われら六稜人【第8回】

ボクらの北中時代

    旧制北野中学校の時代、われらが校舎は北区中津…現在、済生会病院の建っている辺り…にありました。辺りの地名を北野といい、現在の校名は…実はここから始まったのでした。

    ここに、往時の思い出を偲んで「北中記念碑」が建立されたのは母校創立110周年の時(昭和60年)。今でもそれを記念して、毎年4月20日(創立記念日)には『記念碑の会』のメンバーの方々が集います。 今年の参加者は以下の通り。
    (敬称略)

    水鳥喜平(恩師)
    尾形 理(40期)
    大崎潤二(40期)
    野木一雄(41期)
    金子龍一(42期)
    海藻正久(46期)
    平 浩行(48期)
    三砂 栄(48期)
    椎原 庸(48期)
    艮 栄一(48期)

    記念碑前での集会の後、会場を近くのホテルサンルート梅田に移して昼餐の会が持たれました。そこで取材班はメンバーの方々それぞれに当時の思い出をひとことずつ語って貰う機会を得たのです。


    尾形(40期)さん
    僕は大正12年の入学でした。中津小学校からだから隣のようなもの。当時は北大阪線という電車が走っていて、西側の柵から校内に入れた。だけど、それを用務員の大熊さんに見つかって、よく怒られたもんだ。
    当時の北野では校舎内は上履きもダメで裸足でした。冬は靴下がはけたけれどね。関東大震災の直後で東京からの転校組が多かったよ。

    大崎(40期)さん
    「ポプラ並木六稜の~」という歌はあったけど…歌ったら停学になるから、あんまり歌えなかった。その所為かちょっと思い出せないな。校長は初め梶山という人で、その後江崎校長になった。「ズゥ」とか「ヘビ」とか「バルち」とか…変なあだ名の先生が多かったナ。

    野木(41期)さん
    昭和3年3月3日の卒業で覚えやすいんです。同期には大阪の元知事の黒田君や労働次官の中西君らがいます。豊崎第三小学校の卒業ですが、もうその当時の建物は何もありません。ここらはすっかり変わりました。

    金子(42期)さん

    私は北野第一小学校(のちに済美第一小学校)の卒業です。北野から北野へ行った。当時の校舎はボロボロでね。それでも近くに梅花女学校もあって楽しみもあった。
    チリヤン先生の夏休みの宿題が「神武、安寧…」歴代天皇の暗唱。職員室でやらされたけど、アガってしまって名前が出て来ない。何とか解放されたけど…後にも先にも職員室に入ったのはその時だけ。

    海藻(46期)さん
    私は当時の陸上競技部でキャプテンをしていました。市岡の定期戦で顧問の小林先生から「今年は市岡には絶対勝てない」と言われたが、確かに1位は市岡に取 られるものの2位、3位と北野…という具合で。最後のスェーデンリレーを終えて総合すると結局、北野が勝ってしまった。「勝負に絶対はないナァ」と小林先 生が言われたのを今でも覚えています。

    平(48期)さん
    僕ら48期は中津校舎は1年間だけでした。2年生の時に今の十三校舎へ移転したんです。当時の校長は江崎さんで…大阪市立大の久保田先生の『素描』という 著作の中に彼のことが出ています。前任の鹿児島中学から優秀な先生を4人連れて北野にやって来た…というエピソードや、北野でスポーツを盛んにしようと思 われていたこと。また英語の力をつけさせようとして大谷という立派な英語の先生を採用したり、大阪で最初の外国人教師ゴールディ先生を引っ張って来られた のも江崎校長です。彼の連れて来られた大須賀先生などは、当時の阪神国道が近代化されて両側にいちょうが植えられたことを「非常にいいことだ」と絶賛され ておられましたね。今でもそれは立派に残っていますよ。中津時代というのは、まだのんびりしたもので校長官舎のイチジクをとって食べたりしていました。

    水鳥先生
    一年の時は251人中223番で親父がびっくりしました。なにせ数学が100点満点の6点でした。ガマという数学の先生の因数分解がなに言っているのか さっぱり判らない。親父が高津中学の先生を家庭教師に付けてくれて落第は免れました。当時は50人ぐらい落第する時代でした。同窓会の事務局で11年仕事 をしました。名簿の仕事が一番印象に残っていますね。

    艮(48期)さん
    私の名前は良の上の点がない。だから「良い点のない男」と自分で言っています。昭和5年入学、昭和10年卒業です。校舎が十三にできて机や椅子やら運んで 十三大橋を2回往復しました。今の講堂は当時モダン過ぎる言うて非難されたものです。新校舎で初めて食堂ができて、その従業員がチフスに罹って生徒にもチ フス患者が出て大騒ぎになった。
    当時は「買い食い」等もっての外でしたが、腹が減るとパンやら饅頭買って淀川の堤防で隠れて食べる。先生もちゃんと知っていて堤防を見張っとる。そんなこともよくありました。

    いろんなお話が出ましたが、まず江崎校長について。江崎校長の辞令は校長兼教諭だったのです。当時、帝国大学出たら校長だったのです。先生はヒラの教諭を2年やられた。それは最初、外交官になろうとされたから教員の手続きをされなかった。そのためです。
    鹿児島二中の校長の前は静岡中学の校長です。これも前任の静中校長だった杉浦重剛が東京の新設の日本中学に移ったら静中の教諭の半分がそれに付いて行ってしまった…という事件になって、それで江崎先生が喚ばれたそうです。
    鹿児島から北野に来られる時も、実はその前に鹿児島県知事が大阪府知事に転任して…それで江崎先生と教頭の渡辺先生ら5人を喚んだということなんです。北野は当時、海軍と同じ白のゲートルだったが「これはイカン」ということになった。そして普通のゲートルになったのですが、戦後、クリスチャンセンとい う進駐軍の教育関係の大尉が学校に来たときに「ゲートルを元の白に戻して欲しい」と言いました。その時、彼はこう答えたのです。「伝統も変えなければなら ない時はある。ゲートルはやめよう」。それ以来…ゲートルは廃止になりました。

    ゴールディ先生のことですが…昭和14年のこと。当時の十三橋警察署から喚びだしがあって、私も一緒について行ったのですが、警察の人は「貴方は帰って よろしい」と言う。「しかし通訳がいるでしょう」と反論すると「こちらにもちゃんと居ますから」と。それで仕方なく帰りました。
    ゴールディ先生が帰って来て言われるには「警察が『公立の中学は辞めて欲しい。私立なら良いが。』と言われて、サインをして来た」と。それで仕方なく京 都の大学へ行ってもらったんです。その後「ニュージランドへ行くので推薦状を書いて欲しい」と言って来られました。私が書いて当時の長坂校長に見せたら 「ほんとにいい先生だったんだな。」とびっくりされた様子でした。「そうですとも。ゴールディ先生と私は無欠勤ですよ」…そう、私は校長に申しました。
    ゴールディ先生が日本を離れられたのは昭和14年12月1日でした。そして戦後の昭和22年ごろに亡くなられたと聞いています。

    収 録●Apr.20,1998
    ホテルサンルート梅田にて
    取 材●菅 正徳(69期)、寿栄松正信(74期)、
    谷 卓司(98期)
    協 力●大岩重雄(60期)、山元 一夫(64期)、
    佐野広子(68期)、大島美智子(75期)

Update : Apr.23,1998 ※おわび:椎原氏の談話の中で「大須賀先生」を「大菅先生」と過って表記しておりました。また、内容についても一部、事実誤認がございましたことを、この場をお借りしてお詫び申し上げます。

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