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	<title>ワールドアイ　インドネシア &#187; 未分類</title>
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		<title>日本とインドネシアの戦後60年（１）</title>
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		<pubDate>Thu, 01 Sep 2005 04:25:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[炎熱列島からの手紙～ジャカルタ特派員報告【第7話】 2005年８月16日で第二次世界大戦から60年が経った。戦後の日イ関係を象徴するできごとを振り返りながら、両国の戦後を概観した。 ■1945年8月15日、日本占領下のジ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>炎熱列島からの手紙～ジャカルタ特派員報告【第7話】</strong></p>
<p>2005年８月16日で第二次世界大戦から60年が経った。戦後の日イ関係を象徴するできごとを振り返りながら、両国の戦後を概観した。<br />
<span style="color: #006300;">■1945年8月15日、日本占領下のジャカルタは…</span></p>
<table width="250" border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" align="RIGHT">
<tbody>
<tr>
<td align="RIGHT"><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki07-1.jpg" alt="" width="192" height="256" /><br />
<span>▲「日本の降伏を聞いて仲間が拍手と一緒に歓声で喜んだ」と話すシャムシル・ムハンマドさん<br />
（ジャカルタ郊外で岩崎写す）<br />
</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>日本軍占領下のジャカルタでは45年8月15日の昼、オランダ植民地時代の平屋のホテルを利用した事務所で将来のインドネシア独立について語り合ってい た青少年約30人のもとへ、外から戻った仲間が駆け込んできた。「日本が降伏したぞ！ラジオで聞いた」。入口付近の仲間に息せききって伝えると、聞いた仲 間が「日本が負けた！日本が降伏した！」と叫び、部屋中に大歓声と拍手が起こった。後に国権の最高機関、国民協議会の議員になったシャムシル・ムハンマド さん（79）もその場にいた。シャムシルさんは「やったあ！」と叫び、こぶしを振った。</p>
<p>日本軍は、オランダ植民地「東インド」に42年２月に侵攻し、２週間で占領。同年７月に、戦前からの独立運動指導者でオランダによって投獄されていたス カルノをジャカルタに迎え、日本軍への協力と引き換えに活動の自由を与えた。スカルノらの指導で隣組や婦人会、青年会など各種団体が作られ、軍事訓練や労 働奉仕に参加した。<br />
スカルノは日本軍に協力する一方で、国民意識を育てる政治演説も行った。日本は戦局悪化に伴い小磯声明（45年３月）でインドネシア独立を約束するな ど、懐柔に努めた。<br />
シャムシルさんらの青年団体には独立を目指す若者が集まり、スカルノらを講師に迎えて政治の勉強をした。また、日本軍が禁じていたラジオを事務所外に隠 し持ち、海外放送をチェックして日本軍の苦戦を把握していた。シャムシルさんによると、日本降伏の日、ジャカルタの日本軍は何も発表しなかったが、ラジオ 放送を聞いた仲間がいち早く情報を知り、仲間に伝えたという。</p>
<p>降伏の報を聞くと、シャムシルさんの友人が１人で自転車に乗って町に飛び出した。「日本が降伏した！」と家々に叫んで回り、町の様子を観察して事務所に 戻った。かつては住民が日本兵と出会った場合、おじぎをしなければ、「ばかやろう！」と怒鳴られ、ほおをたたかれることもあった。しかし、友人によると、 この日は兵士らが住民をとがめずに歩いていた。<br />
同日午後、シャムシルさんらの指導者は他の青年団体の指導者と一緒に夕方近くまで会議を開き、夜になってスカルノ邸に出向いた。指導者らはその道中で日 本軍幹部に会ったので降伏についてたずねると、「町の治安に気を配り、われわれの指示に従ってほしい」と答えるのみだった。</p>
<p>青年指導者らはスカルノに対し武装蜂起による即時独立宣言を要求。スカルノが断ると、翌16日未明、スカルノを郊外に拉致（レンガスデンクロック事件） した。その際、青年らは日本軍に怪しまれるといけないので、義勇軍の制服を身につけていたという。スカルノは武装蜂起はしなかったが、日本軍の了解を得た うえで17日、ジャカルタでインドネシアの独立を宣言、18日には大統領に選ばれた。</p>
<table width="250" border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" align="LEFT">
<tbody>
<tr>
<td align="LEFT"><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki07-2.jpg" alt="" width="192" height="256" /><br />
<span>▲日本の戦後賠償で建ったサリナ・デパート。05年に外壁のみ改装した。「サリナ」は当時のスカルノ大統領の乳母の名前にちなんでつけられた（ジャカルタ市内で岩崎写す）<br />
</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p><span style="color: #006300;">■戦後賠償で始まった日イ関係</span></p>
