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		<title>恩師の近況1997【家庭科】</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Feb 2010 15:56:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[朝井美子先生
【家庭科】
昭和26年～昭和28年
 平成3年に主人を送ってから、全く自由に前向きの日々を過ごしています。極めて健康、本年はトルコの遺跡を訪ねてきました。健康な間は、ボランティアに励んでいます。
大江隆子先生
【家庭科】
昭和25年～昭和27年
神戸女子短期大学教授。調理学・食生活論担当
著書　『兵庫県の郷土料理』同文書院
『調理学』医師薬出版株式会社
小池美代子先生
【家庭科】
昭和24年～昭和26年
わずかの期間でしたけれど、すばらしい方々と遭わせて頂いた北野時代は楽しい思い出で一杯です。有難うございました。
現在65期の三浦徳子さんと共に、須磨琴（一絃琴）の保存普及のため、その指導と演奏活動に多忙の日々を送っています。
高田貞子先生
【家庭科】
昭和25年～昭和51年
北野を退職してから21年がたってしまいました。その間の前半は私学の女子大学や短大の非常勤講師を勤めさせて頂いたり、海外旅行をしたりして過ごしましたが、後半(現在)はのんびりと毎日を過ごしております。
息子が大阪に就職してより、家を二世帯住宅に改装し、一人で自分勝手に暮しております。幸い中学生と小学生の男女の孫がいますので、退屈することもな く、親との連絡係をしてくれております。健康状態は、老人特有の障害はありますが、一年を通して寝込むこともなく、元気に過ごしております。今のところ は、何処へでも出かけられますし、忘れっぽくなりましたが、まだボケの仲間入りは致しておりません。
家庭科の教師らしく、食事に気をつけ、身体をよく動かし、くよくよしない日々を送っております。
Last Update : Sep.22,1997
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>朝井美子</span>先生</p>
<p>【家庭科】<br />
昭和26年～昭和28年</p>
<ul> 平成3年に主人を送ってから、全く自由に前向きの日々を過ごしています。極めて健康、本年はトルコの遺跡を訪ねてきました。健康な間は、ボランティアに励んでいます。</ul>
<p><span>大江隆子</span>先生</p>
<p>【家庭科】<br />
昭和25年～昭和27年</p>
<p>神戸女子短期大学教授。調理学・食生活論担当<br />
著書　『兵庫県の郷土料理』同文書院<br />
『調理学』医師薬出版株式会社</p>
<p><span>小池美代子</span>先生</p>
<p>【家庭科】<br />
昭和24年～昭和26年</p>
<p>わずかの期間でしたけれど、すばらしい方々と遭わせて頂いた北野時代は楽しい思い出で一杯です。有難うございました。</p>
<p>現在65期の三浦徳子さんと共に、須磨琴（一絃琴）の保存普及のため、その指導と演奏活動に多忙の日々を送っています。</p>
<p><span>高田貞子</span>先生</p>
<p>【家庭科】<br />
昭和25年～昭和51年</p>
<p>北野を退職してから21年がたってしまいました。その間の前半は私学の女子大学や短大の非常勤講師を勤めさせて頂いたり、海外旅行をしたりして過ごしましたが、後半(現在)はのんびりと毎日を過ごしております。</p>
<p>息子が大阪に就職してより、家を二世帯住宅に改装し、一人で自分勝手に暮しております。幸い中学生と小学生の男女の孫がいますので、退屈することもな く、親との連絡係をしてくれております。健康状態は、老人特有の障害はありますが、一年を通して寝込むこともなく、元気に過ごしております。今のところ は、何処へでも出かけられますし、忘れっぽくなりましたが、まだボケの仲間入りは致しておりません。</p>
<p>家庭科の教師らしく、食事に気をつけ、身体をよく動かし、くよくよしない日々を送っております。</p>
<p><span>Last Update : Sep.22,1997</span></p>
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		<title>恩師の近況1997【保健体育科】</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Feb 2010 15:54:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[玉置　勝先生
【保健体育科】
平成元年～平成5年
 平成6年度より、私立履正社高等学校の教諭（保健体育科）として、そしてラグビー部の監督としてがんばっております。毎年、夏は北野高校ラグビー部と合同で合宿させていただいております。今春(3月30日)やっと結婚いたしました。また、現在ラグビーのレフリーとしてもがんばっておりまして、今年は前任の田中伸明先生と一緒のトップレフ リー研修会に参加できるまでになってきました。TV等でラグビーの試合が放映されるときに、私がレフリーしていないか見てみて下さい。
 Last Update : Sep.22,1997
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			<content:encoded><![CDATA[<p><span>玉置　勝</span>先生</p>
<p>【保健体育科】<br />
平成元年～平成5年</p>
<ul> 平成6年度より、私立履正社高等学校の教諭（保健体育科）として、そしてラグビー部の監督としてがんばっております。毎年、夏は北野高校ラグビー部と合同で合宿させていただいております。今春(3月30日)やっと結婚いたしました。また、現在ラグビーのレフリーとしてもがんばっておりまして、今年は前任の田中伸明先生と一緒のトップレフ リー研修会に参加できるまでになってきました。TV等でラグビーの試合が放映されるときに、私がレフリーしていないか見てみて下さい。</ul>
<p><span> Last Update : Sep.22,1997</span></p>
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		<title>恩師の近況1997【芸術】</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Feb 2010 15:53:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[木川田　誠先生
【音楽】
昭和32年～昭和37年
 北野を退職後、昭和39年に同志を語らい、声楽家の団体を結成。 爾来33年、いつの間にかオペラ演奏団体として認められ、春秋2回の定期公演を中心に500名近い会員を擁して頑張って居ります。 悲願のヴァグナー原語上演を実現するに及んで、30年余りの努力は無駄でなかったと振り返って居る今日この頃です。同窓会長稲畑勝雄氏には北野の御縁で絶 大な御協力を頂いて居ります。是非、みなさんもオペラに足を運んで下さい。小生のプロフィールを記します。
木川田　誠【声楽・バリトン】
昭和32年、東京芸術大学を卒業後、関西を代表するバリトン歌手として数多くのリサイタル、オペラ、オラトリオ、歌曲の演奏会への出演と幅広い演奏活動をしている。昭和39年、4人の仲間とともに声楽研究団体である関西二期会を創設し、我国を代表するオペラ演奏団体に育て上げ、その総師としてこの33年間、困難をきわめるオペラ制作や新人の育成を意欲的にこなしている。
また、相愛大学音楽部長として後進の指導や大学運営に携わるほか、日本シューベルト協会や日本演奏連盟等の役員として音楽界の発展・向上につとめ、あまがさき未来協会理事として地域の発展に尽力するなど多彩な活動を続けている。
昭和51年尼崎市民芸術賞を、昭和63年兵庫県文化賞を受賞、昭和54年にはヤナチェック作曲オペラ「利口な女狐の物語」を本邦初演した功績により、チェコスロバキア共和国からヤナチェックメダルを受章している。
現在、相愛大学教授、関西二期会理事長、関西二期会オペラ活動支援賛助会専務理事、二期会オペラ振興会理事、あまがさき未来協会理事、日本シューベルト協会常任理事。
内藤伸彦先生
【美術】
1985年～1995年
 山田高校であいかわらず美術教師をしています。あいかわらず、絵を描いていますが、「非具象」の世界にさまよい、一匹狼?でやっています。「恩師を訪ねて」と言われると、とまどいます。かつて北野高校で教鞭をとっていた者の一人にはなるのですが、「恩師」のカテゴリーには入らないと思います。
Last Update : Sep.20,1997
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>木川田　誠</span>先生</p>
<p>【音楽】<br />
昭和32年～昭和37年</p>
<ul> 北野を退職後、昭和39年に同志を語らい、声楽家の団体を結成。 爾来33年、いつの間にかオペラ演奏団体として認められ、春秋2回の定期公演を中心に500名近い会員を擁して頑張って居ります。 悲願のヴァグナー原語上演を実現するに及んで、30年余りの努力は無駄でなかったと振り返って居る今日この頃です。同窓会長稲畑勝雄氏には北野の御縁で絶 大な御協力を頂いて居ります。是非、みなさんもオペラに足を運んで下さい。小生のプロフィールを記します。</p>
<p><strong>木川田　誠</strong>【声楽・バリトン】<br />
