われら六稜人【第22回】ヤマに憑かれた放浪人生

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念願の北海道で…

    中学4年生のときに、ボクは北大(の予科)に行くって決めてたの。理由はもう「スキーがしたい」というだけ。ほかには何にもない(笑)。当時は信州の松本高校(現信州大学)に行く連中も随分いましたけど、ボクにしてみれば北海道のほうがよっぽど魅力ありましたね。
    大阪から北海道へ行くには片道で15円くらいかかったかな。時間的には夕方、上野から夜行列車にのって青森に朝つくのね。で、連絡船にのって昼ごろ函館に ついて…そこから札幌まで5、6時間かな。だから上野から札幌までが丸1日の行程だった。当時、大阪から上野までが特急燕号で8時間だから通算2日がかり の仕事だったことになるね(笑)。それでね。デキが悪いなりに…4年生修了時に入学試験を受けてみたら、やっぱダメでね。水鳥先生が「立山、それも春山登山をやろう」って言うんで…ちょっ と上級学校へ行ってる場合でもなかった(笑)。ところが、次に5年生で受けてもまた落っこっちゃってね(笑)。北海道へ行くのが目的だったから北大しか受 けてないし。仕方がないので浪人しましたよ。

    さすがに受験3年目となるとね…親の体調も悪かったし、自分自身でも何となく心配で。それで日大も併願したの。そしたら日大の工学部から「ニュウガクヲ キョカスル」と来てね。ただし○月×日までに入学金を納入すべし、と。当時でどれぐらいだったかなぁ…結構な金額だったと思いますけどね。それが官立の大 学の発表の前日なんだよね。これはもう私立大学の常套手段だけど…子を思う親の気持ちをくすぐって金を集める、という…だいたい私立大学っていうのはそう して大きくなったもんなんですけどね。あれは最悪の商法だ(笑)。

    親父がボクに聞くわけ「どうするんダ?」って。ボクはね…北大のほうの手応えがなかったわけじゃないんだけど、現に去年も落っこった実績があるしね (笑)。なんとなく自信が無くって。嫌な心理だよね。で、結局「親父にまかせるわ」ってことで決断できなかった。親父は黙って払い込みの手続きをとってく れたよ。
    翌日、北大から「ニュウガクヲキョカスル」と電報がきてね。「しもた~!!」って叫んでも後の祭りなんだけど(笑)。補欠入学だったから危ないところではあったけど…何とか無事、念願の北海道へ行けることになった。

    北大の校門をくぐると、すぐに部活のデスクがいっぱいあってね。ボクは「山岳部」の看板を見つけて「あぁ、これこれ」って、スグさま入部手続きをした。その後で大学に行って入学手続きをしたんだな(笑)。
    だからボクがその年の山岳部員のトップの番号を持ってるの。218番だったかな。後から入った奴に「おまえ早いな~」って言われて。別にそんな心算はな かったんだけどね…とくに勧誘されたわけでもないんだけど、夜行虫が常夜灯に集まるかのごとく「山岳部」の看板に吸い寄せられてしまった(笑)。当時は旧制ですから、いわゆる予科っていうのが3年、そのあと学部が3年…というのが普通のかたちだった。ところがボクは予科を4年やったんです。という のも、後から記録を数えると、だいたい1年間に100日ぐらいは山に入ってましてね。2年生のときに春山をやって帰ってきたら進学の発表があった。
    『次ノ者、進学ヲ許可スル』と掲示板に貼ってあって。クラスごとに名前がアイウエオ順に書いてある。当時、一クラスが30人ぐらいだったかな。30人の4 クラスで120人ぐらいだったんですけどね。出席呼ばれる時の要領で、だいたい自分の順番はどの辺りか分かってるでしょ。見たんだけど、どう見ても無いん だよね、ボクの名前が。黒く消してある(笑)。
    それで、担任の先生のところに「どないなってますか」って聞きに行ったら「君、出席が足りないよ。1年に学校ってのは何日あると思う?」って聞かれてね。一年の約半分、180日位らしいんだけど…「キミ、そのうち100日も休んでるよ」って(笑)。


    ※写真提供:北海道静内町

    それだけ山に取り憑かれてたのかな。この大学時代の登山で印象深いのが、ペテガリ山っていいましてね。日高山脈の最高峰、1,740mぐらいあったかなぁ。素敵な山ですけどね。
    そこで私が入った年の冬に遭難があって、8人の先輩が死んでるんです。大きな雪崩でやられましてね。北大山岳部としては非常に珍しいケースで、それまであ んまり大きい遭難がなかった。だから、ボクらが入部してから遭難対策というか「反省会」とかいって…捜索の後始末なんかが一杯あってね。かなり精神的にし ごかれましたね。

    そんな時に飛び込みましたから、山岳部で受けた教育のなかで「遭難対策」というのが非常に身にしみてるんですよね。自分が遭難したわけじゃないけれども、 大事故の直後だったからね。その後にもう一遍やろう…というワケですから。だけど戦争中だからなかなか資材が集まらないし、人の気持ちもなかなか纏まって いかない。ボクはそこで最後まで主任幹事っていいますか、チーフリーダーをやってました。これが…後で話しますけど、南極行きに深く関係するんですね。人 間的に。

    あとは…日高山脈だとか、日本アルプスだとか…結構、歩きましたね。ボクも「よく金が続いたな」と思うくらいね。そのかわり旅館なんかには全然泊まらない で、汽車で行って、駅でシュラフで寝たり…そんなんばっかり。食料のない時だから本当にもう、粗末なものでね。でも、旨いもの喰ったって喰わなくたって大 して違いはないよね(笑)。厳しいけど楽しかったね。

Update : Jul.23,1999

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