六稜ト-クリレ-【第8回】 reporter:清藤浩之(89期)

    六稜NEWS-040508


    中村高之©2004(「陸奥制作日誌」より)

    「人生よもやま話~戦艦陸奥から出た北野中学のバックル」
    阿部源三郎(50期)さん

      私は、親族に海軍の出身者がいないのですが、帝国海軍に強く惹かれています。小学生の頃、吉田満氏の「戦艦大和の最期」を口語に書き直した本を読みまし た。敬礼を欠いた兵士を諭すのか制裁するのか、上官と激しく論議するシーンが胸に残っており、いま手元の文献を読み返しました。

      吉田少尉が大和に乗艦の初日、通信科の少年兵が十数m先の通路で欠礼した。本来なら鉄拳五発の制裁である。少尉は、少年兵を諭した。「敬礼を欠いただけ で、気持ちに嫌な後味を残す。こんなつまらん事はない。これからは、上官の後ろ姿を見ても敬礼してみろ。たいした努力は要らん。そして、気持ちがいつも楽 だぞ。どうだ。分かったら、そこで思い切り敬礼してみろ」制裁に怯えて肩をふるわせていた少年兵は、力一杯に挙手の礼を繰り返し、小躍りせんばかりに立ち 去った。その直後、少尉は臼淵大尉(兵71期)から、鉄拳を受ける。大尉は言う。「あの上官はいい人だ。だから砲弾の雨の中を突っ走れとは言うまい。そう 兵隊は貴様を、なめてかからんか。俺の兵隊と貴様の兵隊と、どちらが強いか。軍人の真価は、戦場でしか分からんのだ」
      そして沖縄へ出撃の前夜、酒保ヒラケの号令がかかり無礼講の直前、老兵に精神棒を揮う甲板士官を、臼淵大尉は止めた。「その兵隊を貴様の分隊に連れて帰って、一緒に大いに飲め。いま締め上げて、兵隊がついて来るものか。今夜限り、お互いさまだ」

      この時、主計科短期現役の吉田少尉も、海兵出身の臼淵大尉も、ともに二十二、三歳。わが身と引き比べ、この人格、統率、思慮の深さに、頭が下がります。私 が大学でボート部にいると、幾人かの方が、海兵の頃のカッター訓練や艦隊のカッター競技のお話を、厳しさを大いに懐かしみながら、聞かせて下さいました。 サラリーマン時代、鎌倉で5年勤務した際、たくさんの海軍のご家族の方に、親しくして戴きました。飛龍艦長、赤城航海長、長門砲術長、聯合艦隊参謀長、そ の風貌をご家族から伺って背筋が伸びる思いでした。横須賀の戦艦三笠の、保存会員にならせて戴きました。海軍記念日には、早朝から信号兵がラッパで軍艦旗 を掲揚され、式典では古いセーラー服を誇らしげに着用され、往時の奮戦談が引きも切らず披露されます。一昨年には生駒で、駆逐艦陽炎の勇士にお話を聞かせ て戴きました。ご家族の皆様と共に、涙と笑いの忘れられぬ一時でした。士官、下士官、兵という分け隔てなく、その全員が懐かしく胸を躍らせるのは帝国海軍 のよさだと感じます。


      中村高之©2004

      とは言え、軍隊の理不尽な制裁。話によると昇進が遅れて特殊技能を持たない服延の一等水兵による制裁は相当のもので、士官や下士官には手が出せない世界 だったと聞きます。手を出す側も、海軍を勤め上げるつもりではなく、除隊になれば故郷で家業を継いでと考えていたのに、戦局悪化で兵役が延長され、憤懣や るかたない心情だったそうです。戦艦は規律にうるさく、中でも主砲分隊はその最右翼でした。かつては聯合艦隊旗艦であった僚艦の長門と共に、速度が遅く活 躍の機会が少なかった陸奥では、より厳しい締めつけがあったと思われます。不祥事につながる要因が、重なって膨張した果てに爆沈した陸奥には、海軍の不幸 に押しつぶされた悲運を感じます。

      田中鋭夫先輩と、海兵で同じ68期の豊田穣氏の著作は、殆どを読んだ事があります。手元にないのですが、「同期の桜」ではクラスメートの一人一人が紹介さ れています。九分隊伍長で恩賜の短剣を拝受された田中先輩については、相応のコメントがあると思います。実家にある筈ですので、捜して読もうと考えていま す。
      海軍兵学校の歴史を見ても、68期は戦死が7割を超える最も過酷な運命のクラスでした。北野中学を卒業された昭和十二年当時、大戦への緊張が高まる中、国 運に身を捧げんと、まなじり決して日々を学び、胸を張って江田島に歩まれた姿。北野をいつも誇りに思い、50期の記念バックルを腰に、帝国海軍に立派にご 奉公された姿。愛する令妹が尊敬する海軍士官に嫁がれた時には、喜びに輝いたその笑顔。額に入れられた校舎のタイルを見るたび、この同じタイルが先輩の視 界の中で北野中学時代の背景であった日を思います。
      戦時でも平時でも、人の生命は有限ですが、受けつぐ心、感受して自らも体現せんとする精神には限界が無く、自らの鍛錬でいくらでも深く感受し体現できると信じています。先輩方の心に接した一日の幸福を胸に刻み、一瞬一瞬を大切に生きて行きます。

      ※同じ海兵68期の、松永市郎氏の「思い出のネイビーブルー」(S52海文堂出版)に、田中先輩のエピソードがありました。海兵時代、休日には江田島の近 隣の民家がクラブと呼ばれる、生徒たちの懇談や食事の場にされていました。そのクラブで、クラシックのレコードを聴いている級友に、松永氏が「歌のない、 前奏だけの流行歌か。つまらんレコードはやめろ」と言い、級友は「そんな事では、教養ある女性と結婚は出来ないぞ」と言った所です。

        二人の話を横で聞いていた田中鋭夫が話を引きとった。

        『そりゃね松永、洋楽を鑑賞するのに音楽を理解していることに越したことはないさ。しかし音楽を理解していなくても、洋楽の鑑賞は出来るんだよ。万一だ、 貴様にその方の才能が全く無かったとしても、身振り手振りで周囲の人に、如何にも鑑賞しているように思わせる方法だってある。それさえ心得ておけば、お見 合いの席もなんとかなる。心配するな、俺が教えてやる』
        と一気にしゃべり、さらにジェスチャーを交えながら言葉をついだ。
        『音楽というものは、ある楽器が最初から最後まで鳴りっぱなしということはない。鳴るところと鳴らないところが交互にやってくる。ということは、音楽は間 を利用している訳だ。だから鑑賞にも間を利用する。レコードが鳴っている間は、軽く両眼を閉じて、静かに首を前後に振って、如何にも感に堪えないとの風情 を示す。しかしこの動作は余り重要ではない。ポイントは鳴り終わってからの動作である。終わったからと急に両眼を開けてはならない。後から眼を開けた人 が、なんだこの人きょろきょろしているなあと思う。だからと言って、いつまでも眼をつぶっていると、なんだこの人居眠りしているのかと思われる。そこで だ、レコードが鳴り終わったならば二呼吸半して、やおら両眼を開け首を右か左にちょっと曲げ、「いいですねえ」と一言言え。余計なことを言えばボロが出 る』
        (中略)
        田中は大阪の北野中学出身で兵学校でも優等生だったが、物事のポイントをつかむのがとても上手だった。

    Last Update: Jun.10,2004

 六稜トークリレー Talk Relay