昭和32年、東京芸術大学を卒業後、関西を代表するバリトン歌手として数多くのリサイタル、オペラ、オラトリオ、歌曲の演奏会への出演と幅広い演奏活動をしている。昭和39年、4人の仲間とともに声楽研究団体である関西二期会を創設し、我国を代表するオペラ演奏団体に育て上げ、その総師としてこの33年間、困難をきわめるオペラ制作や新人の育成を意欲的にこなしている。</p>
<p>また、相愛大学音楽部長として後進の指導や大学運営に携わるほか、日本シューベルト協会や日本演奏連盟等の役員として音楽界の発展・向上につとめ、あまがさき未来協会理事として地域の発展に尽力するなど多彩な活動を続けている。</p>
<p>昭和51年尼崎市民芸術賞を、昭和63年兵庫県文化賞を受賞、昭和54年にはヤナチェック作曲オペラ「利口な女狐の物語」を本邦初演した功績により、チェコスロバキア共和国からヤナチェックメダルを受章している。</p>
<p>現在、相愛大学教授、関西二期会理事長、関西二期会オペラ活動支援賛助会専務理事、二期会オペラ振興会理事、あまがさき未来協会理事、日本シューベルト協会常任理事。</ul>
<p><span>内藤伸彦</span>先生</p>
<p>【美術】<br />
1985年～1995年</p>
<ul> 山田高校であいかわらず美術教師をしています。あいかわらず、絵を描いていますが、「非具象」の世界にさまよい、一匹狼?でやっています。「恩師を訪ねて」と言われると、とまどいます。かつて北野高校で教鞭をとっていた者の一人にはなるのですが、「恩師」のカテゴリーには入らないと思います。</ul>
<p><span>Last Update : Sep.20,1997</span></p>
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		<title>恩師の近況1997【理科】</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Feb 2010 15:52:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[今中利信先生
【化学】
昭和29年～昭和35年
 大阪大学を定年退官後、関西学院大学理学部大学院で触媒化学、大阪青山短期大学で地球環境論の講義を非常勤講師として担当しています。現在、触媒作用に関する本を書いています。また、川西猪名川ロータリークラブで楽しくやっています。さらに第2名神自動車道(最高速度120km/h、1日の交通量26000台)が住居の近くで計画されています。これに対して、近隣の21自治会で、大気 汚染、騒音、低周波音などの公害を殆ど解消することの出来る触媒法を含むトンネル案(東畦別案)を要求して活動しています。
 唐津正之先生
【理科物理】
昭和63年～平成7年
 北野から西淀川に移って2年、タイプの全く異なる高校に勤めながら、なぜか元気です。また、なぜか北野の卒業生の人達がフラリと西淀川の物理準備室に遊びに来てくれたりもします。現任校の、勉強は苦手であるけれども人なつっこい生徒達と北野で出会ったすばらしい卒業生達に囲まれ、この上なく充実した日々を送っています。
先日、元北野の同僚と、上の絵を書き送ることについて、話し合っていました。
「この絵、ホームページにのせてもらえるだろうか」
との私の問いに対して、
「北野で山ほどの生徒がノートに書いてきたキャラクターだからのせてくれるだろう」
という意見もあれば
「いくら授業で使ったキャラクターだと言っても、伝統ある北野高校が、ホームページに漫画をのせたりはしないだろう」
という意見もありました。とりあえず送って、正解をみたいと思います。
 猿田　茂先生
【化学】
昭和53年～平成5年

松原高校で、普通科、専門学科につぐ第3の学科である総合学科の実施についての作業をしています。理科の授業も当然していますが。山岳部がない為、先生方や子供をつれて山へ行っています。
福田博造先生
【理科物理】
昭和25年～59年
昭和59年3月北野高校を退職してからはや13年余り過ぎました。退職後、京都にある近畿予備校で物理の講義をしています。
2人の子供(長女は昭和48年、長男は昭和50年北野高校卒業)は何れも既に独立し、老夫婦2人が健康に留意しながら静かに過ごしています。　5年後に北野高校の新校舎が完成する予定と聞いており、楽しみにしています。
福田和子先生
【生物】
昭和23年～昭和29年
 北野を去って40有余　主婦として年相応の穏やかな暮しの日々で2人だけの気ままな生活は、文字通り二人三脚と言いたいところです。ひたすら健康第一を心がけ、まずはそろって元気に金婚式を迎えられることを目標にと話しております。北野があってはじめて成り立った私共の家族は、全員人生の一時期を北野で過ごしたわけですので、本当に切り離せない深い縁を痛感し感謝している次第です。
現在、趣味として、還暦以来、阿部先生のご指導で書道を続けております。卒業生数人の方々とご一緒で話は通じやすく、たのしい時間を過ごしております。
頭や手先を使うことはボケ防止の一助にもなるそうで、一挙両得というところでしょうか。かくの如く平凡な日々をおくっております。
山本敏文先生
【地学・物理】
昭和38年～昭和63年
 小生は京大理学部宇宙物理学科を卒業して、北野高校で地学を担当していました。在職中は多くの先生方や、生徒達にいろいろお世話になりましたことを大変有り難く思っています。北野でのニックネイムは、人間コンパスと云われていました。地学の天文では、円を描くことが多く、自然とうまくなりました。在職時、北野高校の屋上に は、大阪府立高校第1に大きい口径30cmのニュートン式反射望遠鏡がありました。天体現象のいろいろを地学部員達と観測して印象深く思い出しています。
またいろいろの山で天体観望をしたこともなつかしいです。退職後は、お琴と日本画を趣味としてトレーニングしています。
Last Update : Sep.20,1997
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>今中利信</span>先生</p>
<p>【化学】<br />
昭和29年～昭和35年</p>
<ul> 大阪大学を定年退官後、関西学院大学理学部大学院で触媒化学、大阪青山短期大学で地球環境論の講義を非常勤講師として担当しています。現在、触媒作用に関する本を書いています。また、川西猪名川ロータリークラブで楽しくやっています。さらに第2名神自動車道(最高速度120km/h、1日の交通量26000台)が住居の近くで計画されています。これに対して、近隣の21自治会で、大気 汚染、騒音、低周波音などの公害を殆ど解消することの出来る触媒法を含むトンネル案(東畦別案)を要求して活動しています。</ul>
<p><img src="../../../../home/teachers/now1997/037.gif" alt="" width="256" height="152" align="RIGHT" /> <span>唐津正之</span>先生</p>
<p>【理科物理】<br />
昭和63年～平成7年</p>
<ul> 北野から西淀川に移って2年、タイプの全く異なる高校に勤めながら、なぜか元気です。また、なぜか北野の卒業生の人達がフラリと西淀川の物理準備室に遊びに来てくれたりもします。現任校の、勉強は苦手であるけれども人なつっこい生徒達と北野で出会ったすばらしい卒業生達に囲まれ、この上なく充実した日々を送っています。</p>
<p>先日、元北野の同僚と、上の絵を書き送ることについて、話し合っていました。<br />
「この絵、ホームページにのせてもらえるだろうか」<br />
との私の問いに対して、<br />
「北野で山ほどの生徒がノートに書いてきたキャラクターだからのせてくれるだろう」<br />
という意見もあれば<br />
「いくら授業で使ったキャラクターだと言っても、伝統ある北野高校が、ホームページに漫画をのせたりはしないだろう」<br />
という意見もありました。とりあえず送って、正解をみたいと思います。</ul>
<p><img src="../../../../home/teachers/now1997/021.jpg" alt="" width="256" height="256" align="RIGHT" /> <span>猿田　茂</span>先生</p>
<p>【化学】<br />
昭和53年～平成5年</p>
<ul>
<p>松原高校で、普通科、専門学科につぐ第3の学科である総合学科の実施についての作業をしています。理科の授業も当然していますが。山岳部がない為、先生方や子供をつれて山へ行っています。</ul>
<p><span>福田博造</span>先生</p>
<p>【理科物理】<br />
昭和25年～59年</p>
<p>昭和59年3月北野高校を退職してからはや13年余り過ぎました。退職後、京都にある近畿予備校で物理の講義をしています。</p>
<p>2人の子供(長女は昭和48年、長男は昭和50年北野高校卒業)は何れも既に独立し、老夫婦2人が健康に留意しながら静かに過ごしています。　5年後に北野高校の新校舎が完成する予定と聞いており、楽しみにしています。</p>
<p><span>福田和子</span>先生</p>
<p>【生物】<br />
昭和23年～昭和29年</p>
<ul> 北野を去って40有余　主婦として年相応の穏やかな暮しの日々で2人だけの気ままな生活は、文字通り二人三脚と言いたいところです。ひたすら健康第一を心がけ、まずはそろって元気に金婚式を迎えられることを目標にと話しております。北野があってはじめて成り立った私共の家族は、全員人生の一時期を北野で過ごしたわけですので、本当に切り離せない深い縁を痛感し感謝している次第です。</p>
<p>現在、趣味として、還暦以来、阿部先生のご指導で書道を続けております。卒業生数人の方々とご一緒で話は通じやすく、たのしい時間を過ごしております。</p>
