アカシアの大連

2012年9月1日

六稜WEBの皆様 ニイハオ! 中国黒龍江省牡丹江生まれ大阪育ちの71歳、2001年より遼寧省大連市在住。暮らしの中から四方山話を綴ってまいります。どうぞよろしく。

はじめに、なにゆえタイトルを「アカシアの大連」にしたのかというところからですが、

2001年3月大連鉄道学院(現交通大学)に留学したばかりの頃、後輩のKさんから電話をもらった。だしぬけに清岡卓行著『アカシアの大連』を読んだことがありますかと聞かれ、恥ずかしながら未読ですと答えた。間もなく、休刊日(Kさんは北京で新聞社に勤務)を利用して来連、北京から夜行というタイトなスケジュールにも拘らず、私ごときにわざわざ本を届けてくださった由。突然の来訪に泡を食って大学の正門前に駆けつけた。僅か十数分お話しできただけでもうお別れ、これから先輩と会うのでと、文庫本を手渡してそそくさと開発区へ向かわれた。

何度目になるだろうか、あの日の文庫本『アカシアの大連』を懐かしく読み返していた丁度そのとき、六稜WEBから“山本会長のご指名です。連載記事を書いてみませんか”というメールを頂いた。これぞ私の大好きな え・に・し。だからタイトルは『アカシアの大連』がふさわしいなと思った。しかし、著作権法にひっかかることになりはすまいかなどと気になり検索してみた。著書名、曲名など作品そのものでないものについては適用なしと判明。なかにし礼作詞、平尾昌晃作曲の「アカシアの大連」や松任谷由美のアルバムに入っている「大連慕情」を見つけるというおまけまでついて、タイトルは決まった。

アカシアのかおりが 今も少し漂う

母にあてた手紙 きのう見つけた

黄ばんだ便箋にそそぐ陽ざし遮り

雀遊ぶ影は果てない空へ

返事は着いたのですか  遠い日の異国へ

父よ  あなたに似合ったでしょう 春の大連

アカシアの花が満開の5月末から6月初めにかけて開かれるアカシア祭りは、訪れる外国人観光客も多く国際色豊かなイベントになり大連市政府主催の開会式には市長も臨席する。五つ星ホテルでは政府招待の宴会が開かれ、労働公園(元中央公園)では茶道裏千家大連駐在員と弟子達によるお点前、華道池の坊の師匠と弟子達による生花など日本伝統文化の一端を披露し各国民族舞踊が華を添え賑わう。日中国交回復40周年にあたる今年、アカシア祭りも1989年から数えて23回目になる。

3年前まで、労働公園(日本租借の頃は中央公園)の近くに住んでいたから太極拳の仲間から懐かしげに子供の頃の話をよく聞かされた。“大連駅から老虎灘までは市電が走ってたねえ”(現在は2番路線バス)とか“電気遊園や動物園もあったねえ”などと・・。

市電が通ってたという解放路は広くゆったりしている。両側をアカシアの並木が続きアカシアの甘く芳しい香りと共に初夏がやってきた。アカシアに囲まれた街、大連が好きなワケの一つでもある。しかし、ここ数年、排気ガスと虫害に苛まれ、公害に強い銀杏に植え替えられてしまい樹の数はおびただしく減り続けている。

 

2004年の非典(サーズ)以来、北京上海に勝るとも劣らぬ勢いで車が増え続けている。当然、交通渋滞が頻発する。北京、上海、瀋陽、昆明そして坂道が多いから無理だと聞いていた大連まで緩和のため地下鉄工事に邁進しつつある。

ローンが組みやすくなったとはいえマイホームの夢はどんどん遠ざかる。2001年は1平米2300元であったのに、今や 10000元以上がざら、なんとも恐ろしくすさまじい数字ではある。大連は夏涼しく冬暖かい(室内には大抵スティームがある)そこで、大連で老後を過ごそうとハルビンや吉林など外地の人々が将来に備えて家や別荘を買う。軒並み高層ビル、高層アパートがにょきにょき。これでもかこれでもかとデベロッパーは競い合って開発に励む。果して完売できるのですか?ゴーストタウン化もあちこちみかけるのですが。智恵子抄ではないが「大連には空がない」とつい嘆きたくなる。

今春、勤め先の学校が旅順口区へ移転した。市内から遠くなるのは不便やなあと、しぶしぶ引っ越した。であるのにである。 なんたるシ・ア・ワ・セ!「ここには空があった」。

星は降り、月は輝き、眺めても飽くことなきとびっきりの。夜の散歩が楽しみになった。

ありゃあ!