<p>同国では日本の戦後賠償によって首都ジャカルタに62年、全国初のデパート「サリナ」（14階建て、売り場：1～7階）が開店した。当時、検察庁職員 だったレリー・ティボレンさん（74）は「開店直後、姉や友達5人と一緒に訪れ、ハンドバッグを買った。初めて入るときはうれしくて仕方なかった。当時は 周囲に高い建物がなく、遠くからも見えた。とびきりモダンな場所で、いい服を着ていかないと、周囲から野暮ったいと思われそうだった」と懐かしむ。<br />
後にサリナの総支配人になったアブドゥル・ラティフさん（65）は「サリナができるまでは国内に大型ショッピングセンターもなかったので、あこがれの的 となり、ひと目見たさに訪れる人も多かった。観光名所のような状態で、お客様は多かったが、品物を買ってくださるのはごく一部だった」と振り返る。</p>
<p>賠償事業には２００人以上の職員の渡日研修も含まれ、ラティフさんも66年に４カ月間、東京の百貨店や納入元の日本全国の工場を視察した。「大型小売店 経営のノウハウだけでなく、納入業者を指導・育成する手法も学んだ。これをもとにインドネシアで衣料や工芸品などの製造・納入業者を指導した。サリナ事業 はわが国の製造業の発展にも寄与した」という。<br />
ただ、サリナが日本の戦後賠償で建てられたことは必ずしも広くは知られていなかったようだ。ティボレンさんは「日本の戦後賠償でサリナができたとは知ら なかった。知っている人は少ないと思う。日本はそのことをなぜ広めないのかしら」と話す。ラティフさんも「お客様は戦後賠償のことは知らなかったと思う。 サリナ事業が日本に対する国民感情の改善につながったかどうかは疑問だ」という。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>混沌の被災地を取材して（下）</title>
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		<comments>https://www.rikuryo.or.jp/world_eye/indonesia/?p=16#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 03 Jul 2005 04:19:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[炎熱列島からの手紙～ジャカルタ特派員報告【第6話】 ▲山間部に向かうには鉄骨の上に木の板を渡しただけの危険な橋も渡らねばならない （西アチェ県で３月） アチェ州では国軍が03年５月から独立派武装組織「自由アチェ運動」（Ｇ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>炎熱列島からの手紙～ジャカルタ特派員報告【第6話】</strong></p>
<table border="0" width="300" cellspacing="0" cellpadding="0" align="RIGHT"　>
<tbody>
<tr>
<td align="RIGHT"><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki06-2.jpg" alt="" width="256" height="192" /><br />
<span>▲山間部に向かうには鉄骨の上に木の板を渡しただけの危険な橋も渡らねばならない<br />
（西アチェ県で３月）<br />
</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>アチェ州では国軍が03年５月から独立派武装組織「自由アチェ運動」（ＧＡＭ）への掃討作戦を展開し、ＧＡＭは山林にこもってゲリラ戦で対抗している。 津波後も銃撃戦が続き、数百人の死傷者が出ている。その上、海域には海賊も多発する。<br />
同州での被災地取材で最も気を遣っているのは安全対策だ。</p>
<p>１月６日、私たちは乗用車でメダン市からバンダアチェ市に向かっていた。州境に国軍詰め所があり、検問をしていた。私たちはパスポートや記者証の提示と 賄賂を求められた。当時、本当は陸路での入境も自由だったが、手続きをした助手によると、兵士が「外国人は本来、空路でアチェ州に入るべきだ。考慮を求め る」「直前に通過した外国メディアは10万ルピア（約１２００円）払った」などと話し、金銭を要求したという。</p>
<p>軍の横暴に抗議したこともある。２月上旬、バンダアチェ市郊外の国軍詰所前で人を待って停車していると、兵士が運転手にガソリンタンクを開けさせ、 チューブを使ってガソリンを抜き取り始めた。車を降りて抗議すると、兵士は激昂して「こっちへ来い！」と叫び、私を仲間の兵士が集まる場所に連れて行っ た。上官が温厚な人物だったため事なきを得たが、兵士はおそらく民間人に逆らわれた経験がないのであろう。これが人気のない場所だったら、あるいは上官が どう猛な性格の人物だったら、と考え、自分の対応を反省した。<br />
アチェ州で配慮すべ危険には、①交戦に巻き込まれる危険②ＧＡＭに襲われる危険③国軍に襲われる危険――がある。</p>
<table width="300"　border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" align="LEFT">
<tbody>
<tr>
<td align="LEFT"><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki06-1.jpg" alt="" width="256" height="192" /><br />
<span>▲地盤沈下で満潮時に海水に浸るようになったバライ島の漁村（４月）<br />
</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>２月下旬に国軍幹部の同行でバンダアチェから直線距離で約30㌔の大アチェ県ローン郡の国軍詰所を通過しようとした時、若い兵士があわてて走り寄って窓 をたたき、幹部の車を止めた。「付近で数時間前に（国軍とＧＡＭの）交戦がありました。敵は逃走中です！」と叫ぶ。周辺にいた数人の兵士は皆、緊張で顔が こわばっていた。ＧＡＭ約30人と国軍７人が交戦し、国軍兵士１人が負傷したという。先の行程は中止になった。<br />
