恩師を訪ねて【第25回】

    昭和23年(1948)頃の北野の教職員

    母校北野の数学教師に

    石田千代之輔先生


      戦争が終わったけれど、日本の造船などはもうペチャンコですよ。仕事などはありません。そこで、昭和21年11月に名古屋市立明徳工業学校というところへ就職しました。日本で唯一の造船科のある中等学校で、大学の先生の紹介です。1年足らずここにいましたが、昭和22年8月北野に来ることになりました。これには水鳥喜平先生、鈴木清一郎先生が私を呼んで下さったというのが大きいと思います。そこから戦後の北野の教育にかかわったということになるのです。昭和38年6月まで続きますから、16年北野で御世話になったことになります。

      昭和22年の8月、数学の教師の免許を無試験でもらったことになります。そのころ北野にはまだ教職員用の畑なんかがあって野菜をつくっていましたよ。そんな中で、野球部は練習をはじめていて、昭和23年は選抜に出場しました。翌年には全国優勝で、北野がいっぺんに明るうなりましたね。 北野時代、私は教務という仕事が長かった。この仕事の大きなものは春休みの時間割りづくりですよ。これはなかなかの仕事で徹夜のこともありました。好きなスキーもあきらめる桜知らずという年もありました。生徒や先生のために一番いい時間割をどうしてつくるか、これは本当に意味のある仕事だったと思います。もうひとつ北野でうれしかったのは、ほとんど毎年担任を持たせてくれたことです。そのおかげで今でも卒業生のみなさんに会合あるたび招んでもらえるのでしょうね。

       
      64期(昭和23年から5年間)、67期(3年間)、69期(2年から2年間)、72期(3年間)、75期(3年間)、77期を1年生の6月まで持って、教育委員会にいくことになります。クラブ活動ではやっぱり、自分の北野時代の経験から、山岳部の顧問をさせてもらった。これは私も好きだから、毎年一般募集もやって北アルプスへ行きました。それにバスケットボールの顧問もやったかな。

      Q.北野に16年おられて昭和38年の6月でやめられて、教育委員会に行かれるわけですが、その後のことを。
      教育委員会の指導主事は13年間ですよ。これは長いですね。私は教育学とか教科指導法などを大学ではならっていない。教育委員会では、先生方にそういう指導もしないといけないということで勉強をしました。講習会などもよくありましたからね。いろんな学校をみるのですが、私は北野のええ生徒しか知らんので、どうしたらええかほんとに困りました。つくづく北野というのはいい学校やとやめてから思いました。




      聞き手●稲森久彦(69期)、小寺範生(69期)、菅 正徳(69期)
      収 録●Apr.8,2000(69会・花見の会/大川堤にて)
          Nov.11,2000(69期7組の会/ハービス大阪にて)
          Dec.24,2000(石田先生邸にて)


    Update : Feb.23,2001