恩師を訪ねて【第12回】

母が敷いてくれたレール

西川昭子先生

      • ※1 藤村女子中学・高等学校の創立者
        ※2 京都市立堀川高等学校音楽課程・現京都市立音楽高等学校
  • 音楽の先生なるていうことは全然思ってなかったんです。女の子いうのは、結婚して主人に食べさせてもらうのに大学いかんでもええ、という気持ちだったんで すよ。それと、私は3月20日生まれでもわかるように、すごいこと奥手だったんですよ。だからね、大阪の北田辺小学校の1年のときに担任の先生がおトイレ 行きはったのでびっくりしてね、帰ってから「先生がお便所行かはった」言うたら、母に「何ばかいうてんの」と笑われましたけど、私にしたらそんなんもすご いことショックだったんです。
    昭和7年頃 姉が5つ上にいて、小学校3年からバイオリンをやらされていて、ギィーコと弾いていたらとたんに怒られたりして泣いているから絶対にバイオリンはするまい と思てね。そしたら母がピアノ習おか言うたかどうか覚えてないんですけど、気がついたらもう金澤孝次郎先生というすごい先生、そこにね、小学校2年生から 行かされたんですよ。その前、もう4つくらいから楽譜を読むことだけは母が遊びの中で勉強さしてくれてね。そのときはそんなにいやではなかって「ドーちゃ ん、レーちゃん、ミーちゃん」言えばねえ、お菓子の一つや二つもらえるという感じでね。それが今度金澤先生のところについたら、別につらいことはないんだ けど、練習しようとすると人と遊べない。だからそんなのがイヤでねえ、なんでせんならんの … と。ピアノ買ってもらったときだけはうれしかったですけどね。

    そう、母がやりたかったんですよ、音楽は、結局。母は今の東京女子体育大学の前身に大正12年に尾道の県女から行って卒業してるんですよね。それもね、あそこは丁度デンマーク体操というのを藤村トヨ(※1)と いう先生が持って帰ってこられて、もう洒落たことを教育の中に入れられててね。授業の一環として帝劇でオペラを聴いてんですって。今の芸大、昔の上野の音 楽学校の土曜コンサート、今でもやってますけれど、無料で生徒たちでやって、それ聴いていいなあと思って。その前に彼女の女学校の担任の先生が音楽の先生 だったということもあって、好きで好きでたまらなかったんでしょう。それで体操と音楽の免許をもっていて明浄女学校(現明浄高等学校)というとこで7年ほ ど勤めたんです。

    父はね島津製作所に務めていました。父が京都の本店に転勤することになったんですが、母は京都という土地柄が好かんとか、方向が悪いとか 言うて、父を1年間、大阪の文の里から京都の西大路まで通わしたんです。でも「たまらんから変わってくれ」言うて、父が勝手にこの家探したんです。昭和 15年 … 私が小学校5年生になるときですから。それからはあんまりいいことなかったと母はいつも言うてましたね。大阪だったら空襲で焼かれたかもしれないとも思っ たけれど、それがね、大阪の文の里の家も戦災では焼かれていなくってまだあるんですよ。明浄の女学校も。今の鴨沂高校の前身の京都府立第一高等女学校に入りました。昭和17年に入って22年に5年卒業。あの頃の教育課程てどないなってたんか、はじめ は5年制で入ったのだけれど、3年で出てもよい、4年でもよい、5年でもよいという、いい加減なことだったの。よくできる人は女子医専(現関西医科大 学)、それと奈良の女高師(現奈良女子大学)へ行きましたね。私はそんな気持ちはさらさらなくってちょっと宝塚が好きで一所懸命通たりして、ピアノもチョ ロチョロ弾いていたりしていましたが、あんまりおおぴっらに弾くと非国民と言われるでしょ、その頃やからねぇ。

