Salut! ハイジの国から【第34話】 まえ 初めに戻る つぎ

ポラントリュイだより:
建築様式で追うPorrentruy《その1》

ロマネスク様式


 
 ▲サン・ジェルマン教会、内陣側の壁
 写真上が欠けていて微妙な屋根の伸び具合が見られないが
 修道院と教会が合体したような不思議な造りである。窓が小さい!

 他の多くの国と同様、ジュラ州に於けるロマネスク様式の建築物はほとんど残っていない。いずれも時代時代に応じた改築、または破壊を免れなかったからである。
 ポラントリュイでは、サン・ピエール教会以前に町と周囲の村々の小教区教会だったサン・ジェルマン教会が唯一のロマネスク建築(正確にはロマネスク後期からゴシック初期の過渡期的建築)である。
 発掘調査結果によると、元々の教会は1000年前後にMoutier-Grandval修道院からの入植者によって建てられたらしい。彼ら修道士は当時最高の教養を身につけており、布教活動を行うだけでなく、地域住民の教育や農地開拓の指導者でもあった。その後、教会は13世紀に建て直されおおよそ今日の形となった。


▲サン・ジェルマン教会内部 
外陣から内陣を見て。非常に簡素である 

 

敷き詰められた墓石を踏みつける度に心が疼く… 

 
 ヨーロッパの歴史的背景を少し述べる。5世紀から10世紀中の、芸術や建築どころでなかった暗黒と混乱の戦争の時期がようやく終わりを告げた。また、人々は世紀末思想〜999年に世界は終わる〜に怯え続けていたが、結局終焉は訪れることなかった。彼らは神の愛と加護に感謝し、各地で巡礼が盛んに行われるようになった。また、その巡礼の道に沿って数多くの教会が建設されるようになった。
 余談であるが、ジュラ地方の支配者の一人であったブルゴーニュ王ルドルフ3世は世紀末の恐怖に耐えかね、999年に自分が支配下においていたMoutier-Granval修道院及びそれに付随する土地をバーゼル司教・アダルベロン2世に寄付した。この世を滅ぼす天変地異はついぞ起こらず、もしかしたらルドルフ3世は損した気分ではなかっただろうか?
 ちなみにこの贈与でバーゼル司教は膨大な支配地域を獲得し、それは一つの国家の誕生と見なされた。1792年まで続くバーゼル司教公国の前身である。

 
 彫られた字が見えないほど古くなった墓も。
日本の霊園と違ってあまり恐怖感はない?

 
 ▲ポラントリュイ城の砦的役割を果たしたレフュ塔
 1270年頃完成。以来700年以上…
 サン・ジェルマン教会を見下ろしながら建っている
(こちらはロマネスク様式ではなく「ローマ式軍事用建築物」)

 建築技術がそれほど発達していないロマネスク建築様式の特徴は、時には1mを超える分厚い壁と、小さな窓、そして半円形のアーチである。石の半円形天井は構造的に外側に開く傾向があるため、崩れやすい。そのため、壁を厚くし、窓もできるだけ小さく開けたのである。また、後に都市部を中心に発達したゴシック建築の教会と違い、自然の中での祈りの場として選ばれたため、山間部や森林、川べりといった僻地、田舎に建てられた。
 サン・ジェルマン教会はゴシック初期への過渡期に建てられたため、建物の屋根は微妙な角度で上に伸びている。ゴシックの計算され安定した尖り具合に懸命に近づきつつある、という少し微笑ましい趣である。建物の幅は最大で60cmの差(技術的ミス?)がある。
 教会への入口扉と内陣へ入る開口部分は柔らかな角度の尖頭形であり、やはりゴシック初期への移行を示している。
この教会はポラントリュイの城壁外にあるため、有事の際に守り切れないということで小教区教会は1321−1333年に城壁内に建設されたサン・ピエール教会に移った。(1478年)サン・ジェルマン教会自体は1427年に北側にチャペルが加えられて拡張、1698年に5m余り外陣(=人々が祈る場所、特に中央の身廊)が伸ばされた。16〜18世紀にかけて回廊には石灰岩の墓石が敷き詰められた。1960年の修復時には幾つもの壁のフレスコ画が発見され、17世紀に描かれたものと推測される。霊園は手狭になったため、1884年を最後に埋葬は行われなくなった。

 地理的条件から観光コースには含まれていないため、訪れる観光客はめったにいない。現在、定例ミサは日曜の18時からここで行われている。町の中心からは少し外れているが、出席者は意外と多い。ポラントリュイで最も古い建築物の簡素で厳かな雰囲気は、夕方の静かな祈りにより適しているからだろうか。翌日、月曜から新たに始まる日常の憂鬱をしばし忘れるために・・・。

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Last Update: Aug.23,2006