われら六稜人【第23回】琉球の大地に生きて

第3畝
藍こそ豊かさの証明

    名護に来て「豊かさを体現するんだ」と決意し、頑張り続けてきた25年間だったと思います。わたしたちが目指している農業。それに賛同し、支えてくれる人々を会員制にして、彼らに有機野菜を届け続けました。「真の豊かさ」を体験すべく、ずっと努 力してきたのです。「わたしたちはこういう生き方をしている」「わたしたちのスタイルはずっと不変なのだ」そういうことを人々に伝え続けました。そんな中 で「豊かな自然を体感」する遊びの一環として、最初に草木染め教室を始めたのです。野菜の会員50人くらいを集めて。

    しばらくすると琉球藍を継承する人がいないという問題に気づきました。そこで、ずっと草木染めはやっていましたから…一度、藍にも注目してみたのです。と ころが、素人のわたしが育ててみても、とても良く育ったのです。それでいろいろ調べてみると、山原一帯が藍の宝庫であるという歴史や、この豊かな自然を守 らなければ藍は消滅してしまうのだということも分かりました。藍を守ることが、わたしたちが目指している「自然を守ること」と同じことであると気がついた のです。今から10数年くらい前のことです。

    もっとも…工芸をするにしても、生地代や道具をそろえる費用などがかかります。ちょうどその頃、名護市主催の「ふるさと創生企画」というのがあったので、 わたしは「琉球藍染めを守り、復活していく」という企画を提出しました。これが採用されて助成金の支給が決まったのです。4年間で200万円を戴きまし た。


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    ところが、そんな矢先…わたしは歳の離れた次女を出産して育児に手が離せなくなってしまいました。そこで藍の栽培を夫に任せることにしたのです。彼なら農 業の基礎があるから絶対できると思いました。最初は全然理解を示してくれなかった夫ですが、「何としてでもやらなければいけない」という切羽詰まった強い 意志を貫き通して説得すると、何も分からないところからやり始めることを承諾してくれたのです。

    わたしたちが最も大切だと考えたのは、自分にしか出せないような色を出す…といった高い技術を身につけることでした。もちろん、工芸をやるのは初めてでし たから、講師を呼んで藍染めを学び、ひたすら泥藍を作りつづけました。5年間くらいはひたすらタダ働き状態で泥藍を作りつづけたのです。絶対できると信じてましたし、とにかく「やるしかない」と考えるほか無かったのです。そうしてやり続けていると確実に成果が現われてきました。それを見た 人たちがみな驚き、ここの藍がとても評価されるようになったのです。琉球藍を育てる人がとても少ない現状で「琉球藍はこんなに美しいのだ」ということを外 に示していき、琉球藍を残すべきだという意識に変えていきたかったのです。

    100%天然素材で作るのはとても難しいことです。ですが、化学薬品は一切使わないようにしています。Ph管理ひとつを取ってみても…普通ならば化成ソーダをいれて調節しますが、わたしたちは自然の恵みを活用して木灰を使います。
    このように一つ一つ丁寧にやっていくと、発色が全然違うのです。周囲の人たちも、その美しさに驚き高い評価を与えました。そしてついに一昨年、国と県レベ ルで「地域資源活用形企業家事業」に認定されるまでに至りました。おかげで去年、初めて本土を回れるようにもなりました。東京で「やまあい工房」の藍が大 反響を呼び、今年は県や国の補助を受けずに直接、各地の丸善からの依頼に応えて展示会を開きました。六稜Newsの取材に来てくださった京都会場もそのひとつだったのです。

    わたしたちが琉球藍を通して伝えたいことは「多用な価値観」の提起なのです。「このように美しいものが、このような脈絡の中で生まれる」…わたしはそうい う「価値観」を守り続けたいのです。たとえ藍染め製品が売れなかったとしても。自分たちが食べる分くらいは自給できるので問題はありません。

    わたしは当時4歳の長女を育てながら、大湿帯を開拓してきました。とても大変だったけれど面白かった。最高の贅沢をして生きられた…という充足感があります。これだけの好条件が与えられることは他では滅多にありえないことだと考えるくらいに。
    都市の文化は消費文化です。都市における生産は消費のための生産に過ぎません。しかし、わたしたちは敢えて物の無い中で作っていくことを選び、そこでの経 験を楽しんできました。「農業」の暮らしというのは…英語でも”Agriculture”というくらいですから…農業それ自身の中に「文化」を内含してい るものなのです。

Update : Aug.23,1999

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