われら六稜人【第19回】機長が指示を待っている

WUN
北野時代の思い出

    小さい時から十三に住んでいました。伊丹の着陸コースの下だから飛行機はずっと見ていました。伊丹空港に初めて行った時に展望デッキから管制塔みて、あの 中の人は何してるんやろうかと興味を持ったのを覚えています。航空に対する漠然と憧れはずっと持っていました。北野での成績は散々でした。
    数学なんか10点とか、ひどい点数取ってましたから、留年の危機にいつも瀕してました。全然勉強してなかった訳じゃないんですよ。やっても出来ないんだから仕方ないんですよ。それでも出来る奴がいるんですよね。すごいなぁと思うんですけど。

    北野の授業って、一を聞いて十を知るって所あるじゃないですか。僕なんか十五くらい聞かないと十が解らないんですよ。そんな状況でやられたら点数が悪いの も仕方ないですよ。クラブ活動は本当は水泳か卓球やりたかったんですけど、運動部は成績が悪かったら、活動停止になってしまうでしょ。
    文化部は制限が無かったので、仕方なしに地学研究部に入りました。といってもクラブ活動らしいことは全然してなくて、放課後になると成績悪い?奴等が部室 に集まってきて、ティーのポテト食いながら、アーでもないコーでもないとつまらんこと色々話し合って、暗くなると帰っちゃうというクラブだったんです。

    地学部なのに弁論部みたいでね、思想とか政治の話なんかしたり、変に大人びた会話してましたね。学年はいろいろで5、6人いました。高木さん(103期、 バイオリニスト)も時々喋りに来ていらっしゃいましたよ。男ばっかりでね、女の子なんて入れないですよ。雰囲気がだってもう、、。 今はもうその時のメンバーと全然連絡とってないんです。みんなどうしているかな。

    体育大会の時

    数学の演習の時に先生が僕の解答見て「なんやこれは」と言うんです。黒板に向かってなんか言ってるのでよく聞くと、「こんなんも出来んのか」って言ってる んですよ。もうショックでね。出来んもんしゃーないやないか、と開き直ってましたけどね。これが後の管制官の厳しい訓練に耐えられる力を養ってくれたかも しれませんね。

    体育の時間に走らせられて、いざ断郊になると豆が出来て走れなかったり、縄跳びも追試やりましたしね。 後ろ二重跳びとかね。水泳もなかなかクリア出来ませんでした。
    「北野生は旧七帝大にいかなあかん」ていう中で、成績の悪い僕なんかはすごく居づらい場所だったんです。だから北野にはいいイメージは持っていないんで す。でも、2年の時の担任の野邑先生(古文)だけは、「北野の雰囲気に呑まれたらだめだよ。周りの人が東大や京大を受けるからと言って、自分もそこに行か なきゃいけないなんて思わないように」と言うてくれはったんです。なんか救われた様な気がしたのを憶えています。

Update :Apr.23,1999

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