<p>頭や手先を使うことはボケ防止の一助にもなるそうで、一挙両得というところでしょうか。かくの如く平凡な日々をおくっております。</ul>
<p><span>山本敏文</span>先生</p>
<p>【地学・物理】<br />
昭和38年～昭和63年</p>
<ul> 小生は京大理学部宇宙物理学科を卒業して、北野高校で地学を担当していました。在職中は多くの先生方や、生徒達にいろいろお世話になりましたことを大変有り難く思っています。北野でのニックネイムは、人間コンパスと云われていました。地学の天文では、円を描くことが多く、自然とうまくなりました。在職時、北野高校の屋上に は、大阪府立高校第1に大きい口径30cmのニュートン式反射望遠鏡がありました。天体現象のいろいろを地学部員達と観測して印象深く思い出しています。</p>
<p>またいろいろの山で天体観望をしたこともなつかしいです。退職後は、お琴と日本画を趣味としてトレーニングしています。</ul>
<p><span>Last Update : Sep.20,1997</span></p>
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		<title>恩師の近況1997【数学】</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Feb 2010 15:47:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[菊川映人先生
【数学】
昭和27年～昭和35年　定時制勤務（この間非常勤講師として全日制にも勤めた）
昭和37年～昭和55年
 現在は日々自由な時を送っています。
 博本正和先生
【数学】
1955年～1992年
92年3月北野高校を退職後、私立の履正社高校で現在まで教員生活です。専任ですから週6日勤務です。 　健康状態は良好と思います。
乗岡フミ先生
【数学】
昭和23年～昭和50年
 (1)　昭和23年(1948)4月北野高校に奉職致しました経緯につき申し上げます。  　昭和23年度に学生改革が行なわれ、そのための交流人事により前任高校の府立大手前高校から府立北野高校へ転任しました。その折は教員17名、生徒500名による移動でした。※(2)　昭和50年(1975)3月末を以て、北野高校を退職後は、直ちに大阪家庭裁判所の調停委員として平成7年(1995) 3月まで20年間勤務。平成6年10月には最高裁長官の表彰を受けました。
(3)　以下、近況報告となりますが、不幸にして平成9年5月24日、突然脳梗塞で倒れました。直ちに淀川キリスト教病院に入院、同年9月2日まで治療に専念ののち、9月3日リハビリ専門病院としての協和会病院(吹田市岸部北1丁目)に転院。現在に及んでいます。
 ※因みに北野高校からも教員ならびに生徒は、ほぼ同数の人数が大手前高校へ転校しました。
 御堂岡　啓先生
【数学】
昭和38年～平成8年
 半年前、34年間（71-37=34）勤務した北野高校を退職しました。思い出等色々ありますが、今の楽しみは囲碁（水泳も）です。極めて元気で天寿（生物学上は130歳位だそうですが、一寸無理かな）までボケずにガンバるつもりでおります。
 Last Update : Oct.1,1997
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>菊川映人</span>先生</p>
<p>【数学】<br />
昭和27年～昭和35年　定時制勤務（この間非常勤講師として全日制にも勤めた）<br />
昭和37年～昭和55年</p>
<ul> 現在は日々自由な時を送っています。</ul>
<p><img src="../../../../home/teachers/now1997/017.jpg" alt="" width="150" height="192" align="RIGHT" /> <span>博本正和</span>先生</p>
<p>【数学】<br />
1955年～1992年</p>
<p>92年3月北野高校を退職後、私立の履正社高校で現在まで教員生活です。専任ですから週6日勤務です。 　健康状態は良好と思います。</p>
<p><span>乗岡フミ</span>先生</p>
<p>【数学】<br />
昭和23年～昭和50年</p>
<ul> (1)　昭和23年(1948)4月北野高校に奉職致しました経緯につき申し上げます。  　昭和23年度に学生改革が行なわれ、そのための交流人事により前任高校の府立大手前高校から府立北野高校へ転任しました。その折は教員17名、生徒500名による移動でした。<span>※</span>(2)　昭和50年(1975)3月末を以て、北野高校を退職後は、直ちに大阪家庭裁判所の調停委員として平成7年(1995) 3月まで20年間勤務。平成6年10月には最高裁長官の表彰を受けました。</p>
<p>(3)　以下、近況報告となりますが、不幸にして平成9年5月24日、突然脳梗塞で倒れました。直ちに淀川キリスト教病院に入院、同年9月2日まで治療に専念ののち、9月3日リハビリ専門病院としての協和会病院(吹田市岸部北1丁目)に転院。現在に及んでいます。</p>
<p><span> ※因みに北野高校からも教員ならびに生徒は、ほぼ同数の人数が大手前高校へ転校しました。</span></ul>
<p><img src="../../../../home/teachers/now1997/019.jpg" alt="" width="150" height="192" align="RIGHT" /> <span>御堂岡　啓</span>先生</p>
<p>【数学】<br />
昭和38年～平成8年</p>
<ul> 半年前、34年間（71-37=34）勤務した北野高校を退職しました。思い出等色々ありますが、今の楽しみは囲碁（水泳も）です。極めて元気で天寿（生物学上は130歳位だそうですが、一寸無理かな）までボケずにガンバるつもりでおります。</ul>
<p><span> Last Update : Oct.1,1997</span></p>
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		<title>恩師の近況1997【社会】</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Feb 2010 15:46:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[ 井之元春義先生 【世界史・日本史】昭和36年～昭和41年
      簡単に私の経歴を記しておきます。北野高校から府教委に入り、学校現場に戻って、府立長野北高校教頭を経て、府立長野高校長6ヶ年やり、昭和60年3月末日に定年退職しました。本来が日本史が専攻ですので、それを生かして国史学科の講義のある奈良文化女子短大で十二年間専任教授をつとめ、平成9年3月末日で同短大を退職しました。　その間の大した学問業績ではないのですが、今年3月初旬に「楠木氏三代」として故郷の武将楠木正成・正行・正儀の活躍と人となり等を史論風にまとめて、大阪の創元社より発行しました。未だ大きな書店にならんでいる筈です。目下「武士道と近・現代思想」の執筆に、無い頭をしぼっています。天下の名門北野高校の勉学・スポーツ両面の活躍を祈って止みません。
柏尾洋介先生 【社会(世界史)】昭和41年～平成8年（1966年～1996年）
      昨年3月を以て、北野高校での30年(最後の5年間は特別講師)の生活をおえ、無職の年金生活者となりました。5年前に初めて約1ヶ月半におよぶ入院生活を経験し、現在も月に1～2回通院していますので、無病息災とは申せませんが、ベンキョーだけはやらねばと思っております。幸い先輩の深江浩先生 (1967～1973在職。『北野百年史』の共著者の一人)がオダテテ下さいますので、先生主宰の雑誌『あしかび』に昨年フランス革命史家マチェの文章の文字通りの拙訳をのせていただきました。細々とでもこの種のことは続けたいと思っています。小生にとっては「北野」は第二というよりも、精神的には真の母校です。いろいろ不十分な点はあるにせよ、「唯一の」学校です。『北野百年史』執筆を機に、本当にいろいろ学べたことを心から感謝しています。だから、(押しかけになっては悪いと思いますが)六稜同窓会にはいつでも喜んで協力いたしますから、御遠慮なく、必要なときにおっしゃってください。写真は今春、団体旅行でシチリアに行ったときのものです。セリヌンテ（古代ギリシア神殿遺跡）にて。
田村光一先生 【社会科】昭和52年～昭和58年
      府立貝塚南高校教諭から府立貝塚南高校教頭になり、その後府立柴島高校校長・府立島本高校校長・科学技術学園講師を経て、現在大阪経済法科大学入試広報部主幹として勤務しております。北野高校に比較的近い中津に住んでおりますので、北野高校生や北野高校を時々見聞し、その発展をうれしく思っております。
深江　浩先生 【日本史】 1969年9月～1973年3月