引き返す途中、別の国軍詰所に張ってあった地図には、ＧＡＭの潜伏地域や最近の交戦地点に印が付けられていた。現場付近に限った地図だが、印はいずれも 数箇所あった。 また、ＧＡＭは国際世論の支持を必要とするため外国人は襲わないと言われているが、ＧＡＭ内にもいろんな立場のメンバーがおり、保証はない。</p>
<p>一方、国軍が住民を殺害し、ＧＡＭの仕業と公言する事例も従来、多数報告されている。国軍にとって同州での紛争は「大企業からの警備料徴収」「密輸など の違法ビジネスによる収入」「国内唯一の実践場」を確保するために重要だ。そのために自作自演の「危険」を演出する可能性があり、私たちがその犠牲になる 可能性もある。このため、人里少ない場所を取材する際は、国軍幹部に事前に話をつけるか、可能であればその同行を得る努力をした。</p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" align="LEFT">
<tbody>
<tr>
<td width="10"></td>
<td align="LEFT"><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki06-3.jpg" alt="" width="256" height="192" /><br />
<span>▲被災者の暮らすテント村<br />
<span>（大アチェ県ループン郡で５月）<br />
</span></span></td>
<td width="20"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>また、３月末の２度目の大地震でニアス島に近いバニャック諸島（アチェ州）を訪問した際は、スマトラ島から漁船で片道12時間かかった。ネズミが走り回 る甲板に雑魚寝し、トイレもないという不便さもさることながら、海賊の出没海域だったため、航海の安全が最大課題となった。出発前に海軍と時間をかけて交 渉し、射撃優秀兵士２名に同行してもらった。</p>
<p>深夜、北スマトラ州シボルガの海軍施設を漁船で出航した。兵士らは当初は警戒に目を凝らしている様子だったが、やがて眠ってしまった。ただ、腕は確か だった。２人の兵士のうち１人は夜が明けると、１・５㍑の空のペットボトルを海に投げ捨て、おもむろにライフル銃の銃口を向けると、３発、連射した。波間 に漂うペットボトルが砕け散った。発砲は私の２㍍横で予告なしに行われ、大いにびっくりした。</p>
<p>同諸島で最も人口の多いバライ島（約３０００人）には空港がなく、４月上旬に訪ねるまで、情報がほとんどなかった。当初、死者２００～３００人との情報 もあったが、現地で取材すると、死者はいないことが分かった。一方、地殻変動による１㍍以上の地盤沈下で約７００軒のうち約２００軒が浸水し、住民らは内 陸や高台の避難所（テント村）で生活していた。これはそれまで報じられていなかった。私たちはひざまで水につかって浸水した漁村を歩き、取材した。</p>
<p>アチェ州ではへき地に行けばいくほど、より慎重な安全配慮が必要だ。安全確保の準備・手続きに時間も労力もかかる。しかし、無事に被災地に行くことができ れば、それまで知られていなかった被災者の苦しみを外部に伝えることができる。これからもへき地を含む被災地取材を続けたい。</p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0">
<tbody>
<tr>
<td><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki06-4.jpg" alt="" width="256" height="192" /><br />
<span>▲震災直後のニアス島の市街地　（ｸﾞﾇﾝｼﾄﾘで３月）</span></td>
<td align="LEFT"><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki06-5.jpg" alt="" width="256" height="192" /><br />
<span>▲震災直後のニアス島ではガソリンの販売が<br />
制限され、大勢の人がスタンド前で待った<br />
</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>マラッカの海賊</title>
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		<pubDate>Fri, 01 Apr 2005 04:15:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[炎熱列島からの手紙～ジャカルタ特派員報告【第3話】 ２００５年、３月中旬、日本船籍のタグボート「韋駄天（いだてん）」がマラッカ海峡で海賊に襲われ、日本人船長ら３人が拉致された。 幸い、船長らは数日後に解放されたが、同海峡 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>炎熱列島からの手紙～ジャカルタ特派員報告【第3話】</strong></p>
<p>２００５年、３月中旬、日本船籍のタグボート「韋駄天（いだてん）」がマラッカ海峡で海賊に襲われ、日本人船長ら３人が拉致された。 幸い、船長らは数日後に解放されたが、同海峡では海賊事件が多発している。<br />
同海峡は全長約８００㌔、最小幅２・４㌔㍍で、 インドネシアとマレーシア、シンガポールの３国に接し、世界の原油輸送の半分が通過する海上交通の要衝だ。 最も恐れられているのは、大型船がテロ組織に乗っ取られ、シンガポールなど大都市の港や石油備蓄基地などに船ごと突撃する自爆テロが起きる危険性だ。 このため同海峡のテロ対策に世界の関心が集まっている。</p>
<p>さて、&#8221;海賊&#8221;とはどういう人が行っているのか？　幼いころ、「小さなバイキング　ビッケ」というアニメ番組がテレビで放映されており、毎回、楽しみに していた。 そのころ私は海賊というのは昔話とか物語の世界の話であって、この世に実在するとは思っていなかった。よもや30数年後に実際の海賊に面会しようとは。 実際に会って話した海賊は普通の船員が生活に困って所業に及んだだけで、かつて思い描いた蛮人のイメージとは違っていた。</p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" align="LEFT">
