恩師を訪ねて【第26回】


岡島先生謝恩会にて同窓会有志
(昭和41年/1966)

卒業後のお付き合い

石田千代之輔先生

    昭和51年(1976年)4月教育委員会のおつとめを終えて新設の千里高校の校長になりました。56年4月から豊中高校の校長を4年やり、昭和60年4月 60歳定年で退きました。そして私立金蘭千里高校の先生になりました。平成7年までです。ここでうれしかったのは、再び担任を持たせてもらったことです。 教育委員会も千里高も豊高も担任はありません。私はお願いして金蘭千里で6年間担任をしました。生徒達にじかに接して責任をもって教えられるというのは、 教師冥利につきます。それでも金蘭千里ではあんまり同窓会はありません。卒業後の付き合いも少ないです。その点、北野はうれしいですね。暖かいなごやかな ものがありますね。いつでも私を招んでくれるんですよ。各期の同窓会でも山岳部のOB会でも。思えば北野は勉強は自分でせえ、責任は自分でとれ、というと ころがありましたから、何となく自由で余裕があったのかなと思っています。Q.先生の数学は我々凡才にとってはわかりやすい授業でした。「同じことは一緒であります」などの先生の冗談が忘れられません。

    わかりやすいと言ってくれるのは、唯一私の取り得ですかね。当時の北野にはおもしろい先生が多かった。私もそうですが、文理大とか教育大を出られた先生が 少なくて、何か大学の授業の雰囲気があったんではないですか。 高校の指導要領などにのっとらずに、自分の個性で教えておられた。レベルは高かったと思いますよ。英語なんかでも東大の教養ぐらいの高さはあった。勉強は するし、運動はするし、とにかく生徒は自由でかしこかった。


    那智山へ新婚旅行
    (昭和26年/1931)

    Q.ご結婚のエピソードなどお聞かせ下さい。
    エピソードなどありませんね。平凡な見合い結婚です。小学校の先生の紹介でお見合いしました。昭和26年のことです。家内は幼稚園の先生でした。子供は二 男一女ですが、長男の達郎(北野85期)が私のあとを継いで教職につき、今、東豊中高校の先生ですし、その嫁の石田美枝は北野で10年間英語を教えました (昭和57年~平成7年)。今、吹田東高校ですが。これは私のうれしいことですね。

    Q.最後に北野の先生時代の印象をもう少しお話願いましょうか。
    さきにお話したように、私は高校の先生をする勉強はしていない。何も知らずに教えていたことになるのですが、できるだけわかりやすく、できるだけ楽しく授 業をすることを心がけましたね。印象深いことは、勿論あの昭和31年の熱田神宮事件などもあるけれども、私は教務だから直接のアレはなかった。ぼやっと、 ええ学校やな、ええ生徒やなという印象が強いですね。勤評のころはちょっといやらしかったかな。北野分会というのがあって、ちょうど私と西田さんが責任者 みたいになりました。林校長との団体交渉などもやらんならん。それに外からオルグというのが来てえらい熱心やった。北野は拠点校やったからね。ハンストも ありました。宿直室で少なくとも5人ぐらいの先生がハンストするのを御世話する。ところがやっぱり北野やね。授業はやる。フラフラの先生が授業は大事やと 出て行きはるのです。ドクターストップがかかって3日ぐらいで止めになりました。時限ストというのもやりましたが、北野だけは指令に反して授業はするので す。まあ、あんまりこんなことは言いたくないが、反主流や主流やら、組合員や非組合員やらで、あんまりおもしろいものではなかった。私やら古い先生はみん な組合員やったですよ。そんなことで、残念だけど1回だけ時間割の編成をやってない年が実はあるのです。まあそれも古い話です。こうしていろんな機会に卒 業生の会に出て、昔の生徒達と話ができるのが本当に楽しみです。昔からの山歩きで足は強いからよく歩きます。それにときどき孫の数学をみてやることもあ る。今でも大学入試の数学はまだまだ解ける。まんざらでもないですね。

    聞き手●稲森久彦(69期)、小寺範生(69期)、菅 正徳(69期)
    収 録●Apr.8,2000(69会・花見の会/大川堤にて)
    Nov.11,2000(69期7組の会/ハービス大阪にて)
    Dec.24,2000(石田先生邸にて)

Update : Mar.23,2001

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