      北野では受験のためにも役立つと同時に、歴史的にモノを考えるおもしろさ、大切さについて、生徒諸君に学んでもらうことに苦心をしました。そのための副教材として『北野高校日本史演習』(B5判全4分冊)なるものを、作ったりしました。一方、村川、柏尾、水落の3先生と共に北野百年史編纂の仕事を浦野校長から命ぜられ、担任は69年度1年だけしかやらせていただけませんでした。今 NHKテレビ「日本人の質問」によく登場する阿辻哲次君なんかが私のクラスにいました。男子ばかり40人の面白いクラスでした。折からの学園紛争の闘士も幾人かいました。彼等はマジメで、私は真剣に彼等と議論したものです。オーケストラ部の顧問も勤め、よく合宿を共にし、そこで豊嶋和史君の指揮者としての才能に驚きました。 73年4月京都薬科大学へ転出し、教養の文学とドイツ語を担当することになりました。北野で教えた諸君ともまたあい見えることになり、私のドイツ語を危なっかしそうに聞いてくれておりました。薬大には18年おりまして、95年2月に定年退職しました。その間、同志社、立命館、花園などの文学部で、非常勤で、漱石や文学理論について講義しておりました。　退職後は、立命館、花園のほか滋賀医大や大阪府立看護大学の非常勤講師を勤めましたが、今年の4月以来は全くフリーになり執筆に専念しています。昨年は古希の記念に『漱石の20世紀』(翰林書房)なる本を出しました。私の研究領域は主として漱石とその時代ですが、理論的には、ルカーチとバフチンに学ぶところが大きいです。ルカーチから一番学んだことは、全面的な商品経済社会では対象となる世界がモノ化すると同時に、主体となるはずの人間の意識もモノ化するということ。従ってモノ化した世界や人間の意識をそのまま現実と見誤って書かれた文学作品は真にリアルな作品とは言えないということです。バフチンから学んだことは、生きた言葉はすべて対話的であること。それぞれ固有の見方を持って生きる諸個人と対話的に向き合い、作者の固定的な視点で登場人物を客体化しないことが新しいリアルな表現にとって大切であるという考え方です。これらは文学の問題を超えて現代にいきるものの姿勢として大切と思われます。今日の状況に問題を投げかけるような、真に文化の名に値する文化の発信基地になって下さい。
松浦賢二先生 【社会】昭和55年～平成5年
      平成5年の3月まで北野に在籍。4月より茨木東高校に転勤し、今年の2月、茨木東高校で卒業生を出しました。1、2、3年生をもちあがると、学校の全体像も見えてきます。これから茨木東高のために頑張ってみようかと思っていた矢先、知事事務部局私学課に出向することになりました。仕事の内容は、私立高等学校教育振興研究事業の研究員として、2年間、研究指定校で調査研究を行なうということで今年度から始まった事業のため、まだレールがはっきりしていません。やっていることは、月～木は金光八尾高校で世界史の授業をし、金曜日は私学会館で他の研究員と研究・協議といった状態です。最終的には、府の教育の活性化をはかるための方策を考えることになるだろうと思っています。　今年の6月、用事があって北野に行きましたが、私がいた時のままの校舎を見て、とても懐かしく思いました。
Last Update : Sep.20,1997
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p> 井之元春義先生 【世界史・日本史】昭和36年～昭和41年</p>
<p>      簡単に私の経歴を記しておきます。北野高校から府教委に入り、学校現場に戻って、府立長野北高校教頭を経て、府立長野高校長6ヶ年やり、昭和60年3月末日に定年退職しました。本来が日本史が専攻ですので、それを生かして国史学科の講義のある奈良文化女子短大で十二年間専任教授をつとめ、平成9年3月末日で同短大を退職しました。　その間の大した学問業績ではないのですが、今年3月初旬に「楠木氏三代」として故郷の武将楠木正成・正行・正儀の活躍と人となり等を史論風にまとめて、大阪の創元社より発行しました。未だ大きな書店にならんでいる筈です。目下「武士道と近・現代思想」の執筆に、無い頭をしぼっています。天下の名門北野高校の勉学・スポーツ両面の活躍を祈って止みません。</p>
<p>柏尾洋介先生 【社会(世界史)】昭和41年～平成8年（1966年～1996年）</p>
<p>      昨年3月を以て、北野高校での30年(最後の5年間は特別講師)の生活をおえ、無職の年金生活者となりました。5年前に初めて約1ヶ月半におよぶ入院生活を経験し、現在も月に1～2回通院していますので、無病息災とは申せませんが、ベンキョーだけはやらねばと思っております。幸い先輩の深江浩先生 (1967～1973在職。『北野百年史』の共著者の一人)がオダテテ下さいますので、先生主宰の雑誌『あしかび』に昨年フランス革命史家マチェの文章の文字通りの拙訳をのせていただきました。細々とでもこの種のことは続けたいと思っています。小生にとっては「北野」は第二というよりも、精神的には真の母校です。いろいろ不十分な点はあるにせよ、「唯一の」学校です。『北野百年史』執筆を機に、本当にいろいろ学べたことを心から感謝しています。だから、(押しかけになっては悪いと思いますが)六稜同窓会にはいつでも喜んで協力いたしますから、御遠慮なく、必要なときにおっしゃってください。写真は今春、団体旅行でシチリアに行ったときのものです。セリヌンテ（古代ギリシア神殿遺跡）にて。</p>
<p>田村光一先生 【社会科】昭和52年～昭和58年</p>
<p>      府立貝塚南高校教諭から府立貝塚南高校教頭になり、その後府立柴島高校校長・府立島本高校校長・科学技術学園講師を経て、現在大阪経済法科大学入試広報部主幹として勤務しております。北野高校に比較的近い中津に住んでおりますので、北野高校生や北野高校を時々見聞し、その発展をうれしく思っております。</p>
<p>深江　浩先生 【日本史】 1969年9月～1973年3月</p>
<p>      北野では受験のためにも役立つと同時に、歴史的にモノを考えるおもしろさ、大切さについて、生徒諸君に学んでもらうことに苦心をしました。そのための副教材として『北野高校日本史演習』(B5判全4分冊)なるものを、作ったりしました。一方、村川、柏尾、水落の3先生と共に北野百年史編纂の仕事を浦野校長から命ぜられ、担任は69年度1年だけしかやらせていただけませんでした。今 NHKテレビ「日本人の質問」によく登場する阿辻哲次君なんかが私のクラスにいました。男子ばかり40人の面白いクラスでした。折からの学園紛争の闘士も幾人かいました。彼等はマジメで、私は真剣に彼等と議論したものです。オーケストラ部の顧問も勤め、よく合宿を共にし、そこで豊嶋和史君の指揮者としての才能に驚きました。 73年4月京都薬科大学へ転出し、教養の文学とドイツ語を担当することになりました。北野で教えた諸君ともまたあい見えることになり、私のドイツ語を危なっかしそうに聞いてくれておりました。薬大には18年おりまして、95年2月に定年退職しました。その間、同志社、立命館、花園などの文学部で、非常勤で、漱石や文学理論について講義しておりました。　退職後は、立命館、花園のほか滋賀医大や大阪府立看護大学の非常勤講師を勤めましたが、今年の4月以来は全くフリーになり執筆に専念しています。昨年は古希の記念に『漱石の20世紀』(翰林書房)なる本を出しました。私の研究領域は主として漱石とその時代ですが、理論的には、ルカーチとバフチンに学ぶところが大きいです。ルカーチから一番学んだことは、全面的な商品経済社会では対象となる世界がモノ化すると同時に、主体となるはずの人間の意識もモノ化するということ。従ってモノ化した世界や人間の意識をそのまま現実と見誤って書かれた文学作品は真にリアルな作品とは言えないということです。バフチンから学んだことは、生きた言葉はすべて対話的であること。それぞれ固有の見方を持って生きる諸個人と対話的に向き合い、作者の固定的な視点で登場人物を客体化しないことが新しいリアルな表現にとって大切であるという考え方です。これらは文学の問題を超えて現代にいきるものの姿勢として大切と思われます。今日の状況に問題を投げかけるような、真に文化の名に値する文化の発信基地になって下さい。</p>
<p>松浦賢二先生 【社会】昭和55年～平成5年</p>
<p>      平成5年の3月まで北野に在籍。4月より茨木東高校に転勤し、今年の2月、茨木東高校で卒業生を出しました。1、2、3年生をもちあがると、学校の全体像も見えてきます。これから茨木東高のために頑張ってみようかと思っていた矢先、知事事務部局私学課に出向することになりました。仕事の内容は、私立高等学校教育振興研究事業の研究員として、2年間、研究指定校で調査研究を行なうということで今年度から始まった事業のため、まだレールがはっきりしていません。やっていることは、月～木は金光八尾高校で世界史の授業をし、金曜日は私学会館で他の研究員と研究・協議といった状態です。最終的には、府の教育の活性化をはかるための方策を考えることになるだろうと思っています。　今年の6月、用事があって北野に行きましたが、私がいた時のままの校舎を見て、とても懐かしく思いました。</p>
<p>Last Update : Sep.20,1997</p>
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		<title>恩師の近況1997【国語】</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Feb 2010 15:44:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[ 梅沢由子(旧姓井上)先生
【国語】
昭和23年～昭和24年
 旧職員を名乗るのもおこがましい程、北野との御縁はたった一年という短いものでした。学制改革の時、大手前から女子生徒を連れて赴任しました。はじめて 男子生徒に接するというカルチャーショックの中、夢中で過ごした一年でした。頼りない教師だったに違いありませんが、私にとっては充実した楽しいときで あったと感謝しております。 　退職してからも、その時の生徒の方々のご厚情をいただき、特に当時担任だった一年四組の級会を今も毎年一回開いて下さり、旧交をあたためております。誠 に有り難く教師冥利につきる思いです。現在は、寄る年波、如何ともしがたく、医者通いに忙しいような有様ですが、一応主婦業を普通にこなす程の健康に恵まれています。そしてささやかな書道教室の講師をつとめることをはげみに一日、一日を大切にすごしております。
