われら六稜人【第18回】もうひとつの甲子園
    第4版
    アメフットに捧げた青春
      豊中を見事破ったハンドボール部…前後の学年は級長ばっかりでね。文武両道の達人が揃ってた。級長がおらんかったのは、ぼくら58期と一年上の57期だけ(笑)。58期の部員は12人で、そのうち10人が国公立の学校へ行った。私大に行ったのは、ぼくと松丸の2人くらい。
      ぼく、父の勧めで関西大学に入学したけれど…北野中学から関大へ行ったのは、ぼく一人でね(関学は2〜3人おったかも知れんけど)。それで、学問もさる事ながら北野で学んだスポーツを活かそう…と物色した。戦後、日本の社会は虚脱ムードでね、当時どこの大学にも血気盛んな軍隊帰りと柔剣道の猛者が必ずおった。それに一部、名門出が…ぼくらのチームには「神戸二中のラグビー選手」がいてね。ぼくも、ハンドボールの東西対抗の代表選手ということと、長距離ランナーで、かつ、柔道の有段者という肩書きをひっさげてこの世界に飛び込んだ。これらが馳せ参じてアメリカンフットボールをやったわけです。

      そもそもアメフットというのは、昭和9年に立教大学のポールラッシュという宣教師が日本で初めて始めた。それがすぐに早慶でも行われて、10年には関西に来ていたから…日本9大学は割合に早くから取り入れてたね。ちょうどぼくが小学校に入った頃かな。スポーツマンなら誰でも能力が発揮できる「特性活用」のスポーツで。普通「競技」いうもんは強い奴が必ず勝つ。強いか、上手いか、大きいか…それがスポーツの常識。
      ところがアメフットは11人のポジションのほかに、守る11人のポジションと蹴るだけの選手、受けるだけの選手…まぁ大雑把にいって24のポジションがある。これが各々求められる才能が違うわけ。だから今、ずぶの素人を集めた京都大学が強い…というのも特性活用がゆえの話でね。例えば京大の真ん中におる奴は柔道2段で体重98kg。そんなゴッツイ奴がおる一方で、チビでも足の速い選手が必要なんや。アメリカのチームには必ずコンピューターの専門家と医者が混じってる。これはチームにかならず必要な要素で…その他に心理学者がおったりもする。それぞれに持ち場のあるのがアメフットというスポーツなんだ。
      気障な言い方をすると…「アメフットは知恵と勇気と秩序のスポーツ」ということになる。知恵はまぁ人並みにはあるやろう、勇気もあるやろう。秩序はチームワークやからね。これは個人の技能とは関係ない。団体競技やから。これら知恵、勇気、秩序の何かの特色を持ってる奴ならイケるわけ。

      ぼくはね、大学で4つの競技に出場した。ラグビー、ハンドボール、バスケットボール、アメリカンフットボール。で、昭和21年からはアメフットに没入した。そうして昭和23年の元旦に日本一の王座を獲得したわけ。その後32年間…スパイクはいてグランドを走ったというのは、もう金輪際、出ないですワ。というのも審判層も大きくなったし、ライセンス取るンも難しなったし。ずっと勝ち続けるというのも難しいし、ずっと審判するということも…なかなか勤めの関係なんかでね、難しい。だから、ぼくみたいに…名古屋、北海道、東京に勤めていても自由にやらせて戴けたというのは、もう…ちょっと無いと思うね(笑)
      とにかく戦後の甲子園ボウルについては、プレイしたのと審判したのとで併せて34年間ずっと出場したし、通算53年間の試合をぼくは全部見てる。それも数える位しかいないよ…関学の米田君とぼくと2人だけじゃないかな。あとは死んで逝かれたりね。関学の学長していた武田のケンちゃんも…いつも来てるけど、彼もミシガン州立大に一時期留学してたから、その間は見てないハズや。
      53年間ずーっと見てる…ぼくの自慢は1965年に日本のオフィシャル・ルールブックを創ったということかな。アメリカンフットボールというのはルールがゴチャゴチャややこしいからね。そのことはぼくの自叙伝に書いてあるけど…今、そういうわけで関西アメリカンフットボール協会の会長をさせてもらってる。