<tbody>
<tr>
<td><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki03-1.jpg" alt="" width="256" height="192" /><br />
<span>▲ﾏﾗｯｶ海峡を警備するｲﾝﾄﾞﾈｼｱ海軍特殊部隊の高速艇。<br />
<span>最高時速90㌔で疾走するが、スクリューに海藻がからまって<br />
よく停止する＝インドネシア、バタム島岸で</span><br />
</span></td>
<td width="30"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>昨年秋、インドネシア・ビンタン島の拘置所で、海賊を犯して起訴された数人に面会した。<br />
事件は昨年2月、ヤシ油を積んだ台船とタグボートを刃物で武装した海賊12人が乗っ取った。被害船の船員らは近くの島々で解放されたが、ボート と積荷の被害は２億円を超えた。 主犯4人は奪ったタグボートなどで逃げ、残り8人は乗ってきた小型船が故障して動かなくなって水上警察に逮捕された。操縦役を務めた男性（38）は船員歴18年。約２年間、船の仕事がなく、乗り合いタクシーの運転手などをした。 １日百数十円～６００円の収入で、５歳と１歳の息子を抱えて月２５００円の家賃を払うにも困った。家主も船乗りだったので理解を示し、滞納を大目に見てく れた。<br />
そんな時、船員仲間から仕事を紹介された。海賊とは知らされなかった。指示された目的地に近付くと、船主が衛星電話でだれかと連絡をとった。 後で分かったが、電話の相手は主犯と内通していた被害船の船長だった。間もなく現れた台船とタグボートを仲間が乗っ取った。</p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" align="RIGHT">
<tbody>
<tr>
<td width="30"></td>
<td align="RIGHT"><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki03-2.jpg" alt="" width="256" height="192" /><br />
<span>▲「海賊島」と呼ばれる島々の一つに含まれるバビ島<br />
（インドネシア・バタム島とシンガポールの中間に位置）<br />
<span>周囲約1㌔の小島で、土地が小さいため<br />
六十数件が高床式の海上家屋としてひしめく。 </span></span></td>
<td width="30"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>逮捕後、妻（32）が病気で急死し、ショックでしょげ返っていた。 準主犯格の男性がすごみのある顔で私をにらみつけ、取材を拒否したのとは対照的に、気の小さな真面目そうな男性だった。<br />
別の男性（32）は数年間の船員経験後、さらに技術を磨こうと船員講習会に通ったが、その後約2年間、仕事がなかった。 仲間宅に身を寄せ仕事を探しているとき、誘われて海賊に加わった。船員としての自分の技量に誇りを持っていることが話の端々からうかがえる。<br />
「もっと仕事があれば、海賊になど手を染めなかった。自分が拘置所にいるのが信じられない」と悔しがった。</p>
<p>インドネシア人船員の仕事はたいてい半年から数年の短期契約だ。契約が切れると次の仕事が見つかるまで数週間から３カ月かかる。 また、英語の達者なマレーシアやフィリピンの船員と比べ彼らの賃金は低い。生活に困った船員が誘われて海賊になる。 経験を積んで海賊の幹部になれば、仲間を引き入れる側に回る。</p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" align="RIGHT">
<tbody>
<tr>
<td width="30"></td>
<td align="RIGHT"><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki03-3.jpg" alt="" width="256" height="192" /><br />
<span>▲斡旋業者が職を紹介しにやって来るのを待つ船員ら。<br />
<span>シンガポールの対岸、インドネシア・バタム島の裏通りにて。<br />
業者は来ない日の方が多いという。<br />
</span></span></td>
<td width="30"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>バタム島の約11㌔沖にあるバビ島では、島の主産業である漁師の日収は２００円に満たない。 夜は漁をし、昼間は口があれば、近隣の島で土木・建築や農作業の日雇い仕事につく。これも１日約３５０円だ。 貧困から手っ取り早く脱出するために海賊に転じる者が多く、「海賊島」と呼ばれる島の一つになった。<br />
パトロール強化で海賊は減ったが、貧しさは変わらず、島に売春宿がある。買春にくる海賊が近隣住民を引き入れる。 住民の男性（30）は「海賊に加わる者とそれ以外の住民とは、今の暮らしを許容できるかどうかで分かれる」と話した。<br />
また、今回の「韋駄天」の事件では、インドネシア・アチェ州の独立派武装組織「自由アチェ運動（ＧＡＭ）」の関与が推測されている。 同国軍がマラッカ海峡の同国領海での海賊事件の8割がＧＡＭによる生活費や軍資金目当ての犯行だと指摘する。 「8割」の根拠はともかく、ＧＡＭはここ数年、支持者の減少で兵站が疲弊しており、海賊に手を染める可能性はある。<br />
<span> ※昨年末に発生したインド洋大津波の被災地、インドネシア・アチェ州（スマトラ島）などの取材が忙しかったこともあり、長らく休載させていただきましたこ とをお詫び申し上げます。 アチェの状況（特に写真）については追ってご紹介できる機会もあろうかと存じます。 </span></p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>混沌の被災地を取材して（上）</title>