 雫石鉱吉先生
【国語・漢文】
昭和23年～昭和41年
 当年87歳、独居。でも近所にいる娘2人が毎週1回ずつ夕食を作りに来てくれるし、近所の息子の所へ毎週1回泊りに行く。北野には52年の教員生活のう ち、18年間在勤した。娘(71期)、息子(75期)、孫娘(99期)、孫娘(104期)と関係深い。3歳のひ孫が北野に入るとすれば、私は100歳まで 生きなければならない。
箕田正武先生
【国語】
昭和40年～49年
 病気の為、入退院を繰り返している現状です。
 村井正三先生
【国語】
昭和38年～昭和61年
 卒業生諸氏の母校には23年間在職したが、顧みると、昭和25年から平成9年までの48年間、京都を振り出しに奈良・大阪2府1県の公立高校を経て、清 風南海学園を、終のすみかにしている現状である。昭和2年生れの私は、既に「古稀」にも拘らず、乞われるままに教壇上をうろうろしているが、いよいよ年貢 の納め時と悟り、今年度を以て教壇におさらばする。学徒出陣で多少とも軍歴のある私は、生き残って戦後第二の人生を、胃潰瘍の手術後は、第三の人生を、公 立高校退職後は第四の人生を、そして私学を退職して、いよいよ最終ラウンドの第五の人生に突入するつもりでいる。23年間の北野生活、その時期(昭和38年～昭和61年)の北野高校は、すべて可にして、特筆すべきことなく、天下に君臨したよき時代であったろうと思う。ともあれ、23年間在職した北野高校の卒業生諸氏に幸あれかしの思いや切である。
Last Update : Sep.22,1997
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="../../../../home/teachers/now1997/027.jpg" alt="" width="150" height="192" align="RIGHT" /> <span>梅沢由子(旧姓井上)</span>先生</p>
<p>【国語】<br />
昭和23年～昭和24年</p>
<ul> 旧職員を名乗るのもおこがましい程、北野との御縁はたった一年という短いものでした。学制改革の時、大手前から女子生徒を連れて赴任しました。はじめて 男子生徒に接するというカルチャーショックの中、夢中で過ごした一年でした。頼りない教師だったに違いありませんが、私にとっては充実した楽しいときで あったと感謝しております。 　退職してからも、その時の生徒の方々のご厚情をいただき、特に当時担任だった一年四組の級会を今も毎年一回開いて下さり、旧交をあたためております。誠 に有り難く教師冥利につきる思いです。現在は、寄る年波、如何ともしがたく、医者通いに忙しいような有様ですが、一応主婦業を普通にこなす程の健康に恵まれています。そしてささやかな書道教室の講師をつとめることをはげみに一日、一日を大切にすごしております。</ul>
<p><img src="../../../../home/teachers/now1997/009.jpg" alt="" width="160" height="192" align="RIGHT" /> <span>雫石鉱吉</span>先生</p>
<p>【国語・漢文】<br />
昭和23年～昭和41年</p>
<ul> 当年87歳、独居。でも近所にいる娘2人が毎週1回ずつ夕食を作りに来てくれるし、近所の息子の所へ毎週1回泊りに行く。北野には52年の教員生活のう ち、18年間在勤した。娘(71期)、息子(75期)、孫娘(99期)、孫娘(104期)と関係深い。3歳のひ孫が北野に入るとすれば、私は100歳まで 生きなければならない。</ul>
<p><span>箕田正武</span>先生</p>
<p>【国語】<br />
昭和40年～49年</p>
<ul> 病気の為、入退院を繰り返している現状です。</ul>
<p><img src="../../../../home/teachers/now1997/011.jpg" alt="" width="150" height="192" align="RIGHT" /> <span>村井正三</span>先生</p>
<p>【国語】<br />
昭和38年～昭和61年</p>
<ul> 卒業生諸氏の母校には23年間在職したが、顧みると、昭和25年から平成9年までの48年間、京都を振り出しに奈良・大阪2府1県の公立高校を経て、清 風南海学園を、終のすみかにしている現状である。昭和2年生れの私は、既に「古稀」にも拘らず、乞われるままに教壇上をうろうろしているが、いよいよ年貢 の納め時と悟り、今年度を以て教壇におさらばする。学徒出陣で多少とも軍歴のある私は、生き残って戦後第二の人生を、胃潰瘍の手術後は、第三の人生を、公 立高校退職後は第四の人生を、そして私学を退職して、いよいよ最終ラウンドの第五の人生に突入するつもりでいる。23年間の北野生活、その時期(昭和38年～昭和61年)の北野高校は、すべて可にして、特筆すべきことなく、天下に君臨したよき時代であったろうと思う。ともあれ、23年間在職した北野高校の卒業生諸氏に幸あれかしの思いや切である。</ul>
<p><span>Last Update : Sep.22,1997</span></p>
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		<title>恩師の近況1997【英語】</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Feb 2010 15:42:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[上田浩石先生
【英語】
昭和25年～昭和52年
 月日の経つのは早いもので、私も今年70歳になり、感慨無量と言うのでしょうか、「あの大戦争と病気を通りぬけて、よくもまあ今日まで生きさせていただ いたものだ」と感謝致しております。昭和52年に北野高校から神戸の灘高校へ転勤した後、平成4年9月に胃癌で胃の3分の2を切除し、平成7年(阪神大震 災の年)の3月末に、灘高を定年退職しました。その後、日が経つにつれて、ますます健康を回復しているようなので、誠に有難く思っております。今のところ、個人的に仕事を頼まれる以外は、家の中の片付けや、修理や、周囲の手入れや読書や勉強やらで、何となく毎日毎日忙しくしています。昔は、定 年後の生活とは、もっと「のうのう」 とした、明るい日の光に満ちた、のどかな毎日が続いて、好きなだけ本を読み、居眠りをし、将棋をさし、喋り、何日でも旅行できるものと空想していたのに、 何とまあ、現実の生活は、きびしく、せせこましいのでありましょうか。何十年もの間、積んだまま、押込んだまま、見てみぬ振りをして、放置してあった無数 のものを、少しずつ取り出しては雑用を次々に作り出して追われております。
 葛西憲徳先生
【英語】
昭和23年～昭和57年
現在、小生85歳で、坐骨神経痛で通院していますが、老人としては元気の方でしょう。家の中でも杖をついて暮しています。北野の生徒は全員 gentleman であり lady であった。それに第一、頭がよかったし、又先生方が皆実力者で、超一流の学校であった。当時は教員の採用も校長が決めたもので、学歴、学力、人物を一対一 で面接したものでした。私の場合は長坂五郎校長でした。東大出の人格者で立派な人でした。以後9人の校長につかえ努力しました。
昭和13年、日中戦争で静岡第34聯隊入隊、山西省、廣霊、張家口、包頭、ノモンハン事件に参戦、15年に召集解除。昭和18年北野中学(夜間)大手前 女学校に在職、太平洋戦争で再びニュブリテン島、ラバウル、ニュアイルランド島に従軍、ジャングル生活。昭和21年に日本に帰国。九死に一生をえて、昭和 24年大手前と北野男女共学。57年3月31日まで北野高校につとめ、願により退職。PTA主任も15年間勤めました。以後無職、年金でほそぼそと暮して います。私は40歳より60歳くらいの時が一番はりきっていたようです。京大へ入学した生徒も毎年100人以上でした。この頃の北野が一番なつかしく、又 楽しかった時でした。拙文で失礼致します。
 片岡嘉門先生
【英語】
昭和37年～昭和56年
 私が北野高での在職期間は20年間、一番印象的だったのは、先生方が本当に熱心に授業に打ち込んでおられたこと。それに応じて優秀な生徒諸君(男女と も)が、よく頑張っていたこと、ご承知のように京大・阪大へそれぞれ100人以上合格してくれていました。よき一つの時代でした。現在の北野は時代の流れ で少し様子が違うようですね。あの頃ご活躍の先生方も次々と亡くなられています。浦野校長、長谷川、平石、植村、真田、西田、伏谷、田上、岡田・・・諸先生方、心からお悔やみ申します。うたゝ今昔の感一入です。
さて、私自身の近況をごく短く。
通算46年の教員生活(予備校専任教授を含めて)に今春おさらばをしてフリーの身となりました。お陰様で料理好きな老妻共々まずは元気でおります。
最近していることは次の3つである。
(イ)読書、主として歴史や古典の類
(ロ)海外旅行、すでに6・7回
(ハ)趣味としては囲碁(日本棋院へ時々)にハマリ、歌舞伎に少々傾いています。
今一つは、長男(医師)の一人娘(2歳)が、月2回やってくること。魚のことを「かな、かな」。こんな程度の片言ですが。
さいごに、今は立派な社会人となって居られる、皆さん方のお元気で一層の御活躍を祈りつつ。
酒井　孚(マコト)先生
【英語】
昭和12年～昭和15年
意見を申すよりは、希望として1つ。玄関の床面にあった「MCMXXX」のタイルは、新しい建物でも使って欲しい。勿論、年号の数字…の部分は変えて。
