Salut! ハイジの国から【第40話】 まえ 初めに戻る つぎ

ポラントリュイだより:
ルネッサンス建築様式


 
 ▲スイスの泉(別名バナレット騎士の泉)
一見、傲慢に見える騎士像であるが、
脚の間にイノシシ像を置いたことで、
おとぎ話のようなほのぼの感を醸し出している
と思うのは私だけであろうか?
 「建築様式で追うポラントリュイ」シリーズを再開するため、ゴシック後、ヨーロッパ建築史で当然の流れとなるルネッサンスに取り掛かろうとした。ところが、タイトルをつけてはたと困った。実は、町のあちこちにしぶとく残るゴシック建築、バーゼル司教公国全盛期・ポラントリュイ華やかりし時代のバロック建築の間に入るはずのルネッサンス式建築物が、見当たらないのである。
 バーゼル司教公国に於いては司教が絶対君主であり、富も権力も握っていたが、有産階級市民(ブルジョワ)もまた、中世より町の運営を牛耳っていた。しかし、一部の人間がいくら小金をちゃらつかせたところで所詮田舎の小国。流行からは優に何十年も遅れがち。やっとこさ取り入れ、身のほど(=予算)に合った建物をこしらえても、様式は時代と共にどんどん移り変わっている。ポラントリュイには「後期ゴシック」と呼ばれる様式の建築物や窓枠などが多いが、それはお隣の国々がとっくにルネッサンスまたはバロックに走っている頃に、細々と過去のゴシックを踏襲していたからである。


▲サマリア人の泉
肥満気味の洗礼者ヨハネ像と対照的に
キリストとサマリア女性の姿・全体の塗装が美しい。

 
 ルネッサンスとは「再生」。15世紀、商工業が栄え豊かな富を蓄えるようになったイタリアのフィレンツェで始まった動きである。合理性と教養を身につけた商人は、ローマなど古典文化を再発見しつつ、新しい時代の建築物に取り入れた。古代の模倣というより、「再生」という名の新しい創造物だった。1400年代から1500年代に渡るルネッサンスは、大きく3つの時期に分けられる。フィレンツェを中心とする勃興期である15世紀の初期ルネッサンス、ローマに各地から人が集まった16世紀初頭1530年頃までの盛期ルネッサンス、そしてそれ以降16世紀末期までのマニエリスムの時代である。このマニエリスムの「マニエラ」とはイタリア語のマニエラ(maniera)= 手法・様式に由来する。ルネッサンス盛期の明快で調和が取れた表現ともバロックの躍動感溢れる表現とも異なっている。
 私は建築の専門家ではないので美術史はこのぐらいにして、ポラントリュイに僅かに残るルネッサンス様式を紹介する。

 1564年完成の「サマリア人の泉」には、イタリアルネッサンスとドイツバロック様式が混在する。聖書の中にある物語の有名な一場面、キリストと良きサマリア人の対話である。ユリの花で装飾された柱の上には何故か子供の姿の洗礼者ヨハネが十字架と町の紋章のある盾を持ち、地球の上に足を置いている。実は、この柱は複製。オリジナルは市庁舎の一階ホールにあるが、複製と違って塗装されていないため、地味で人目にはつきにくい。
 この二つの泉と「黄金玉の泉」を合わせてルネッサンス期・三大泉と称し、作者はすべてロラン・ペルー・ド・クレスィエ(Laurent Perroud de Cressier)である。Cressierとはスイス・ヌーシャテル州の町の名前であるが、実際、彼はその近郊の町Le Landeron出身。時代の寵児とも言え、スイス各地の数多くの泉を建造した。ヌーシャテル旧市街にある「騎士」と「正義」の泉も彼の作品である。


▲やっぱりちょっと傾いている?「Béchauxの館」
この家一軒にポラントリュイ旧市街の生死が
関わっている?
 ピエール・ぺキニャ通り32番地(通りに名を残すこの男については第20,21話の「ウィリアム・テルになり損ねた男」をご参照に)、「Béchauxの館」自体はゴシック式、1570年建造と伝えられている。正面扉には後期ルネッサンス式の彫刻が施されている。長方形の板の部分には、最初の所有者Verger家かフランス革命前の所有者Grandvillers家の紋章があったはずだが、革命軍が町を荒らした際、金槌などで叩かれて破壊されたらしい。このように、町の端々に、革命軍の暴虐は歴史的遺産の破壊という形で今も残っている。現在、家はなめし革業者Béchaux家所有だが、実際に所有主は住んでおらず、時々休暇にやって来るだけらしい。この家が崩れれば、この通りに連なる家すべてが将棋倒しに崩れるという恐ろしい噂がある。何とか持ちこたえてくれればいいと願うばかりである。

 
▲ポラントリュイ城に数ある門の一つ
切り妻壁の中のレリーフは海の生物?かと思ったら
資料によれば「バラの花」らしい・・・。


 最後に、現在は州司法施設(裁判所や留置場など)が入っているポラントリュイ城にあるルネッサンス式の門をお見せする。建物自体はゴシック、一部はバロックである。この門を入ると、ゴシック式のらせん階段が延びているが、細部装飾はルネッサンス式である。

 ポラントリュイにおいてルネッサンスが導入された部分は建物ではなく、主に彫刻などのディーテールばかりである。これは私の想像に過ぎないが、町自体が、ルネッサンスを受け入れる精神的・経済的余裕がないまま、次の大きなうねり、バロックという流行に飛びついたと取れないだろうか。次回の連載では豪奢なバロック式建築物をご紹介する。



〈参考資料〉
西洋建築様式史(美術出版社)



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Last Update: May.23,2007