4月半ばの土曜日、大連市内へ出かけて友人と食事をした。“家でコーヒーを飲んでかない”と言う誘惑(?)に負けて又ひとしきり駄弁リング。話にかまけて不覚にも、居間からキッチンへの5センチばかりの段差につんのめった。左手小指第2関節から上が左90度あっち向いてホイの状態に仰天した。なんせ生まれて此の方、骨折の経験は皆無。

友人が救急車(120番)を呼ぶと出はらってるからタクシーで病院へ行けと言われた。アイスノンで包んで大連大学付属第一病院(元日赤病院)へ駆け込んだ。レントゲン写真を見た医者は“脱臼だな。ちょっとそこへ座って”と言うや否や指をぐいっとつかんで引っ張った。痛~いっ。思わず医者の二の腕を思いっきりつかんだ。患者にこんな風につかまれるのだから外科の医者は大変だなあ。その筋肉質な硬さに驚いたり感心したり。ギプス代わりにブリキ片を指より一周り大きく切って薬指と一緒に固定してくれた。3日後、経過を見せた。その後は2週間に一度見せにおいでと言われた。アカシア祭り(5月25日~31日)の前日、24日、市内へ向かうバスの中で、久しぶりに労働公園にも行ってみようかなあなどと考えていた。あっ、アカシア。車窓からこぼれんばかりのたわわな白い花序を見かけた。病院の受付は込むけれど外科の受診時間は短い。病院から一目散に槐花大道(アカシア大通り)へ向かった。

槐花大道

友好、叙情、憩いをもたらすといわれるアカシアの花は観光客に人気がある。市政府が率先して2005年西崗区正仁街全長500メートル余りを槐花大道と命名した。百年を経た300余株が五四路からゴーリキー路に至る緑濃いトンネルを作り出している。小さく可憐な蝶の形の花が集まってみずみずしくふっくらとした房を作る。咲き初める頃は清楚な乙女、花序がその重さに耐えかねるほどたわわになる頃は、そのあまき香りに妖しさをいや増す熟女。今日のアカシアは、どないな風情? どきどきしながら一筋手前の通りで・・・。ああ、馥郁たる香りに包まれたいと願いしに、はらりはらりと花びらは・・・・・。

ふと、初代大連市長サハロフに思いを馳せた。彼が市庁を去らねばならなかった5月26日は雨だったらしい。彼は、雨に打たれるアカシアの花を見ただろうか。

(えんじゅ)

正宗(本家の意)の槐(えんじゅ)は中国原産の落葉樹で花を干し煎じて止血薬にする。

また、いにしえからの言い伝えに、周代には三太(さんたい=最高の官職)の官吏が槐の樹の下で天子にまみえたとか、漢代には槐の樹の下で涼をとり言葉を交わし遠方からやってくる人のことを思ったとかあってこの樹のことを文化の樹とも呼ぶそうである。

アカシア

学名ニセアカシア(Preudo Acacia) マメ科 ハリエンジュ(針槐)属

はじめ名前がなく槐(えんじゅ)に似ているのでニセアカシア・洋槐・針槐と呼ばれるようになったといわれる。北米原産の落葉樹で17世紀ヨーロッパにもたらされフランスやロシアに広まった。幹に棘があって花以外は有毒。アカシア蜂蜜はあっさり味。

花はてんぷらにして食べるとおいしいとか、試しに作ってみたがお世辞にも美味しいとはいえなかった。腕が悪かったせいだって言われそうですが。

アカシアをこよなく愛したサハロフ

1898年日清戦争後ロシアは旅順と大連湾を含む遼東半島を租借。1899年関東州を設置しロシア皇帝ニコライ二世は達里尼(遠いところの意)ダーリニという名の市街と自由港の創設を宣言し東清鉄道に任せた。その頃、サハロフはウラジオストック港の埠頭の築造を立派にやり遂げた功績をかわれて、技術長として東清鉄道からダ-リニに招かれた。以来、全面的にその建設を任された。1902年ダーリニは特別市制となった。建設が終了するまでの期限付きでサハロフはダーリニの市長を兼任した。その頃のロシアの知識人にはパリの賛美者が多かった。彼は極東の都市計画にその好みを取り入れパリそっくりの街づくりを試みた。七つの円形広場とそこから放射状にでるいくつもの道路を市街構成の骨格とする。緑豊かな公園、街路樹。その街路樹には、初夏を魅惑的に彩るアカシアをおいて他になしと決め、大量のアカシアの樹を南ロシアからシベリア鉄道で取り寄せた。そして、精力的に街づくりに取り組んだ。1904年2月、ダーリニ駅から東側の区画とごく一部の建造物ができたばかりで、日露戦争が勃発した。3月ダーリニ港湾の岸壁、工場、発電所など軍事上重要な一切の施設を、いざというときには爆破するため、準備をせよとの命を受けたが十分な爆薬がない。その上、もし元の状態とほとんど変わらぬダーリニに戻ってこられたならというかすかな希望を捨てきれない彼は小爆破にとどめた。(幸いかな)

5月26日、市庁をあとにしたサハロフは500人余りの男性達と共に徒歩で竜王塘経由で旅順へ避難し、ロシア軍が盛り返すことを期待していた。戻って建設再開したいと夢見たまま要塞でチフスにかかり亡くなった。

市の中央にある円形の中山広場から放射状に街路が延び同心円状に幾重にも取り巻く街路。不凍港を求めてやまぬロシアの南下政策の橋頭堡となったというものの、サハロフと言う建設技術者がパリに似せて描いた未完の芸術作を日本が完成させた街。

ロシアと日本、二つの国の技術者達の租借地に注いだ情熱と芸術性は高く評価され、今も尚、アカシアの香りとともに息づいている。