昭和13年4月より、当時の3年生の SideReader として、Shakespeare の Hamlet (の抄訳 by Lamb )を使い、これを English through English でやることとなりました。その担当が教科主任の木村喜逸先生と馬場英一先生、それに駆出しの小生の3人が当ることになりました。木村先生は大ベテラン、馬 場先生はアメリカ帰りの、これ亦ベテラン。小生は面喰ったことを覚えております。それが、7月に入り、小生モテアマシ気味で、木村先生に教えを乞いに参り ました処「ナンダ。君。マダヤッテタノカ。僕はトウニヤメタ」とのご託宣。
後年、豊中高女（現桜塚高校）へ転勤。1年担当の生徒の中に、永井徳子さんという人が居て「兄が北野で先生に習ヒマシタ」と言われて、ここでも、唖然と したことを覚えております。（永井さんは、確か大きな仏具商でした。徳子さんも70歳をお越えになり、それからその兄君は70代半ばか?）
島川茂清先生
【英語】
1982年～1991年
今年から高津高校に勤めています。最近は、映画を使っての英語教育に関心を持ち、研究してきましたが、今年の授業では（放課後ですが）、希望者を集めて映画を使った英語の学び方を伝えています。参加者は皆楽しく学んでいます。
「あなたが寝てる間に」と「フリーウィリー」を使いました。それと家ではインターネットを利用した英語の学び方を研究しています。将来の英語教育は、かなり変わったものになるだろうという気がしています。
竹尾治一郎先生
【英語】
1956年～1962年
 私自信がメンバーの一人である同窓会からは、年間を通じ、いろいろの連絡をいただきますが、インターネット・ホームページへのお招きを受けるのは、これが初めてです。まず近況からお答えするのが順序でしょう。私は今年の三月、関西大学を定年で退職しました。これで、北野高校の定時制課程を振り出しに、足掛け46年に およんだ教員生活にも終止符を打ったことになります。現在は週一クラスだけ大学院の授業をしていますが、その他はたいてい家にいて読書したり原稿を書いた り散策したりして過ごしています。無益なストレスから自由な境涯におかれて、かねがねしたいと思っていた仕事に戻ることができると、ご多分に漏れずしばし ば思うことは、どうしてもっと早く、もっと先まで進んでおかなかったのだろうということです。
おそらく多くの方々とも同じように、この数日のテレビで見た、あの、ありふれた事故死を遂げた非凡な女性、ダイアナさんの葬儀の模様がとても印象的でし た。ご承知のように、17世紀後半の英国では名誉革命が起こって、ジェイムズ二世が追い出され、ウィリアムとメアリが迎えられました。その後でジョン・ ロックの『市民政府論』が、いわば名誉革命を理論化するような形で書かれました。今回の二百万人の葬儀なども、だれかが中央で計画し組織して起こされた運 動ではなかった点、そのパターンにいくらか似ていないでもないような気がします。つまり、イデオロギーや号令が先行するのではなく、それらが後からついて 来るのがあの国の伝統のようです。私はかねがねそうしたことは理屈としては分っていても、実際にこんなに劇的な形で起こるとは予想しませんでした。私自身 はそういうことを特に望むわけでもないのですが、ことによったら近い将来、日本の宮内庁の役人らがうろたえるような事態が、古いユーラシア大陸の向こう側 で、まるで日本国民に新しい時代のお手本を示すかのように、発生するのではないかと思っています。
田中正博先生
【英語】
1982年～1992年
皆さん、お元気ですか。覚えていらっしゃるでしょうか。英語の田中です。相変わらず元気にやっております。ただ、近頃の学生はぼくにとって極めて理解し 難く、日々頭を痛めております。この者たちが将来社会に出て、日本の社会の一部（一部だと思いたい）を構成することになるのかと思うと、本当に心が痛みま す。今の日本の若い者達は、いったいどうなっているのでしょうか。
 水鳥喜平先生
【英語】
大正15年4月～昭和24年11月
 私は運動神経がとても鈍いので、ラグビー、野球、庭球のような華々しい部にはいることは出来ませんでした。やっと山本地理やん先生に拾われて、登山部に はいり、生徒さんと、日曜ごとに山に登っていました。夏期休暇には北アルプスの山々は勿論、当時中学生は登らなかった南アルプスも聖岳(ひじりだけ)を除 く全部に登山部の生徒さんと一緒にりました。まことに楽しかったですが、寄る年波には勝てず、本年(平成9年)から山登りはやめることにしました。そうすると、早速本年の2月13日、六稜稜友会の昼食会の帰り、突然歩くことも、話すことも出来なくなりました。幸い、一過性脳梗塞でしたので、今は早 朝一万歩あるいています（脳梗塞には散歩が良いそうですから）。また、アメリカのタイム誌と英文毎日とは、ずっと続けています。これも北野に長くお世話に なった山登りのお陰と感謝しています。
Last [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>上田浩石</span>先生</p>
<p>【英語】<br />
昭和25年～昭和52年</p>
<ul> 月日の経つのは早いもので、私も今年70歳になり、感慨無量と言うのでしょうか、「あの大戦争と病気を通りぬけて、よくもまあ今日まで生きさせていただ いたものだ」と感謝致しております。昭和52年に北野高校から神戸の灘高校へ転勤した後、平成4年9月に胃癌で胃の3分の2を切除し、平成7年(阪神大震 災の年)の3月末に、灘高を定年退職しました。その後、日が経つにつれて、ますます健康を回復しているようなので、誠に有難く思っております。今のところ、個人的に仕事を頼まれる以外は、家の中の片付けや、修理や、周囲の手入れや読書や勉強やらで、何となく毎日毎日忙しくしています。昔は、定 年後の生活とは、もっと「のうのう」 とした、明るい日の光に満ちた、のどかな毎日が続いて、好きなだけ本を読み、居眠りをし、将棋をさし、喋り、何日でも旅行できるものと空想していたのに、 何とまあ、現実の生活は、きびしく、せせこましいのでありましょうか。何十年もの間、積んだまま、押込んだまま、見てみぬ振りをして、放置してあった無数 のものを、少しずつ取り出しては雑用を次々に作り出して追われております。</ul>
<p><img src="../../../../home/teachers/now1997/004.jpg" alt="" width="150" height="192" align="RIGHT" /> <span>葛西憲徳</span>先生</p>
<p>【英語】<br />
昭和23年～昭和57年</p>
<p>現在、小生85歳で、坐骨神経痛で通院していますが、老人としては元気の方でしょう。家の中でも杖をついて暮しています。北野の生徒は全員 gentleman であり lady であった。それに第一、頭がよかったし、又先生方が皆実力者で、超一流の学校であった。当時は教員の採用も校長が決めたもので、学歴、学力、人物を一対一 で面接したものでした。私の場合は長坂五郎校長でした。東大出の人格者で立派な人でした。以後9人の校長につかえ努力しました。</p>
<p>昭和13年、日中戦争で静岡第34聯隊入隊、山西省、廣霊、張家口、包頭、ノモンハン事件に参戦、15年に召集解除。昭和18年北野中学(夜間)大手前 女学校に在職、太平洋戦争で再びニュブリテン島、ラバウル、ニュアイルランド島に従軍、ジャングル生活。昭和21年に日本に帰国。九死に一生をえて、昭和 24年大手前と北野男女共学。57年3月31日まで北野高校につとめ、願により退職。PTA主任も15年間勤めました。以後無職、年金でほそぼそと暮して います。私は40歳より60歳くらいの時が一番はりきっていたようです。京大へ入学した生徒も毎年100人以上でした。この頃の北野が一番なつかしく、又 楽しかった時でした。拙文で失礼致します。</p>
<p><img src="../../../../home/teachers/now1997/029.jpg" alt="" width="150" height="192" align="RIGHT" /> <span>片岡嘉門</span>先生</p>
<p>【英語】<br />
昭和37年～昭和56年</p>
<ul> 私が北野高での在職期間は20年間、一番印象的だったのは、先生方が本当に熱心に授業に打ち込んでおられたこと。それに応じて優秀な生徒諸君(男女と も)が、よく頑張っていたこと、ご承知のように京大・阪大へそれぞれ100人以上合格してくれていました。よき一つの時代でした。現在の北野は時代の流れ で少し様子が違うようですね。あの頃ご活躍の先生方も次々と亡くなられています。浦野校長、長谷川、平石、植村、真田、西田、伏谷、田上、岡田・・・諸先生方、心からお悔やみ申します。うたゝ今昔の感一入です。</p>
<p>さて、私自身の近況をごく短く。<br />
通算46年の教員生活(予備校専任教授を含めて)に今春おさらばをしてフリーの身となりました。お陰様で料理好きな老妻共々まずは元気でおります。</p>
<p>最近していることは次の3つである。<br />
(イ)読書、主として歴史や古典の類<br />
(ロ)海外旅行、すでに6・7回<br />
(ハ)趣味としては囲碁(日本棋院へ時々)にハマリ、歌舞伎に少々傾いています。</p>
<p>今一つは、長男(医師)の一人娘(2歳)が、月2回やってくること。魚のことを「かな、かな」。こんな程度の片言ですが。<br />
さいごに、今は立派な社会人となって居られる、皆さん方のお元気で一層の御活躍を祈りつつ。</ul>
<p><span>酒井　孚(マコト)</span>先生</p>
<p>【英語】<br />
昭和12年～昭和15年</p>
<p>意見を申すよりは、希望として1つ。玄関の床面にあった「MCMXXX」のタイルは、新しい建物でも使って欲しい。勿論、年号の数字…の部分は変えて。</p>
