恩師の近況1997【校長】

竹内鐡二先生

【校長】
1962年~1964年

    1903年はキュリ夫人がラジウムの発見でノーベル賞を、また米ではライト兄弟が始めて空を飛んだ。いづれも今日の核開発と航空機文明の予徴の年でした。それが私の出生の年で日露戦争のさ中であった。もちろん記憶にはない。勝利で一等国になったと聴かされたのは物心ついてから。子供のころのアルバムに見る服装が軍服から背広まがいに移っているのも世相を表すことか。明治が 大正に代わり私の全学校生活の十五年間は世に言われる大正デモクラシーの時代であった。その初頭に世界第一次戦、ドイツ帝国は滅亡…ここに戦争の罪悪観は 世界を軍備縮小に同意させた。そんな時代の学生生活は智の追求の自由は今よりであったのではなかろか。

    当然軍人さんの定員減の対策が中等以上の学校に陸軍将校の配属となったのは大学卒業の間際であった。年号は昭和となった。一次戦で敗者ドイツは非武装と 民主化をうけ入れた筈が独立後は勝手と言うことか、帝国再建を旗印に民主憲法なにするものぞと全体主義を確立し対外侵略を強行したのはヒトラーであった。 その昭和十年以降は日本も友邦帝国として共にした。大正の名残りは影を潜めた。かくしてニトロ弾を落とし始めてアトム弾を落とされて終わった戦争…歴史を 教育として文化国家形成の労作を願うのみ。その意をこめて六稜同窓会の発展と皆様のご健勝を祈ります。

松下邦夫先生

【校長】
1985年~1988年

    六稜の皆様のますますの御活躍をお慶び申し上げます。在職中のラグビー部の全国大会出場の快挙をよく思い出します。(お知らせするほどの近況はなく、迷 いましたが、折角のお求めですので…)現在は居住地高槻市の教育委員に選任されています。教育は幼児教育から高等教育まで、どの教育機関においても課題の 尽きることはなく、努力を重ねてなお道遠しという営みであることは申すまでもありません。そうした中で、地域のために少しでもお役に立てたらと老骨に鞭 打っているところです。でも、この職は非常勤で時間的にゆとりがあるため、読書をしたり、趣味を楽しんだり、時に旅をしたりといった生活を送っています。 今心を離れないのは環境問題です。環境の保全やよりよい創造のための環境教育の一層の進展を願っています。皆様の御多幸を祈念いたします。

村田義人先生

【校長】
昭和58年~昭和60年

    なにわ文化・六稜文化の発信基地としてのインターネット・ホームページのご開設、まことに頼もしいかぎりです。私もおかげさまで、昭和60年に定年退職以来、いまだかつてない長期の健康に恵まれ、天理大学・金蘭短期大学の非常勤講師は昨年をもって退職いたしまし たものの、カルチュアセンターの講師は今も続けており、本年は、400人ほどの学生数をもつ岸和田健老大学の二代目学長に就任しました。生きがいのある、 主体性をもった、つねに探求してやまない老後生活を誰もができるよう尽力するつもりでおります。

    本年は『散歩道』という文庫本随想集と、平成6年から丸2年間奈良新聞に毎週掲載しました『漢詩動物誌』を単行本として出版することができました。

山崎浩和先生

【校長】
平成6年~平成9年

平成9年3月、北野高等学校長の職を最後に定年退職しました。4月からは、聖母被昇天学院女子短期大学教授として西洋史を担当し、兼ねて関西大学講師として教職課程の「社会科教育法」を受け持っています。

在任中に校舎改築の「基本設計」と、第一期工事分の「実施設計」が確定しました。これは平準化の時代潮流と大阪府の財政難の中で、六稜同窓会の皆様方の 英知と御支援があったればこそと思っています。昭和の名建築と謳われる現校舎に代って「平成の名建築」が実現するのを楽しみにしています。

退任後、ますます熱い思いでいっぱいになるのが北野です。どうか輝かしい伝統を守るとともに、新時代に即応した新しい北野を創造していただきたいと切に 念じます。ホームページ委員会が、情報を通して、そのために大いに力をふるっていただきたく思います。取り急ぎ乱文乱筆ごめんください。

Last Update : Oct.1,1997

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