       
      http://www.mbs.co.jp/kb/
      アメフットというのは、大学スポーツの中では珍しく関西優位のスポーツでね。立派な指導者がたくさんいる。何かと東高西低の世の中やけども、アメフットだけは西高東低で。関西のBIG3というと立命館と関学と京大。立命館が146人、関学が145人、京大が124人…チームにおる。前線で敵にあたるフロントフォーが立命館で96kg、関学が93kg、京大が95kgで…これが関西は皆、強いね。これがおらんかったら勝てん、縁の下の力持ちという役どころ。スタープレーヤーはいるけども、それはどうでもいい。縁の下の力持ちがしっかりしてるところのアメフットは強い。
      アメリカでは「170cm、70kgちょっと」で年間4億円とってるプロプレーヤーもおるけどね…ワイドレシーバーといってパスを受けに走る選手で。クォーターバック(QB)は、ぼくらの時はヘッドクォーターいうてたけど、作戦を出す指令塔。だから…そいつの出す指示は絶対なんやね。昔、アメリカで人種差別があった頃は、どんなに名選手でも黒人にはQBを絶対させなかった。指令塔やからね…全員、そいつの指示通り動かなアカン…というのが生理的に嫌やというわけで。その指令塔を関大でやってたんが、このぼくや。

      関西はね、それまで関東に一回も勝ったことなかったから、それで日本一になるまでの「5つのNO」いうのがあった。まずね。今でこそ吸わない人が一杯おるけど…たばこ吸わない。酒飲まない。髪の毛生やさない…丸坊主ね。アトちょっと言いにくいねんけども…まぁ、どっちかっていうと花形スポーツやからね。ぼくらのチーム…結構モテたんですよ、共学やし。だけどセックスはしない。それから最後が勉強しない。No Smoking、No Drinking、No Hair、No Sex、No Learn。
      勉強せんとアメリカンフットボールに打ち込め…と言ってもね。ルールブック作るという作業も難しいよ。英語を訳さなアカンから。ぼくが「ミシガン大学のフォーメーションを採用した」って…当時の新聞記事に書いてあるでしょ。簡単に『採用した』というけど…原文は全部英語なんだからね、当り前だけど。当時の関大アメフット部で、ぼくを置いて他に誰が翻訳するか…羽間がせずんば誰がする、と。昭和22年ですからね。みんな予科練ばっかりで英語の勉強なんてしてない(笑)。ぼくは北野中学を出たからできたんやね。

      この「フォーメーション」というのが新機軸で、みな意表を突かれるワケ。今ではドコでもやってるけど…当時としては「力こそ至上なれ」というアメリカンフットボールが「智恵と勇気と秩序の競技」に変わったわけで。それをうまいことチームで採り入れたところは、コーチや監督の偉かったトコやけど。ぼくらの意見を取り入れたわけです。
      ただ…今やから正直に言うけど、プレーの中で自分だけエェ格好するようなポジションにしたんはイカンかった。あっはっは。ところがやねぇ、ぼく、体重60kgしかなかったから…体が大きくないと縁の下の力持ちは勤まらなかった。それで、サーッと走って行くがぼくの役目だった。
      だから皆に頭が上がらない。「すまんなぁ、すまんなぁ」言うて。それで、また新聞出る。「羽間。お前ばっか…ええカッコしやがって〜」言われてね。また「すまんなぁ、すまんなぁ」て、皆に言うて。皆も「しゃあないな〜」。別に出たがりの目立ちたがりとは思ってないが、ボール持って走るのが一番ぼくがチームに貢献できること…そういう気持ちがあったからね。でも、常にみなに頭の下がる思いはあったよ(笑)。

      ともかくアメフットというのは、ぼくの人生で非常にありがたい支えだった。


    Update : Mar.23,1999