<p>昭和13年4月より、当時の3年生の SideReader として、Shakespeare の Hamlet (の抄訳 by Lamb )を使い、これを English through English でやることとなりました。その担当が教科主任の木村喜逸先生と馬場英一先生、それに駆出しの小生の3人が当ることになりました。木村先生は大ベテラン、馬 場先生はアメリカ帰りの、これ亦ベテラン。小生は面喰ったことを覚えております。それが、7月に入り、小生モテアマシ気味で、木村先生に教えを乞いに参り ました処「ナンダ。君。マダヤッテタノカ。僕はトウニヤメタ」とのご託宣。</p>
<p>後年、豊中高女（現桜塚高校）へ転勤。1年担当の生徒の中に、永井徳子さんという人が居て「兄が北野で先生に習ヒマシタ」と言われて、ここでも、唖然と したことを覚えております。（永井さんは、確か大きな仏具商でした。徳子さんも70歳をお越えになり、それからその兄君は70代半ばか?）</p>
<p><span>島川茂清</span>先生</p>
<p>【英語】<br />
1982年～1991年</p>
<p>今年から高津高校に勤めています。最近は、映画を使っての英語教育に関心を持ち、研究してきましたが、今年の授業では（放課後ですが）、希望者を集めて映画を使った英語の学び方を伝えています。参加者は皆楽しく学んでいます。</p>
<p>「あなたが寝てる間に」と「フリーウィリー」を使いました。それと家ではインターネットを利用した英語の学び方を研究しています。将来の英語教育は、かなり変わったものになるだろうという気がしています。</p>
<p><span>竹尾治一郎</span>先生</p>
<p>【英語】<br />
1956年～1962年</p>
<ul> 私自信がメンバーの一人である同窓会からは、年間を通じ、いろいろの連絡をいただきますが、インターネット・ホームページへのお招きを受けるのは、これが初めてです。まず近況からお答えするのが順序でしょう。私は今年の三月、関西大学を定年で退職しました。これで、北野高校の定時制課程を振り出しに、足掛け46年に およんだ教員生活にも終止符を打ったことになります。現在は週一クラスだけ大学院の授業をしていますが、その他はたいてい家にいて読書したり原稿を書いた り散策したりして過ごしています。無益なストレスから自由な境涯におかれて、かねがねしたいと思っていた仕事に戻ることができると、ご多分に漏れずしばし ば思うことは、どうしてもっと早く、もっと先まで進んでおかなかったのだろうということです。</p>
<p>おそらく多くの方々とも同じように、この数日のテレビで見た、あの、ありふれた事故死を遂げた非凡な女性、ダイアナさんの葬儀の模様がとても印象的でし た。ご承知のように、17世紀後半の英国では名誉革命が起こって、ジェイムズ二世が追い出され、ウィリアムとメアリが迎えられました。その後でジョン・ ロックの『市民政府論』が、いわば名誉革命を理論化するような形で書かれました。今回の二百万人の葬儀なども、だれかが中央で計画し組織して起こされた運 動ではなかった点、そのパターンにいくらか似ていないでもないような気がします。つまり、イデオロギーや号令が先行するのではなく、それらが後からついて 来るのがあの国の伝統のようです。私はかねがねそうしたことは理屈としては分っていても、実際にこんなに劇的な形で起こるとは予想しませんでした。私自身 はそういうことを特に望むわけでもないのですが、ことによったら近い将来、日本の宮内庁の役人らがうろたえるような事態が、古いユーラシア大陸の向こう側 で、まるで日本国民に新しい時代のお手本を示すかのように、発生するのではないかと思っています。</ul>
<p><span>田中正博</span>先生</p>
<p>【英語】<br />
1982年～1992年</p>
<p>皆さん、お元気ですか。覚えていらっしゃるでしょうか。英語の田中です。相変わらず元気にやっております。ただ、近頃の学生はぼくにとって極めて理解し 難く、日々頭を痛めております。この者たちが将来社会に出て、日本の社会の一部（一部だと思いたい）を構成することになるのかと思うと、本当に心が痛みま す。今の日本の若い者達は、いったいどうなっているのでしょうか。</p>
<p><img src="../../../../home/teachers/now1997/008.jpg" alt="" width="150" height="192" align="RIGHT" /> <span>水鳥喜平</span>先生</p>
<p>【英語】<br />
大正15年4月～昭和24年11月</p>
<ul> 私は運動神経がとても鈍いので、ラグビー、野球、庭球のような華々しい部にはいることは出来ませんでした。やっと山本地理やん先生に拾われて、登山部に はいり、生徒さんと、日曜ごとに山に登っていました。夏期休暇には北アルプスの山々は勿論、当時中学生は登らなかった南アルプスも聖岳(ひじりだけ)を除 く全部に登山部の生徒さんと一緒にりました。まことに楽しかったですが、寄る年波には勝てず、本年(平成9年)から山登りはやめることにしました。そうすると、早速本年の2月13日、六稜稜友会の昼食会の帰り、突然歩くことも、話すことも出来なくなりました。幸い、一過性脳梗塞でしたので、今は早 朝一万歩あるいています（脳梗塞には散歩が良いそうですから）。また、アメリカのタイム誌と英文毎日とは、ずっと続けています。これも北野に長くお世話に なった山登りのお陰と感謝しています。</ul>
<p><span>Last Update : Sep.20,1997</span></p>
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		<title>恩師の近況1997【校長】</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Feb 2010 15:40:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[竹内鐡二先生
【校長】
1962年～1964年
 1903年はキュリ夫人がラジウムの発見でノーベル賞を、また米ではライト兄弟が始めて空を飛んだ。いづれも今日の核開発と航空機文明の予徴の年でした。それが私の出生の年で日露戦争のさ中であった。もちろん記憶にはない。勝利で一等国になったと聴かされたのは物心ついてから。子供のころのアルバムに見る服装が軍服から背広まがいに移っているのも世相を表すことか。明治が 大正に代わり私の全学校生活の十五年間は世に言われる大正デモクラシーの時代であった。その初頭に世界第一次戦、ドイツ帝国は滅亡…ここに戦争の罪悪観は 世界を軍備縮小に同意させた。そんな時代の学生生活は智の追求の自由は今よりであったのではなかろか。
当然軍人さんの定員減の対策が中等以上の学校に陸軍将校の配属となったのは大学卒業の間際であった。年号は昭和となった。一次戦で敗者ドイツは非武装と 民主化をうけ入れた筈が独立後は勝手と言うことか、帝国再建を旗印に民主憲法なにするものぞと全体主義を確立し対外侵略を強行したのはヒトラーであった。 その昭和十年以降は日本も友邦帝国として共にした。大正の名残りは影を潜めた。かくしてニトロ弾を落とし始めてアトム弾を落とされて終わった戦争…歴史を 教育として文化国家形成の労作を願うのみ。その意をこめて六稜同窓会の発展と皆様のご健勝を祈ります。
松下邦夫先生
【校長】
1985年～1988年
 六稜の皆様のますますの御活躍をお慶び申し上げます。在職中のラグビー部の全国大会出場の快挙をよく思い出します。（お知らせするほどの近況はなく、迷 いましたが、折角のお求めですので…）現在は居住地高槻市の教育委員に選任されています。教育は幼児教育から高等教育まで、どの教育機関においても課題の 尽きることはなく、努力を重ねてなお道遠しという営みであることは申すまでもありません。そうした中で、地域のために少しでもお役に立てたらと老骨に鞭 打っているところです。でも、この職は非常勤で時間的にゆとりがあるため、読書をしたり、趣味を楽しんだり、時に旅をしたりといった生活を送っています。　今心を離れないのは環境問題です。環境の保全やよりよい創造のための環境教育の一層の進展を願っています。皆様の御多幸を祈念いたします。
 村田義人先生
【校長】
昭和58年～昭和60年
 なにわ文化・六稜文化の発信基地としてのインターネット・ホームページのご開設、まことに頼もしいかぎりです。私もおかげさまで、昭和60年に定年退職以来、いまだかつてない長期の健康に恵まれ、天理大学・金蘭短期大学の非常勤講師は昨年をもって退職いたしまし たものの、カルチュアセンターの講師は今も続けており、本年は、400人ほどの学生数をもつ岸和田健老大学の二代目学長に就任しました。生きがいのある、 主体性をもった、つねに探求してやまない老後生活を誰もができるよう尽力するつもりでおります。
本年は『散歩道』という文庫本随想集と、平成6年から丸2年間奈良新聞に毎週掲載しました『漢詩動物誌』を単行本として出版することができました。
 山崎浩和先生
【校長】
平成6年～平成9年
平成9年3月、北野高等学校長の職を最後に定年退職しました。4月からは、聖母被昇天学院女子短期大学教授として西洋史を担当し、兼ねて関西大学講師として教職課程の「社会科教育法」を受け持っています。
在任中に校舎改築の「基本設計」と、第一期工事分の「実施設計」が確定しました。これは平準化の時代潮流と大阪府の財政難の中で、六稜同窓会の皆様方の 英知と御支援があったればこそと思っています。昭和の名建築と謳われる現校舎に代って「平成の名建築」が実現するのを楽しみにしています。
退任後、ますます熱い思いでいっぱいになるのが北野です。どうか輝かしい伝統を守るとともに、新時代に即応した新しい北野を創造していただきたいと切に 念じます。ホームページ委員会が、情報を通して、そのために大いに力をふるっていただきたく思います。取り急ぎ乱文乱筆ごめんください。
