【連載】大阪の橋

    第11回●長柄橋(5)
    歌枕・ながらのはし

    松村 博
    (74期・大阪市都市工学情報センター常務理事)


    長柄渡口『摂津名所図会大成』


       おそらく再建されることのなかった長柄橋は、人々の心の中では生き続け、多くの和歌に詠まれることになりました。

       世の中に ふりぬるものは 津の国の
       ながらの橋と 我となりけり
                    (『古今和歌集』巻17 読人しらず)

       古来から歌の題材となった名所、旧跡は多いのですが、これを「歌枕」といいます。すぐれた歌が詠まれた土地へのあこがれが、その最大の原因でしょうが、地名のおもしろさや風光の良さなどとあいまって、その土地や橋などの構築物のイメージがいつしか歌詠みの共通の観念として定着していくようになりました。

       歌枕としてそのイメージが定着してきますと、歌そのものが類型化し、新鮮な感動が薄くなってきますが、その代わり秀れた技巧を駆使して歌の余情を高め、象徴的な世界をつくりだすことになりました。

       さもあらばあれ 名のみながらの 橋柱
       朽ちずば今も 人もしのばじ        …(藤原定家)

       有りけりと 橋は見れども かひぞなき
       船ながらにて 渡ると思へば        …(和泉式部)

       長柄の橋がこれほどまでに有名になったのにはいろいろな理由があるように思われます。弘仁3年(813)に架けられた長柄橋は、交通路として非常に重要であったことや、人柱伝説を生むほどの難工事の末、完成した長大橋であったことなど、橋そのものが名橋と呼ぶにふさわしいものであったことが第一の理由でしょう。その後、自然の力に屈して朽ち果て、復元されることなく放置された柱の跡にも滅び去ったものへの哀惜の情をかきたてられたのでしょう。さらに「ながら」という言葉にはいろいろな意味があり、掛詞や序詞として使いやすいことも理由のひとつであると思われます。


    Last Update: Nov.23,1998