六稜NEWS-051001
    六稜ト−クリレ−【第24回】
    「能と能面の秘密〜キィワードは原人称」
    見市泰男(81期)さん



    reporter:東野雅子(東野章子@64期長女)


    能面づくり30余年の方のお話を伺えるという思いがけない機会に恵まれた。実は高校生の頃から、いつかはやりたいと思っているのが木彫りの仏さまと能面づくり。長い年月を背負った木肌にノミや刃をあてると自分の小ささがそのまま現れそうで、どうにも怖い。それでなかなか踏み出せないでいる。

    それでも今夏やっと木を削るところまでいった私は、面打の第一線におられる方にお目にかかれるとあって卒業生の母の後ろからいそいそ会場へ向かった。みると入り口のポスターに「キイワードは原人称」とある。英語と日本語の狭間で仕事をしながら、ことばの不思議や魅力に翻弄されている者には気になる文句だ。ますますもって、お話が楽しみになる。

     
    さてスライドやビデオをふんだんに盛り込んでの見市さんのおはなしは、とても楽しかった。数多ある面のなかで、翁だけは顎の部分が動くこと(鮮やかに修復された四天王寺の蘭陵王面も顎の上下が紐でつながっていたが、何か関係はあるのだろうか)。もともとは面【ミィエン】と中国語で呼ばれていたのが面【おもて】という和語に変わったのは、近世になってからであったこと。大学時代に少し能を囓りはしたものの、知らないことばかりだ。

    翁。大飛出。中将。小面。童子。山姥。猩猩。どの面も同じ大きさでスクリーンに映し出されるので、それぞれの表情の違い、目や鼻の大きさ・位置などを比べることができておもしろい。それも使用演目や名前の由来など、見市さんにいちいち解説していただきながらという贅沢なスライド・ショーだ。(切れ長の目が、鬼の面になると丸く飛び出るのは、歌舞伎の睨みのように魔除けの意味合いが込められているのだろうか。それとも京都を中心とする文化がいわゆる「異人」に対して抱いていたイメージなのだろうか。素人の気楽さで、ふわふわと想像が飛躍する)

    実際の面打ち作業では荒彫りをした後に型紙をあてがい、顔料を塗るわずかの隙間をあけて元の面と寸分違わぬよう成形するのだという「企業秘密」も明かして下さった。また古面の修復作業に蛍光X線分析なる最新化学技術が用いられ、顔料をニワカに定着させるためにフノリが使われていたことがわかってきたという「最新発見」のおすそ分けに預かることもできた。こういうお話を伺うと、無愛想きわまりない化学記号が音符に見えてくるから不思議だ。

    さて、そしていよいよ「原人称」のお話。例えば「若女」の面をつけて『大原御幸』の六条宮も『熊野』の遊女も演じられるように、「小面」が全く趣の異なる『船弁慶』にも『杜若』にも使われるように、お能の面は多様な役柄を担うことができる。面【おもて】は、固有名詞を持った特定の「誰か」ではないのだ。

    また謡曲『松風』の最終部にみられるように、お能における演じ手と声主にはいろんなパターンがある。シテと呼ばれる主人公の松風は、自身の台詞を謡うこともあれば想いをよせる在原行平の台詞を謡うこともある。またバック・コーラスである地謡によって、松風の台詞が謡われることもある。

    それは「我【われ】」と「彼【かれ】」を厳密に区別することなく、その間に身を置き無心で舞台をつとめるところから「花」が生まれるのだと説いた世阿弥の考え方につながる。懸言葉・枕言葉・縁語などの謡曲のことばが特定の名前や事象を指すのではなく、多様の意味を想起させ音のつながりのコスモロジーを花開かせることにつながる。

    そんな能の世界をすうっと受け入れてきた文化には、個人を前提として善と悪を断定してしまう価値観ではなく、数多の違いを面白いと楽しむ懐の深さがある。言葉で説明できる意識のレベルで信じるところが相容れなかったり、自身のいのちが地球の裏側や太古の昔とつながっていると実感できなかったりすることから繰り返される悲惨な事件を乗り越えて、ほんとうの意味で共に生きていける21世紀を築いてゆくために、「原人称」のことばで謡い、600年を塗りこめた面をつけて舞う能はヒントになるのではないか。

    私には見市さんのおはなしが、こんな風に受け止められた。
    ここから先は私見になるが、ことばが人間同士の狭い枠を超えて、鳥や木や山や水とも交わされていた頃(そして今でも世界の多くの人々は、鳥や木や山や水とことばを交わし、自身の中に他を感じながら生きている)、ことばは、ちょうど天から雷鳴が響いたり海の水が月の満ち欠けと呼応して寄せたり引いたりするように、「個人」の占有物ではなかったのではないだろうか。「私」の口から発せられる音のつらなりは、「私」を超えたもっと大きな存在を讃えたり呪【まじな】ったりしていたのではないか。だから名前を呼ぶことはみだりにしなかった。ことばには魂が宿るから。ことばを発するとは、その魂の力を引き受けることだから(役というのは「なる」ものではなく「おりてくる」ものだ、という観世寿夫さんの言葉が紹介されたが、ここにはことばを発しながら身体を動かすという行為の原点があるように感じられた)。

    だから周囲のいのちを「カミ」や「精霊」としてみる(つまり、いわゆる「多神教」の文化を生きる)人々のことばには、「主体」や「主語」という考え方がそぐわないのではないか。英語と日本語を飛行機の両翼のようにして育った私は、両言語の間で日々仕事をしながらこんなことを考える。

    現在、私は中・高等学校で英語教師として勤務している。レッスンの度に、自分の仕事は生徒達の「こえ」を聞くことだと思う。学び手の一人一人のこころが発するこえを、エイゴという楽器にのせる手伝いをしているのだと思う。見市さんのおはなしに、能が野外で演じられることが多かった時代には面をつけたシテの横でツレが連吟することが日常だったとあった。シテである生徒達のこえとツレである私のこえがここちよいハーモニーを奏でられたら、そこに「花」が生まれるのかもしれない。

    貴重なおはなしを伺うことができて、そしてたくさんのfood for thoughtをいただくことができました。素敵なひと時を、どうもありがとうございました!

    Last Update: Oct.6,2005