Last Update : Oct.1,1997
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>竹内鐡二</span>先生</p>
<p>【校長】<br />
1962年～1964年</p>
<ul> 1903年はキュリ夫人がラジウムの発見でノーベル賞を、また米ではライト兄弟が始めて空を飛んだ。いづれも今日の核開発と航空機文明の予徴の年でした。それが私の出生の年で日露戦争のさ中であった。もちろん記憶にはない。勝利で一等国になったと聴かされたのは物心ついてから。子供のころのアルバムに見る服装が軍服から背広まがいに移っているのも世相を表すことか。明治が 大正に代わり私の全学校生活の十五年間は世に言われる大正デモクラシーの時代であった。その初頭に世界第一次戦、ドイツ帝国は滅亡…ここに戦争の罪悪観は 世界を軍備縮小に同意させた。そんな時代の学生生活は智の追求の自由は今よりであったのではなかろか。</p>
<p>当然軍人さんの定員減の対策が中等以上の学校に陸軍将校の配属となったのは大学卒業の間際であった。年号は昭和となった。一次戦で敗者ドイツは非武装と 民主化をうけ入れた筈が独立後は勝手と言うことか、帝国再建を旗印に民主憲法なにするものぞと全体主義を確立し対外侵略を強行したのはヒトラーであった。 その昭和十年以降は日本も友邦帝国として共にした。大正の名残りは影を潜めた。かくしてニトロ弾を落とし始めてアトム弾を落とされて終わった戦争…歴史を 教育として文化国家形成の労作を願うのみ。その意をこめて六稜同窓会の発展と皆様のご健勝を祈ります。</ul>
<p><span>松下邦夫</span>先生</p>
<p>【校長】<br />
1985年～1988年</p>
<ul> 六稜の皆様のますますの御活躍をお慶び申し上げます。在職中のラグビー部の全国大会出場の快挙をよく思い出します。（お知らせするほどの近況はなく、迷 いましたが、折角のお求めですので…）現在は居住地高槻市の教育委員に選任されています。教育は幼児教育から高等教育まで、どの教育機関においても課題の 尽きることはなく、努力を重ねてなお道遠しという営みであることは申すまでもありません。そうした中で、地域のために少しでもお役に立てたらと老骨に鞭 打っているところです。でも、この職は非常勤で時間的にゆとりがあるため、読書をしたり、趣味を楽しんだり、時に旅をしたりといった生活を送っています。　今心を離れないのは環境問題です。環境の保全やよりよい創造のための環境教育の一層の進展を願っています。皆様の御多幸を祈念いたします。</ul>
<p><img src="../../../../home/teachers/now1997/001.jpg" alt="" width="150" height="192" align="RIGHT" /> <span>村田義人</span>先生</p>
<p>【校長】<br />
昭和58年～昭和60年</p>
<ul> なにわ文化・六稜文化の発信基地としてのインターネット・ホームページのご開設、まことに頼もしいかぎりです。私もおかげさまで、昭和60年に定年退職以来、いまだかつてない長期の健康に恵まれ、天理大学・金蘭短期大学の非常勤講師は昨年をもって退職いたしまし たものの、カルチュアセンターの講師は今も続けており、本年は、400人ほどの学生数をもつ岸和田健老大学の二代目学長に就任しました。生きがいのある、 主体性をもった、つねに探求してやまない老後生活を誰もができるよう尽力するつもりでおります。</p>
<p>本年は『散歩道』という文庫本随想集と、平成6年から丸2年間奈良新聞に毎週掲載しました『漢詩動物誌』を単行本として出版することができました。</ul>
<p><img src="../../../../home/teachers/now1997/002.jpg" alt="" width="150" height="192" align="RIGHT" /> <span>山崎浩和</span>先生</p>
<p>【校長】<br />
平成6年～平成9年</p>
<p>平成9年3月、北野高等学校長の職を最後に定年退職しました。4月からは、聖母被昇天学院女子短期大学教授として西洋史を担当し、兼ねて関西大学講師として教職課程の「社会科教育法」を受け持っています。</p>
<p>在任中に校舎改築の「基本設計」と、第一期工事分の「実施設計」が確定しました。これは平準化の時代潮流と大阪府の財政難の中で、六稜同窓会の皆様方の 英知と御支援があったればこそと思っています。昭和の名建築と謳われる現校舎に代って「平成の名建築」が実現するのを楽しみにしています。</p>
<p>退任後、ますます熱い思いでいっぱいになるのが北野です。どうか輝かしい伝統を守るとともに、新時代に即応した新しい北野を創造していただきたいと切に 念じます。ホームページ委員会が、情報を通して、そのために大いに力をふるっていただきたく思います。取り急ぎ乱文乱筆ごめんください。</p>
<p><span>Last Update : Oct.1,1997</span></p>
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		<title>恩師を訪ねて【第0回】</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Feb 2010 15:35:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[特別企画
恩師の近況
 六稜WEBのオープンを記念して、旧教職員のみなさんに近況コメントをお願い致しました。
回答のあったものから順不同で掲載していきます。 
 【校長】竹内鐡二先生、 松下邦夫先生、 村田義人先生、 山崎浩和先生
【英語】 上田浩石先生、 葛西憲徳先生、 片岡嘉門先生、 酒井　孚先生、 島川茂清先生、 竹尾治一郎先生、 田中正博先生、 水鳥喜平先生
【国語】 梅沢由子(旧姓井上)先生、 雫石鉱吉先生、 箕田正武先生、 村井正三先生
【社会】 井之元春義先生、 柏尾洋介先生、 田村光一先生、 深江　浩先生、 松浦賢二先生
【数学】 菊川映人先生、 博本正和先生、 乗岡フミ先生、 御堂岡啓先生
【理科】 今中利信先生、 唐津正之先生、 猿田　茂先生、 福田博造先生、 福田和子先生、 山本敏文先生
【芸術】 木川田誠先生、 内藤伸彦先生
【保健体育科】 玉置　勝先生
【家庭科】 朝井美子先生、 大江隆子先生、 小池美代子先生、 高田貞子先生
 Last Update : Oct.1,1997
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>特別企画<br />
<span>恩師の近況</span></p>
<p><span> 六稜WEBのオープンを記念して、旧教職員のみなさんに近況コメントをお願い致しました。<br />
回答のあったものから順不同で掲載していきます。 </span></p>
<ul> <a href="./?p=139">【校長】</a>竹内鐡二<span>先生</span>、 松下邦夫<span>先生</span>、 村田義人<span>先生</span>、 山崎浩和<span>先生</span></p>
<p><a href="./?p=141">【英語】</a> 上田浩石<span>先生</span>、 葛西憲徳<span>先生</span>、 片岡嘉門<span>先生</span>、 酒井　孚<span>先生</span>、 島川茂清<span>先生</span>、 竹尾治一郎<span>先生</span>、 田中正博<span>先生</span>、 水鳥喜平<span>先生</span></p>
<p><a href="./?p=143">【国語】 </a>梅沢由子(旧姓井上)<span>先生</span>、 雫石鉱吉<span>先生</span>、 箕田正武<span>先生</span>、 村井正三<span>先生</span></p>
<p><a href="./?p=145">【社会】 </a>井之元春義<span>先生</span>、 柏尾洋介<span>先生</span>、 田村光一<span>先生</span>、 深江　浩<span>先生</span>、 松浦賢二<span>先生</span></p>
<p><a href="./?p=147">【数学】</a> 菊川映人<span>先生</span>、 博本正和<span>先生</span>、 乗岡フミ<span>先生</span>、 御堂岡啓<span>先生</span></p>
<p><a href="./?p=149">【理科】</a> 今中利信<span>先生</span>、 唐津正之<span>先生</span>、 猿田　茂<span>先生</span>、 福田博造<span>先生</span>、 福田和子<span>先生</span>、 山本敏文<span>先生</span></p>
<p><a href="./?p=151">【芸術】 </a>木川田誠<span>先生</span>、 内藤伸彦<span>先生</span></p>
<p><a href="./?p=153">【保健体育科】 </a>玉置　勝<span>先生</span></p>
<p><a href="./?p=155">【家庭科】 </a>朝井美子<span>先生</span>、 大江隆子<span>先生</span>、 小池美代子<span>先生</span>、 高田貞子<span>先生</span></ul>
<hr /><span> Last Update : Oct.1,1997</span></p>
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