われら六稜人【第24回】医療NGOから見たコソボ

第1章
紛争の地、コソボへ…

    今回、2週間という短い期間でしたが、まだ時折銃声が聞こえ、地雷爆破の音が聞こえる紛争の地ユーゴスラヴィア、コソボ自治州へ医療救援NGO「MeRU」(日本医療救援機構)の一員として行く機会がありましたので、コソボでの見聞を、わたしの感想もまじえて報告します。そもそも、今回のコソボ行きはMeRUの鎌田理事長から、知人である医真会理事長に「コソボで医療支援をやりたいが、派遣する医師・看護婦がいないので協 力してほしい」という連絡が入ったのがはじまり。急遽、泌尿器科の部長が2週間派遣され、第二陣としてわたしと看護婦長、英語のできる事務の人3人が派遣 された訳です。いずれも50を越えた年寄りばかり。若い連中は行ってもいいなと思った人がいたようですが、そんな危険な所はだめですと家族に反対されたよ うです。

    コソボへの入国ルートは南に隣接するマケドニアから陸路で国境を越えるということで、8月20日関空発、オランダのアムステルダム経由でオーストリアの ウィーンへ。ウイーンで一泊してマケドニアの首都スコピエへ飛び、さらに一泊。翌日タクシーでコソボとの国境へ行き、やっと入国。大阪から3日間かかりま した。コソボの州都プリスチナの空港が破壊されて使用できないことと、ウィーン・スコピエ間の航空便が少なく、飛行機も小さいことが原因と思われます。時 間がかかりましたが、おかげでウィーン見物が出来、スコピエの雰囲気も味わうことが出来ました。
    マケドニアの首都スコピエは暑くほこりっぽいところで、街のたたずまい、人々の姿を見て、貧しい国だなという印象でした。交差点で止まった車の窓ガラスを 大急ぎで拭いて、駄賃を貰っている子供たちが、赤信号で止まる度に寄ってくるのには、驚くとともに、こんな駄賃稼ぎもあるのかと感心もさせられました。ロ シア文字の氾濫する街でもありました。夜になると若者達が街を散策し、近くの店ではボリュームいっぱいのロックの音楽が夜遅くまで鳴り響いていました。

    スコピエの安ホテルで一泊の後、タクシーで国境へ。途中、アテネ、イスタンブール、ウイーンなどへの道路標識が見え、なるほどバルカン半島だと感じさせられました。
    国境は幹線道路にあり、マケドニア側には木造の貧弱な建物があり、行列して通関。ハイヒールを履いた娘さん達もおり、地元の人達はひんぱんに通行しているような印象でした。
    KFOR(コソボ治安維持部隊)と書いたジープ・トラック、WHOや各国赤十字の車輌はフリーパスで通行しているようでした。マケドニア側では、パスポー トのチェックを受け、査証印を押されましたが、コソボ側では、機銃を持ったKFORの兵士がちらっとパスポートを見てオーケー。パスポートには何も記載さ れませんでした。つまり、通常の国として機能していないということかと思います。

    コソボ側では、銀行であったと思われる建物がKFORにより接収され、鉄条網が張り巡ぐらされ、NATO軍兵士が厳重に警戒していました。装甲車、戦車もみられ、紛争の地へきたのだと緊張させられました。
    国境の付近には、タクシー(ヤミタクも含めて)ドライバーの客引きがさかんで、子供たちは、コーラやタバコを売ったり、荷物の運搬をして稼いでいる姿が多く見られました。 コソボ側で迎えの車を待っている間、子供たちにアルバニア語の挨拶などを教えてもらっていると、人だかりが出来ました。すると機銃を持ったKFOR兵士がやってきて追いはらってしまいました。やはり、何かトラブルが起こらないように警戒しているのでしょう。 コソボ側に比較的大きなセメント工場と思われる建物がありましたが、半分以上破壊されており、勿論稼動していませんでした。 ほこりっぽい路上で待つこと1時間、やっと迎えの車が来て、お互いに自己紹介のうえで一路コソボ州第二の都市ペアへ向けて約3時間のドライブが始まりました。

Update : Sep.23,1999

ログイン