		<link>https://www.rikuryo.or.jp/world_eye/indonesia/?p=14</link>
		<comments>https://www.rikuryo.or.jp/world_eye/indonesia/?p=14#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 01 Jan 2005 04:17:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[炎熱列島からの手紙～ジャカルタ特派員報告【第4話】 ※２００４年12月26日、スマトラ島（インドネシア）沖のインド洋で大地震があり、沿岸一帯を大津波が襲いました。死者・行方不明者が20万人以上にの ぼるなど被害の詳細はマ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>炎熱列島からの手紙～ジャカルタ特派員報告【第4話】</strong><br />
<span> ※２００４年12月26日、スマトラ島（インドネシア）沖のインド洋で大地震があり、沿岸一帯を大津波が襲いました。死者・行方不明者が20万人以上にの ぼるなど被害の詳細はマスコミが伝えてきました。ここでは３回に渡って取材体験記をお話しさせていただきます。 </span></p>
<p>インド洋大津波の最大の被災地、インドネシア、アチェ州の州都バンダアチェ市はその日、人々が大災害の現実を受け止めきれないのか、空港も町も 静まり返っていた。被災翌日の04年12月27日。空港には寝場所や援助を求めて詰め掛けた被災者が既に数百人いた。夕方になってたどり着いた市中心部は 人影がまばらだった。<br />
津波は26日朝、約２００㌔におよぶアチェ州南西海岸と北端のバンダアチェ市を襲った。<br />
27日朝、私とジャカルタの取材助手（女性、26歳）はメダンに着いた。「バンダアチェ空港は地震による損壊で閉鎖」との情報もあり、その先、 どうやって被災地に行けるか検討がつかなかった。しかし、メダン到着後、同空港は使用可能と分かり、ガルーダ航空がメダンからバンダアチェへの臨時便を出 した。この便にありつけた外国メディアは、日本の３社を含む数社だけだった。同便の直後にチャーター便でバンダアチェ入りした日本メディアもあった。</p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" align="LEFT">
<tbody>
<tr>
<td><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki04-1.jpg" alt="" width="256" height="192" /><br />
<span>▲空港から十数分走ると、<br />
広場に数百体の遺体が集められていた<br />
<span>（バンダアチェ市で12月27日）<br />
</span> </span></td>
<td width="30"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>バンダアチェ到着は午後２時ごろ。普段なら客引きに寄ってくるタクシー運転手らが１人もいない。時折、難を免れた乗用車が発着するが、多人数を乗せて到 着すると、新たに親せき・知人らしき人たちを乗せてあわただしく立ち去る。助手と一緒に何台かの車に駆け寄り、乗せてくれ、貸してくれと頼んだが断られ続 けた。<br />
空港に家族を迎えに来た人の乗用車に乗せてもらえたのは夕刻だった。町には遺体が散乱しているという。恐れていた通りだ。十数分走ったところに大量の遺 体が集められていた。ざっと５００体は下らない。<br />
乗用車の家族は被害のなかった地域で私たちを降ろし、「空港に戻る車が見つからなければ訪ねてきなさい」と高台にある住所を教えてくれた。付近にベチャ と呼ばれるサイドカー付きオートバイが数台走っていた。１台をつかまえ、被災中心地へ向かう。日はほとんど暮れていた。数分走ると、道路のあちこちに遺体が転がっていた。どの遺体も両腕を宙に突き出してマネキンのごとく硬直している。ヘッドライトに照らし出される遺体の 一つ一つが強烈なインパクトで目に飛び込んできた。大通りでは、歩道の各所に十数体～二十数体ずつの死体置き場が設けられていた。驚愕の光景を次々に目の 当たりにし、「この状況を早く日本に伝えなければ！」と気だけがせいた。<br />
ホテルも商店も１軒も開いていなかった。がれきの山に阻まれて近付けない地域も多かった。停電で町は真っ暗だ。空港から乗せてくれた人の家を何とか訪ね あてた。</p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" align="RIGHT">
<tbody>
<tr>
<td width="30"></td>
<td align="RIGHT"><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki04-2.jpg" alt="" width="256" height="192" /><br />
<span>▲高台の家屋に集まって眠る人たち。<br />
女性は軒先に、私たちは玄関のすぐ内側で眠った<br />
<span>（バンダアチェ市で12月27日）<br />
</span></span></td>
<td width="30"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>その家と隣家には十数人ずつが集まっていた。親せきを頼ってきた人や、余震を警戒して自宅よりも丈夫な家屋を訪ねてきた人らがいた。海岸付近から避難し てきた男性に１時間余り取材後、一緒に眠らせてもらった。揺れたらすぐに逃げ出せるよう、扉は開け放したままだ。このため蚊にあちこちを刺された。マラリ アやデング熱がこわいが仕方がない。男数人が玄関口、女性約10人が玄関を出てすぐの軒先に眠った。</p>
