【連載】大阪の橋

    第19回●神崎橋(3)
    中国街道の要衝

    松村 博
    (74期・大阪市都市工学情報センター常務理事)


    神崎渡付近(明治18年測量)


       十三大橋のところでも述べましたように『太平記』には神崎の橋をめぐっての攻防が詳しく記述されています。正平15年(1360)のこととして、南朝軍の楠木正儀(まさのり)は守護職の佐々木道誉の嫡孫秀詮を神崎の橋のたもとで討ち果たしたとされています。そしてその2年後の正平17年(1362)には再び楠木軍と佐々木道誉の守護代箕浦俊定軍との間に、神崎の橋をめぐる合戦が行われたと述べられています。

       箕浦勢は小人数であったため、神崎の橋を2、3間焼き落として、敵が川を渡ってくれば川の中で射落とそうと、弓をかまえて待ち受けていました。楠木軍は篝火をさかんに焚き、橋詰を動かないと見せかけて、2kmほど上流にある三国の渡しより対岸へ渡って、敵の背後へ回って攻め立てました。不意をつかれた佐々木軍は敗走し、多数の死傷者を出しました。勝ちの勢いにのって楠木軍は兵庫の湊川まで攻め込んだとされています。

       この三国の渡しは、後の能勢街道が神崎川を渡る三国橋のあたりと考えられますが、神崎の橋からおよそ2km上流になり、位置関係も合います。中国街道は神崎橋を渡るといったん南下して尼崎市内に入り、現在の国道2号と同じようなルートを西行していましたが、楠木勢もこの道によって湊川まで達したものと思われます。




    Last Update: Mar.23,1999