われら六稜人【第15回】舞台に魅せられた男

第2幕
六稜切符はフリーパス?!

    今思うと『寒鴨』で選抜優勝…というのが結構、快感だったんじゃないですかね。早稲田の演劇に入る時には、さすがに「芝居やろう」と決意して。それまでは全然…森繁サンが卒業生にいるってコトも、その頃初めて知ったくらいでね。それで早稲田の演劇へ行ったんですが、大学の演劇科は別に俳優を育てるところじゃないんで…結局、教養課程の2年間で辞めちゃってね。その頃、ボクは新演 という劇団(今でいうと杉浦直樹さんとか内田良平さんなんかがいた劇団ですが)で芝居をやってたんですが、主宰の瓜生忠夫さんという方が北野の先輩でし て…(法政大の教授をなさっていたんですが)…それで相談しましたら「プロで演るんならば、じゃ野間君に…」って(親友だったみたいですね)紹介してくだ すったんです。

    ボクは瓜生さんや野間さんが六稜の先輩だってことは東京へ出てきてから知ったンですけど…ちょうど当時、創作劇が隆盛なりし頃で、野間さんが小説ではなく て戯曲を盛んに書かれていた頃でして…ある意味では「全盛」だったものですからね。その頃、青年座という劇団が盛んに創作劇をやっていて、既にもう何本も 野間さんの作品を演ってましたから…ありがたかったですね。

    瓜生さんの紹介状で「六稜の後輩の若造クンだ」ってコトで、野間さんの自宅を訪ねて行ったんですけども…初対面じゃないですか。それが、ただ「北野だ」と いうことだけでですね…ほとんど何の身元調べもなく、ノーチェックで「じゃ、分かりました」って…サッと推薦状を書いて貰ったんです。当時は「天下の野間 宏」ですからね…もう、フリーパスみたいなもんでしょ。だから、青年座の面接の時に「どうして野間さん知ってんだ?」って聞かれましたよ。「北野の先輩 だ」ってことを言ったらですね…非常に、ちょっと、あの…何て言うかナ…「最初から持ち点がある」みたいな状態で、ね(笑)。

    今でこそ普通になりましたけど…その当時は「創作劇」っていうコトバ自体もね…要するに和製の芝居、書き下ろしのモノを演る劇団が青年座しか無かったんで す。他は翻訳劇が主流だったですね。俳優座も、全部ね。新劇の発祥そのものが外国演劇の紹介がスタートでしたから、それ自体がある社会的な変革の力を持っ た時代でしたからね。ただ、ボクの場合…たぶんこれも『寒鴨』が尾を引いてんじゃないかと思うんですけども…この40年間、一本も翻訳劇を演ってないんで すよ。全部、日本の主題ばっかりでね。

    早稲田時代も、劇研で春秋2回公演をするんですけど…春に日本の芝居を演って、秋に翻訳劇をするんですよ。ボクは秋には一切出演しなかったですね。春しか 演らなかった。翻訳劇が嫌いだった…というよりも、むしろ最初に食べたものが旨かったんだと思うンだけれども…どうしてもボクが一番最初に感じたことはで すね。翻訳劇のテーマが…たとえばユダヤ人問題とか黒人問題とか…正直言ってよく分からないワケですよ。だけど、在日の問題を演れば分かるワケです。ある いは部落差別の問題もね。だから当然ボクとしては、そっちのほうに行く…と。 映画もそうだと思うんですけども…最もナショナルな表現が最もインターナショナルに通じる、と…そう思うわけです。

    別に、右翼ではないですよ…でも、日本人だから、今生きてる日本人が日本語で書いたものをやるんだ、と。自分の足元の日本語の芝居をずっと深く突き詰めて いけば、それはアメリカ人が見ても分る芝居になるんだと思うんです。能狂言もそうだし歌舞伎もそうだとは思うんですけどね。だから、ボクは日本人が書いた 日本語の芝居を創りつづけることが、まぁ言ってみれば世界のどこへでも出せると思ってるわけで…世界の真似をすることではないんだ、と。

    『ロミオとジュリエット』って芝居ありますが…食うや食わずで、高田馬場で、四畳半のアパートに暮らしてるロミオとジュリエットの話のほうが…よっぽど 「ボク」の問題なのです。シェイクスピアだって…イギリスの創作劇じゃないですか。最もイギリス的なものであるからこそ、日本人に感動できるものがあるの であって…あんなものを日本的に演られた日にはやっぱり違うんじゃないですかね。
    自分の足元にあるナショナルなものを追っていけばいい…ずっとそう思ってます。外人の方もよく見えますけど、結構わかってもらえますよ。 ボク自身、観客の側にいたとしてもそういう風に思いますね。それをまぁ…ずっと追ってきた、ってことですかね。 青年座という劇団を選んだのも、そういう理由からでしたね。

    いろんな流派があっていいと思うんです。ただ、持ち時間が…どうせ一生やったってね。だいたい1年に2本芝居を演ったとしても50年で100本ですから。 100本のうち何を演るかという選択ですから。シェークスピアやチェーホフは他の流派に任せて、ボクはその…日本の芝居だけを演ろう、と。そう、決めたん です。青年座以降…自分の劇団を作ってからも、ボクは日本の芝居しか演ってないです。ですから…ドウランで1回もブルーのシャドウは使ったことがない…と いう(笑)。
    作品の出来・不出来はいろいろありますけど…ずっと一貫して、いま、この時代を生きてる人が書いたモノだけを演り続けてきた。ですからVividであることだけは確かですね。その原点が…どうも、北野で演った『寒鴨』のような気がしてね。

Update : Dec.23,1998

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