<p>この日、アチェに着いてから口にしたものはビスケットと少量のパンだけだ。被災地で食料が入手しにくいことは、95年の阪神大震災でよく知っていた。神 戸市中央区の自宅で被災した私は当日、朝から翌日未明まで神戸市内を歩き回って取材した。開いていた店はコンビニ１軒のみ。それも、開店後20、30分で 食料が完売し、「柿の種」だけを食料に未明まで歩き通すことになった。<br />
その教訓があったので、アチェに着く前に食料を買い込んでおきたかった。しかし、自宅を出たのは午前５時ごろで店は開いていなかった。前日は原稿や出張 準備で忙しかった。メダンでは、臨時便の出発時刻が確定しないため空港を離れられなかった。空港でパンやお菓子をできるだけ詰め込んで「冬眠前のクマ状 態」となり、菓子を買うのが精一杯となった。</p>
<p>明け方、前夜に取材した男性に自宅付近を案内してもらうべく、家を出た。ベチャの運転手が迎えに来てくれていた。少し行くと、路上に眠っている人もたく さんいた。</p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" align="RIGHT">
<tbody>
<tr>
<td width="30"></td>
<td align="RIGHT"><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki04-3.jpg" alt="" width="256" height="192" /><br />
<span>▲がれきに埋もれた自宅前でぼう然とする男性。<br />
この男性と一緒にがれきの上を歩いた<br />
<span>（大アチェ県で12月28日）<br />
</span></span><br />
<img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki04-4.jpg" alt="" width="256" height="192" /><br />
<span>▲被災地を黙々と歩くバンダアチェ市民ら。<br />
<span>（12月28日）<br />
</span></span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>男性の自宅は残っていたが、高さ２㍍を超えるがれきが周囲を埋めていた。がれきの中のところどころに遺体があった。近くのモスクは遺体安置所になってい た。<br />
男性と別れて市中心部に向かった。ベチャのガソリンがなくなりつつあった。実は支局に衛星電話を常備しておらず、通信手段がなかった。他社の衛星電話を 借りて最小限の情報を東京に伝えたが、早くルポ原稿を届けなければならない。ガソリンも切れそうだし、いったんアチェを出ることに決めた。</p>
<p>ところが、空港の混雑が尋常ではなかった。メダンに脱出しようとする人々が券売所に長い列を作っていたのだ。一方で、発券カウンター内に自由に出入りし ては、優先的に航空券と搭乗券を受け取っている空港職員らがいた。観察すると、この職員らは空港の警備に当たっている国軍兵士らから指示を受けていた。そ して、一部の客が折りたたんだ紙幣と搭乗希望者リストを兵士らに渡し、航空券あっせんを依頼していた。<br />
アチェ州では、独立派武装組織「自由アチェ運動」（ＧＡＭ）と国軍の間で長年、交戦状態が続いている。「ＧＡＭの協力者」と疑われた住民が国軍に拷問や 嫌がらせを受ける事例が多く、人々は兵士を極度に恐れている。航空券あっせんは国軍の権力を利用した「臨時アルバイト」だったようだ。おかげで、購入に約 ４時間かかった。冷房はなく、煙草の煙が充満する騒がしいロビーで航空券を求めて数時間並ぶ体験をその後も２、３回繰り返した。</p>
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		<title>曽我さん一家再会にまつわるこぼれ話</title>
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		<pubDate>Sun, 10 Oct 2004 04:09:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[炎熱列島からの手紙～ジャカルタ特派員報告【第2話】 前回は2004年7月に曽我ひとみさん一家の再会がジャカルタに決まった前後の取材や報道の状況を紹介した。今回は同じ曽我さん問題にからみ、あまり報道 されなかった話を紹介し [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>炎熱列島からの手紙～ジャカルタ特派員報告【第2話】</strong></p>
<p>前回は2004年7月に曽我ひとみさん一家の再会がジャカルタに決まった前後の取材や報道の状況を紹介した。今回は同じ曽我さん問題にからみ、あまり報道 されなかった話を紹介したい。</p>
<h3>１）	なぜ、バリではなくジャカルタになったのか？</h3>
<p>日本大使館は６月30日、インドネシア国家警察に対し、一家の訪問候補地として、ジャカルタ以外にいずれもビーチ・リゾートの３カ所の滞在候補地（バリ 島、アニュール、ビンタン島）を報告している。アニュールは在インドネシアの邦人の間でもあまり有名ではない。ジャカルタのあるジャワ島の西端に位置す る。ビンタン島はシンガポールとの国境付近にあり、同国から高速艇で40、50分だ。シンガポーリアンの観光客が多い。日本大使館幹部によると、バリ島を 除く２つは事前のインドネシア外務相との相談の中で相手方が提示してきたリゾート地だそうだ。<br />
大使館は７月上旬までに2度に渡って大使館員をバリ島などに派遣し、一家の滞在先として適当な場所を調査していた。最有力地はバリ島で、貸し別荘や、敷 地と建物を貸しきるビラ・タイプの宿泊施設など具体に数カ所が検討された。大使館幹部らは、一家が数週間ジャカルタに滞在した後、バリに移って数カ月間滞 在するというプランを想定していたようだ。<br />
最初にジャカルタとなったのは北朝鮮側の希望もあったらしい。北朝鮮大使館のあるジャカルタの方が、彼らにとって協議に便利だからとの理由だ。北朝鮮と してはジェンキンス氏を本国につれて帰るのが目標だったので、本国からの随行員だけでなく北朝鮮大使館のバックアップも必要だった。一方、日本側として も、ジェンキンスさんの健康チェックや、北朝鮮・インドネシアとの協議の便がよかった。<br />
