずつぶれる…それぐらいお金を食うんですね。これは諸外国でも同じことで、英国の王立交響楽団にしても米国のNBCにしても…スポンサーがついているからこそ、オペラやシンフォニーオーケストラが維持できるのです。

    さて、戦前のハナシに戻しますが(笑)…ボクは同志社の交響楽団に入ったものの、大学ですから、また小難しい曲ばっかり演るんですね。しかも単独で完全な オーケストラを編成できるほどは部員がおりませんでしたから…演奏会の際には他大学に応援を頼む(京大や関学に「ちょっとアンタ、来てぇな」という感じで ね)。普段、平素の練習では人数も揃ってないから全然面白くないわけです。その上に難しい曲ばかり演っていては実際、楽しくないわけですね。
    結局、同志社大学ハーモニカオーケストラいうのがありまして「ここなら軽音楽ができて面白いだろう…」ということで、遂に誘われるままにそっちへ移籍してしまいました。当時、軽音楽の世界では「桜井潔とその楽団」というタンゴバンドとか「松田四郎と楽団南十字星」ぐらいがメジャーで、みんなそれの真似をするわけですね。 ボクはそこへヴァイオリンを持ち込んで、ハーモニカを伴奏にしたりして。あとアコーディオンの上手いのがおりましてね…田中省信君という北野中学の同級生 (52期)。彼と一緒に「軽音楽のタンゴバンドやろうや」と言ってやり始めたら、これが受けてね。当時、京都で同志社大学軽音楽部は何を演っても常に満員 (笑)。ドラムありギターありハーモニカあり…そういう混ぜこぜ楽団で『夜のタンゴ』とか『青空』、『ラ・クンパルシータ』、『カベシータ』、『小さな喫 茶店』とかいうナンバーを演ってました。
    軽音楽をやってて唯一困ったのがピアノでね。ジャズピアノのできる人がいなかった。ちょうど戦争が激しくなって、音楽家の仕事が無くなっていく…そういう 時代でしたから、京都交響楽団(今の京都市交響楽団の前身)をつくった高橋虎之助というプロのピアニストに来てもらって、いろいろ教えてもらったりもしま した。

    だんだん戦局が厳しくなってきて「アメリカの音楽は演ってはならん」という時代になりました。けれども、警察官で音楽の分かる人はいませんでしたからね (笑)。「これは全部ドイツの曲です」とか言って誤魔化してましたね。アルゼンチンタンゴでも何でも…全部「ドイツです、ドイツです」言うて(笑)。


    パーマの禁止を促す警察官(昭和15年)
    出典:『写真集なにわ今昔』(毎日新聞社)

    演奏会をやるときには事前に「特高」いわゆる特別高等警察…現在の警察庁公安局…に届け出を出すことになってました。テレビの番組や昔の映画などに描かれ ている特高はというと、決まって「悪の権化」みたいなことになってますが、たぶんそれはディレクターや映画監督の解釈が歪められているというか、随分と恣 意的な色眼鏡が入っているワケで…実際は「特高警察」の方々はその殆どが当時の「高文」…つまり高等文官試験に受かった優秀な人たちで、内務省のキャリア コースの人ですからね。非常に紳士でしたよ。
    いわゆる思想警察ですけど、「おい、こら!」の高圧的な雰囲気ではなくて、届けに行っても「ご苦労様でした。いい音楽を演ってください」そんな感じでしたね。

Update : Dec.23,1999

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