    昭和19年一 番好きだったのはやっぱり歴史だったです。それと地理。府一の高等科へ行っているときに英語も好きになって。というのは、終戦後、旅順の工科大学だとか満 州とかのすばらしい先生方が帰国され府一の高等科に来はったんです、たくさん。そんな先生は私らの英語の程度も知らんと、難しいことばっかりやらされて。 ですから今でも覚えてんの、George Robert Gissing の “Miss Rodney’s Leisure” とか “Humplebee” なんか。そんなのをね、1週間前にクラス代表が先生から本を借りて板書するんですよ、黒板に。それをみんなが写すの。それをやみくもに訳していくわけ。だ から文法も何もあったもんじゃぁ。それでも好きになりましたねぇ。だけど、女学校時代いうたら、ほんとにねぇ、体操もできなくって、いっぺん体操の先生が 「そこの何番目、上の式台へ上がってやってみぃ」言いはったから、これは誉めてもらえるのか思て行ったら、悪い見本でやらされたんですよ。そして胃腸が弱 かった関係か脳貧血でよく倒れてねぇ。ほんとに取り柄もない生徒だったです。

    女学校の5年生を出てどこというあてもないから、高等科という2年課程の専攻科に行ったのですが、その2年生のときに、堀川に公立として日本で一番初めての高等学校の音楽コース(※2)が できるってことでそちらに行ったんです。堀川は昭和23年10月に開校したんです。それもね恥ずかしい話なんですが、私はどうしても行きたいということで もなかったんです。母は、女は結婚するまでに人よりもちょっとできることをもっておいて、それも家でできるキレイな仕事でないといけないと言うてました。 男だったら生活に困ったらヨイトマケ(力仕事)も出来るけれど、女はそうは行かないでしょ。そして、あんたせっかくやったんやからもう一回やってみないか 言われて。でもねぇ、私にしてみたら2年も下がるのいうのは、やっぱりちょっとね、落第じゃないっていうても。まあ、でも入れて頂いたんですよ。で、堀川 ではね、私が一番年が上だもんだからと思って、一所懸命お掃除をしたり、ずいぶんええかっこして、お姉さんぶってたんです。

    堀川を出たあと、私はすぐに入れる京都学芸大(現京都教育大学)に入ったんですよ。当時父が失職してたんです。姉は東京の国立(クニタチ)音 楽大学へ行ったんですけどね。京都学芸大学は当時音楽の程度がとても低くってね。見るに見かねて福本いう教授が「西川さん、ここいてたらつまらんやろ。ぼ く目ぇつむるさかいな、あんた東京芸大受けてもええで」と言われたんです。そこで2年生になるときに好きな語学と歴史のできる楽理科を受けたんですよ。あ そこは4次くらいまで3月一杯試験があるんですよ。で、一つずつ落として行くんですよ。昭和26年頃の東京というたら、上野公園にまだ葦簾張りの部落がずーっとあってね。夜、上野公園入ったらいけませんという時代でしょう。私とこ東 京に親戚は一軒もないから、小学校の同級生が東大の法科へ行ってたんで、その子のお母さんにうちの母が頼んで下宿を世話してもらったんです。お布団も全部 送って。東京に行くのに、ハイヒールがかっこういいよ言うて買ってもらったんです。それにその頃出たとっても透明感のあるデュポンのナイロンの靴下も。そ したら東京へ着いたらもうそれがビリーっといってるしね。そして下宿行くまでにその靴が履いてられないんです、痛くって。西荻窪の駅前でつっかけ下駄買っ て、ハイヒールをひっさげて初めてのおうちへお世話になりに行ったんですよ。

    昭和27年結 局、私、4次テストで落ちましてね。4次テストは何かいうたら面接なんです。芸大の面接いうたら、楽歴、何先生に習ってましたかいうてね。いや、ほんとい うたら誰にコネクションあるかいうことなんかいかんことでしょう。そやのにそれ聞かれたけれど、私が習ってた先生は、京都だったら、ピアノは梅田志づ先生 で、声楽は上村けい先生だったから、そのお名前を言うたら「京都から来る人はたいてい梅田先生と上村先生ですね」と言われたことを覚えてます。それなのに すべりましてね。悲しかったけれど、そんなにものすごく悲しいとは思わなかったです。そのとき受験番号が102番だったんですが、103番が現在ピアノ伴 奏で有名な小林道夫さん、彼が後ろだったんです。彼とは後で東京へ行ってからの聴音とか理論の先生が一緒でね、可愛いぼっちゃんやなぁ思て、一緒にやった ん覚えてます。