ただ、大使館のだれもが、実際の滞在期間がどれほどになるのか分からなかったようだ。ジェンキンスさんの健康状態が悪く、思いのほか早期に日本に行った のは、彼らにも予想外だった。</p>
<h3>２）	なぜインターコンチネンタル・ホテルだったのか？</h3>
<p>一家の来訪日程がぎりぎりまで決まらなかったため、大使館が、普通のホテルに予約を入れるのは難しかった。ここで「普通」のホテルとは、日本大使館と特 につながりのないホテルという意味だ。一家滞在時、大使館はインターコンチネンタル・ホテルの14階（20室以上）を期限を決めずに借り切り、一家が去る と同時に引き払った。貸し切りの開始も終了も直前まで通告しなかったのにキャンセル料は請求されなかった。「普通」のホテルならこれは不可能だ。滞在の開 始日と終了日を事前に通知しないと、ワン・フロアーを借り切ることなどできない。あるいは、大雑把に予約し、あとはキャンセル料や違約金で調整するしかな い。<br />
インターコンチネンタル・ホテル・ジャカルタのオーナーはインドネシア人だが、奥さんは日本人で、「ジャカルタ三大日本人女傑」の1人と呼ばれている。 この奥さんが、インドネシアの警察改革支援プログラムのためにジャカルタに滞在している警察庁幹部夫婦と懇意であり、その紹介で大使館が無理をきいても らった、という経緯だ。外務省としては、キャンセル料を計上する予算項目がなく、仮に計上する場合は、「国損」として手間のかかる処理を必要とする事情が あり、キャンセル料を極力回避したかった。<br />
故・小渕総理と親しかったとされる人物の側近がジャカルタ支店支配人を務める別のホテルもこうした点をクリアーし得るとみられ、大使館も候補地の一つに 含めたが、警備や設備面で劣ることなどを理由に除外された。</p>
<h3>３）	なぜ、プレジデンシャル・スイート・ルームだったのか？</h3>
<p>一家は１００平方㍍前後のプレジデンシャル・スイートという本来なら一泊１８００㌦の最高級ルームと、隣接のスイート・ルームに泊まった。大使館幹部に 聞くと、実際には半額以下に値下げしてもらったそうだ。また、「批判は想定し、悩んだ。だが、もっと長期滞在になることを想定し、少しでも快適な部屋をと 思った」と説明していた。<br />
しかし、ジャカルタの庶民の邦人女性らの中には、「家族が静かに再会するために、何もプレジデンシャル・スイートである必要はない。辞退する選択肢も あったのでは」という声も多かった。さらに、大使館はこの部屋に大型冷蔵庫や洗濯機、食材、調理用コンロも運び込んだ。夫婦の部屋にはビデオもあったが、 家族が到着後、曽我さんの求めに応じて娘の部屋にもビデオを追加した。<br />
「一家が静かに再会させる」という目的に対し過度のもてなしぶりだと私は思った。「できるだけ一家の機嫌をとって、一家そろっての日本行きを決心させ る」という外務省の思惑が見えなくもない。政権がこの件を人気回復に利用しようとする意図がなかったら、果たしてそこまで優遇したのかどうか、疑問であ る。</p>
<h3>４）	批判を招いた秘密主義</h3>
<p>曽我さん一家のジャカルタ滞在中、彼らの予定や今後の処遇に関する情報がインドネシア・サイドになかなか報告されなかった。情報漏れを警戒してのことだ と思われるが、再会に場所を提供し、数少ない北朝鮮との友好国として仲を取り持ってきたインドネシア外務省としては面白くなかったようだ。関係幹部は取材 に対し「日本はなぜわが国に事前に情報を提供しないのか。我々は協力してきたつもりなのに心外だ」と話した。<br />
また、同国外務省内では日本外務省のやり方に腹を立て、「こんな案件は放っておいて、自分たちにとってもっと大事な案件に集中しよう」という声もあがっ たそうだ。<br />
警護を担当する治安当局によると、一家が移動する際でも直前まで警護依頼がなく、態勢を整えるのに苦労したという。<br />
情報漏による不利益の度合いは定かでないが、日本外務省の情報管理のあり方が、協力してくれた国の不況を買うに値するものだったのかどうかは疑問であ る。</p>
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		<title>曽我さん一家インドネシアへ</title>
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		<pubDate>Fri, 01 Oct 2004 04:07:11 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[炎熱列島からの手紙～ジャカルタ特派員報告【第1話】 北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさん一家がインドネシアで再会することが2004年7月1日、インドネシアの首都ジャカルタで行われた日朝外相会談で 決まった。会談は、同月 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><strong>炎熱列島からの手紙～ジャカルタ特派員報告【第1話】</strong></p>
<table border="0" cellpadding="12" width="600">
<tbody>
<tr>
<td>北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさん一家がインドネシアで再会することが2004年7月1日、インドネシアの首都ジャカルタで行われた日朝外相会談で 決まった。会談は、同月2日の東南アジア諸国連合（ASEAN）地域フォーラム（ARF）閣僚会議に出席のため当地に来ていた白南淳（ペク・ナム・ス ン）・北朝鮮外相と川口順子外相の間で行われ、この段階では再会の日程は固定せず、まずは場所だけを決めた。</p>
<p>場所がインドネシアになったことで、ジャカルタ駐在の邦人記者ら（朝日新聞、共同通信、時事通信、日経新聞、NHK、読売新聞、弊社＝毎日新聞など）は 困った。<br />
