恩師を訪ねて【第1回】

わが教師生活57年…

水鳥喜平先生

    北野に昭和25年までいて、新制中学の校長になりました。それをやめたのが35年。それから近畿大学や梅花の短大・高校の講師をしました。そんなことし ていましたら、光華女子短期大学が四年制にするというて「英語学の先生がおらんから来てくれ」言うてきたので行ったんです。それが39年です。
    十何年いて、それでやめて、80まではYMCAの予備校にちょぴり行ってたんです。80なったら、うちの息子が
    「親父もうやめてくれ。親父がいつまでもやってると、俺が無能力に思われるから…」
    言うからやめたんです。やめたけど、こづかいくれないんです(笑)。
    でも幸いなことに57ヵ年教壇に立ってました。ですから恩給…(私は年金でなくて恩給です)…私立の大学行ってからのは年金ですが、これは少ないです。幸い今も借金しないでやれます。息子がお医者さんになると言ったときに私は言うたです。
    「お医者さんは毎日青い顔ばかり見る。ところが学校行くと、青い顔のはみんな休んでて出てこない。だから学校の先生の方がいいぞ。学校の先生で何がいいかいったら英語の先生がいい。英語の先生だったら、小説読んどっても勉強してるいうことになる…」
    それで息子は英語をしたんです。

    北野では週に24時間位持ちました。読本をやりますと5時間。3クラス持ちますと3×5=15で9時間残りますね。その時間を他の学年行って『アラビアンナイト』だとかなんとか…あんなのを教えてたんです。

    (ボクら61期は先生に物理を習いました…)

    国語、数学と…それから何でしたかな、理科と…これだけは先生が応召していくと欠員を補なうことはできなかったんです。それに中学校はなんか一つだけ免 状持っておれば、なに教えてもいいんです。ですからね、ニィちゃんというあだなの先生でしたけど…その人は秋田高等専門を出ていて、理科の物理化学の免状 は持っている、ところが数学の免状はなかった。無いンだけれども、数学の先生が足らなかったから数学を教えた。そしたら、とうとう最後までずうっと数学の 先生になってしまった。

    (じゃあ合法だったんですね。公表してはイケないのかと…)

    校長になる人を出迎えに行くと…江崎校長の時はわれわれに挨拶してくれました。次の長坂校長は実力主義の人で、ひとりで入ってきて「ワシが校長だ」って。
    この人は中学を出ていないんです。寺小屋です。あのころは広島高等師範に各府県で二人ずつ推薦されたんです。東亜同文書院もそうでしょ。それで小学校の 先生しているうちに推薦されて広島行ったんです。広島で英語科出て、京都大学に行った。ですから…哲学なんかやった人ですから、頭もいいし、話なんかもい い話していると私は思っていました。ところが12月8日の詔書、あれを校長がずっと読んでいって、最後のところ「昭和16年12月8日」それを明治16年と読んでしまった。いつも読み慣れていた教育敕語が「明治」23年だったンで。それを教練のマントクがごちゃごちゃ言うて…。
    もっとも、長坂校長もちょっと先生のあいだで評判が悪かったんです。ところが僕はあのひとはしっかりしたいい人だと思っていたんで
    「自分たちでなんとかしよう」
    と、ある先生に言うたンです。そしたら、その先生は
    「アレはあかん。」
    僕はそれからその先生を軽蔑しましたね。その先生は渡世術のうまい人で関東の中学へ行って教頭になりました。一年か一年半、教頭やって大阪に戻ってきま した。大阪市の中学に行き、しばらくして工業学校の校長になりました。頭もいい人でしたけれど、僕はそのやりかたは感心しなかったです。

    その次が、例の田村校長。北野中学といえば天下一の自由主義の学校だったから、それをなんとかしなければというてやってきた。あの人が来るときに私たち教員はみんな門から校舎までずっと並んだんです。
    僕が仮に校長だったら、あの時にね
    「ご苦労です」
    とか言うと思うのです。ところが、あの人はこちらを見もしない。
    で、校舎に入ったら教頭が
    「みんな入ってくれ」
    言いますから、入って…その時、校長が何て言ったのか忘れましたが…僕は
    「この校長、コレはいかんわ」
    と思った。

    僕は校長に話があるとき、校長官舎にビール2本持って行ったですよ。すると、よろしいと言う。買収したんですよ。でも、あの頃ビールは配給が月2本で、その2本は貴重ですよ。

    浜田校長のときには兼務で府庁へ行ってました。私は校長に、
    「すみませんけど、府庁に行く前に毎朝学校に来て、廊下をくるくる廻って行ってください」
    と言いました。
    「なんでかというと…校長は、やっぱり校長がおるゾということを生徒に知らしめてほしいのです」
    と。そうしたら
    「そうか」
    と言うて、本当に3日坊主…3日でやめました。

    PTAを作れという時、各校から校長あるいは1名出て来い言われ、浜田校長が
    「忙しいから、君行ってくれ」
    言われて行ったんです。英語の先生だから僕が行ったんです。イギリス人の女の子が出てきて説明してくれました。それでわかったことは、アメリカのPTAは外部のことをするということ。学校の教室借りて、みんな集まってもらって、その付近の社会問題をやったりする。
    日本には、まだPTAといわなかったけれど、保護者会というのがあって…金取って、えらい違いですなあ、ということがわかりました。
    学校に帰って浜田校長にこのことを話しました。
    「それじゃあ作ろう、規則をどうしようか…僕が作る」
    って。1週間ほどして持ってこられた。大阪府のほうからも、こういうふうに作れと言ってきたので、それに合わせて今のができたんです。

    私が持上がりで4年を持ってるときに修学旅行についてったんです。すると厳島神社でよその学校と喧嘩になった。その前日にも、松山のお城で飲んでおった ラムネのビンをほってしまった。それで、松山高等学校に行っている先輩が今問題になりかけていると宿に言うてきた。うそか本当かわからんけど、お金をは らってすませました。
    その翌日には喧嘩しとる…そんな悪いことがあったんで、こんなことだったら修学旅行やる必要ない、いうてやめたんです。そのかわりとして、満州旅行、上 海・南京の旅行を1年交代でやることになったんです。運よく「水鳥、おまえ行ってこい」言われて行ったんです。それが、今度は戦争になったからやめまし た。その後、高校になっても、まだその空気がありましたから、修学旅行はなかったんです。それではかわいそうだというので、女子だけ、男子はいつでも行ける ことがある、女子は行く機会が少ないから。それがずうっと続いておった。それが元に戻りまして今は両方一緒に行っています。

    聞き手●坂本 彬、佐野哲郎(61期)、
    岸田知子(78期)、寺井あかね(81期)
    収 録●Feb.15,1997

    写 真●Aug.23,1997(後日、別件で撮影)

Update : Sep.23,1997

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