恩師を訪ねて【第5回】

北野に還るまでの遍歴

寺田正一郎先生

    北野(中学)を卒業して旧制大阪高校へ。国文の岩田和郎教授の受持ちでした。平安朝文学の大家、吉沢博士の愛弟子で、博士のお嬢さんをお嫁さんに貰っているような人…その先生の勧めで京大の国文へと進むわけなんですが。とにかく当時の旧制高校には「語学で人間形成」というような方針があって、ドイツ語なども週8時間も授業があってガンガンしぼられましたよ。学期初めに 前学期の成績が一斉に張り出されるんですが、1/3くらいはみな落第点が付けられてました。非常に語学教育が厳しかったのを覚えていますね。

    さて、それで京大に行った。文学部ですからね。ちょうど卒業当時の昭和14年というと今のような就職難の時代でね。なかなか就職先が無い。それで1ケ月くらい家でブラブラしていたら、ついに母親からも「みっともないから何とかしろ」とヤイヤイけしかけられて。
    そうこうするうちに京大の教授から「福井の武生中学に先生の口があるから行ってみないか」と誘われた。何でも…先に紹介した奴が面接の折に先方の校長と喧嘩して帰ってきたらしくて…その穴埋めだったんだね。行ってみると、福井県の学務課長なんかを歴任した校長で、それが鼻にかかって大いばりなんだね。学務課長といえば今の教育長みたいな役職ですよ。それで 先達が喧嘩になった理由がよく分かったのだけれど、教授から「くれぐれも後進のことを考えて行動してくれ」と釘を差されていたこともあるし、やはり面接で 「ボクは県の学務課長をね…」というくだりになったので、すかさず「はァ、それは大変な要職で」とか何とか言ったら、その日のうちに採用が決まってまし た。

    武生というのは人情も厚くて非常に良い土地柄なんだけれど、いかんせん雪が多くてね。冬が暗いんだよ。それで教授に「何とか明るいところへ…」とお願い していたら、姫路の工業学校の口ができた、と。それで武生中学には2年半くらい居たかな…ふたたび関西の地に帰ってきました。

    姫路工業には終戦間際まで勤務したのですが、たまたま池田中学(現、池田高校)の校長が大学の先輩で…それで池中に引っ張っていただいた。もうその頃は、大阪の中学の先生も戦争で人材が少なくなっていて…とうとう、こんな私にすら赤紙(召集令状)が来たんです。池中のほかの先生方が最後のにわとりを一羽つぶして、それこそなけなしのお酒をかき集めて送別会をしてくれました。それで8月15日に終戦でしょ。私の入営日は確か20日だか23日だか(忘れましたが…)とにかく先に戦争のほうが終わってしまった。

    どうしたものか…困惑したけれども、西区の兵事課に問い合わせたところ「キミは召集令状を何と心得るか。天皇陛下が貴君をお召しになっておられるのです ぞ。私は空襲のさなか、この兵事書類を燃やしてはなるまいと命をかけてお守りしてきた。貴君も勇躍、営門をくぐるべきだ」と激励を受ける始末。仕方がない ので奉行袋に遺髪・爪・遺書を準備して大阪の連隊の営門を訪ねたのです。

    世の中は面白いもので…戦争は終わっているのに、営門には「祝◯◯君御入営」なんて幟を立ててエールを送りにきている人がいるんですよ。しかも私は門兵に「何ダ、お前…ボタンが外れておるじゃないか」と怒られもして…。
    そうして最後に逢った営門司令だか下士官だかが言うには「よく来てくれた。ありがとう。しかし…分かっとるやろ。この令状は破棄して、家に帰ってくださ い。」と。その時の赤紙は破棄もせず長い間大事にしていましたが…引越しか何かの大掃除の時にどこかに失くしてしまいました。

    さて、池田中学に帰りますと教頭が「おや、もうお帰りですか。ところで…軍隊で何を貰ってきましたか?」と尋ねるんですね。中には牛やら馬やらを持ち帰った豪傑もいたとかで…。もちろん、私は手ぶらでしたけれど。

    そうして、池田中学は新制池田高校に変わり、私は戦後28年まで在職しました。その時の綽名が「あんま」先生でした。池田の後藤校長が北野の林校長と懇意だったらしく、「母校の北野が先生を欲しがっているそうだ。君、行きますか」というので転任が決まったのです。

    聞き手●菅 正徳(69期)、谷 卓司(98期)
    収 録●Jan.15,1998

Update : Feb.23,1998

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