&#8217;04年は4月に5年ぶりのインドネシア総選挙、6月末から7月上旬にASEAN外相会議とARF、7月上旬に大統領選挙――といずれも数年に一度の大行 事が相次ぎ、とにかく忙しかった。私も3月からほとんど休みなく働いていた。大統領選は7月の第1回投票での当選条件である過半数を獲得する候補が出そう になく、9月に決選投票を行う見通しが濃厚だった。そこで、第1回投票を終えたらひと休みして決選投票やその前後の特集記事、連載記事の取材準備にかか る、という思惑が記者の間で一般的だった。記者らはARF後の「ひと休み」を非常に楽しみにしていた。</p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" align="LEFT">
<tbody>
<tr>
<td><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki01-1.jpg" alt="" width="280" height="210" /><br />
<span>▲曽我さんが到着する直前<br />
ホテルのロビーで待ち構える大報道陣</span><br />
<span>（7月8日） </span></td>
<td width="30"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>しかし、記者らの疲労がピークに達していた6月、曽我さんがインドネシアに来る可能性は日に日に高まり、7月1日、とうとう確定した。こうなったら仕方が ない。観念して曽我さん一家再会問題に取り組む決心をした。再会場所がインドネシアに決まった以上、次の報道の焦点は「インドネシアのどこか」「日程はい つか」「再会後、どうするのか」――などだ。</p>
<p>インドネシアでは取材の際の主な言語はインドネシア語だ。だから、各メディアとも現地の記者を助手として雇い、取材の通訳をしてもらうほか、助手が自分へ の情報提供者を政府や議員、捜査当局、国軍などに開拓して情報収集し、特派員に報告する。特派員が自分で取材するケースもあるが、勝負の分かれ目の多くは 助手の情報収集力と特派員から助手への取材指示の的確性だ。</p>
<p>さて、曽我さん一家再会問題の場合、大統領官邸や外務省、治安当局などがインドネシア側の取材先だった。再会場所の提供者としてインドネシア外務省は日 本、北朝鮮の各外務省と常に連絡を取り合ってきた。また、重要事項は官邸に報告される。警察などの治安当局は、例えば、曽我さんや夫のジェンキンスさんが ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港に到着してからホテルまでの移送、ホテルでの滞在などに際し、警護を担当するため、やはり事前に情報を知りうる立場 にある。</p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" align="RIGHT">
<tbody>
<tr>
<td align="RIGHT"><img src="../../../worldeye/indonesia/iwasaki01-2.jpg" alt="" width="280" height="210" /><br />
<span>▲メガワティ大統領が曽我さん一家を自宅に招待した際<br />
退出する外交官を取り囲み対談内容を聞き出そうとする<br />
日本の報道陣</span><br />
<span>（南ジャカルタの同大統領私邸前で7月17日） </span></td>
<td width="30"></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>彼らへの取材でまず明らかになったのは、1日の日朝外相会議で、川口順子外相が「7月11日までにバリ島で」との希望を白南淳外相に伝え、白外相が受諾し ていたことだ。「参院選投開票日の11日までにお願いします」と川口外相がお願いしていたという話だ。参院選で自民党を有利にしようとの思惑だ。これは7 月2日夕刊で報道した。<br />
しかし、その2日後、夕食を共にした日本大使館周辺の人物から「場所はジャカルタでほぼ決まったらしいよ」と聞かされる。ホテルの選定も進んでいるとの話 で、内容が具体的だし、情報の発信源が確かだった。この少し前、別の大使館周辺者からも「バリは遠い。（ジャカルタ近郊の）ボゴールでも、大使館が一家を 保護するのに遠すぎて便利が悪い」とのコメントを得ていた。こうした情報を総合して間違いないと判断し、「場所はジャカルタ」「理由は、保護が容易だか ら」と東京本社に電話し、朝刊13版（最終14版の一つ前、関西では大雑把に言って大阪に配られるのが14版、京都・神戸に配られるのが13版）から掲載 するように持ちかけた。</p>
<p>ところが、意外な抵抗があった。「場所はバリ」と報道してきた従来記事とそぐわないということで他の部（特派員は外信部所属。曽我さん問題はほかに政治部 などが担当）が難色を示し、ベタ記事になってしまったのだ。</p>
<p>しかし、事態は翌朝、一変する。情報の不一致を解消すべく、政府筋、外務省筋に取材攻勢をかけた政治部が「場所はやはりジャカルタ。日程は8日に曽我さん が先に来イ、9日に家族が合流」との大情報をつかんできた。私と助手もジャカルタで裏取り取材をし、「8日、9日」の各日程を確認した。これは5日夕刊1 面トップの特ダネとなった。</p>
<p>その後、日本から大挙して報道陣が押し寄せ、ジャカルタの情景が連日、日本のテレビに映し出されることになった。◆　◆　◆</p>
<p>その後、曽我ひとみさんは７月８日に、夫のジェンキンスさんら家族はその翌日に ジャカルタに着き、１年９カ月ぶりの再会を果たした。当初は数カ月から最長１年前 後のインドネシア滞在が予想されたが、ジェンキンスさんの病状が予想以上に悪く、 本人と家族が日本での早期治療を望んだことなどから、同月18日に日本に渡った。イ ンドネシアには家族で10日間滞在しただけで、外務省が想定していたバリなどの観光 地旅行・滞在はなかった。</td>
</tr>
</tbody>
</table>
]]></content:encoded>
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