    その後3年生になるときに、また福本教授が「西川さん、内地留学という形だけれど受けてみないか、芸大へ」と言ってくれはったんです。だ から福本先生はよほど私が合わない学校へ来たんだ、かわいそうだとか思ってて下さったんですね。それでまた行くことになったんです。今度はピアノで行った んです。それで卒業証書としては京都学芸大学だけど、修了証書は東京芸大なんです。そして丁度いいことに姉がジャズのピアニストと恋愛結婚してまして、最 初は姉の下宿しているところに下宿させてもらったんです。そしたらまた丁度いいことに、先生の内地留学いうことで学芸大学の声楽の佐藤清先生が芸大へ来ら れて、とても心強かったというか、佐藤先生の伴奏をさせてもらったり、下宿先でパーティーみたいなことさせて頂いたりしてねぇ。そのかわり、その2年間は すごい頑張りましたねぇ。というのは家にピアノがないでしょ。学校のピアノでしか練習が出来ないのです。レッスン室にいたら、素晴らしいピアノが聞こてく るし、素晴らしい声が聞こえてくるしね。だけど試験前になるとおんなじような曲が聞こえて来るというのはすごいことプレッシャーですよ。いやというほど劣 等感も味わいましたねぇ。

    昭和29年2月26日だ けど素晴らしい先生がたくさんおられて、渡邉曉雄先生もアメリカから帰ってこられて、指揮を教えて下さった初めての学年が私たち。それから音楽史も向こう で勉強されて帰ってこられた服部先生に習うことができてね。ほんとに何時間あっても足らないという感じ。私は6人兄弟だから6分の1しかお金使ったらいけ ないのに、絶対6分の1よりたくさん使ってる思てね。だから文化祭の頃なんかも自分で探してアルバイトもしましたね … たまたまこないだ、東京のイタリア文化会館へ行ったとき、靖国神社の横を通りましてね、昔向かい側に学徒援護会というのがあって、アルバイトをお世話して もらっていたのです。あぁなつかしいなぁと思て。東京に行ってからわりかた元気になったりして、『可愛い子には旅をさせよ』という言葉というのは私には当 てはまったと思いますね。

    結局、府一を出てから堀川の音楽コースへに行ったこと、それからの方向が今の私を創ってくれました。その創ってくれたのも、私の意志はひとっつもなくて、 母のおかげだと思うんです … そう思うのに、小さいときからひがみ根性が強かったのか、母に産んでほしくなかったとか、生まれたくなかったとか、そういうことを言ってたんですよ。それ にはうちの兄弟の順番と関係があって、姉がわりかた早うからバイオリンの演奏会に立ったり、合奏団 ― 朝比奈隆さんがビオラを弾きに来てはったんですよ ― に入ったりしてたんです。私はそのときには小さいから花束もって出る役、よくしてたんです。で、姉にはすごく光があたって、おばあちゃんにもよくかわいが られてたんです。姉のあと5年たって私が生まれたんですが、男の子がほしかったようなんですよ。それでまた私の5年あとに長男が生まれてきたわけ。私はお 父さんが好きだったし、ある程度のときまでお父さんみたいな人と結婚しようと思ってたんです。しかし、母に反抗しながらも、一番母親に忠実だったと思いま すね。それは一つはね、お母さんにかわいがってもらって、お母さんの言う通りしてた方が、具合がいいでしょ、一緒に暮らしてるのに。いい子になろうという 下心もありましたね。ちょっといやな子でしたね。スラって言ったことは、親ってほんとに気にしますから気ぃ付けないけませんね。父が亡くなって母と二人のときに「私は一人暮らしが好きなんだ」と いうことを言ったんですよ。そしたら母は気にしてね、姉に電話をかけ、「アコちゃんいうたら、こな言うてるけどね、私が早う死んだらええと思てんのかし ら」ってこんなこと聞くんですよ。う~ん、だから私は言ったらいかんことをたくさん言うてきてね。だから生徒にも言うたらいかんことも言うてきてると思う んです。それなのにね、卒業してからみんなにお世話になってねぇ。ほんとにありがたいことです。だから私がかかってるお医者さんいうたら、みな北野と関係 のある人ばっかりなんです。

    聞き手●今城文雄(78期)、岸田知子(78期)、石倉秀敏(84期)、佐伯新和(98期)、
    谷 卓司(98期)、磯辺 香(107期)、岸田逸平(108期)
    収 録●Dec.19,1998
    (京都市左京区岡崎のお宅にて)

Update : Feb.23,1999

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