Salut! ハイジの国から【第31話】 まえ 初めに戻る つぎ

ポラントリュイだより:
Porrentruy四大「ホテル」《その2》

「Hôtel-Dieu」後編

 
▲「CHRISTO IN PAUPERIBUS」
「貧しき者の中のキリスト」という意味。
実際、「老いた貧しき者」は入院を拒否されることが多かったが・・・。
鉄柵は1765−66年製、当時の売れっ子錬鉄職人Fromknechtによるもの


 
病院経営は、有産階級者の寄付によって潤った。しかし、フランス革命以前の旧体制下(ancienne régime)では、お世辞にも民主的とは言えない病院であった。なぜなら、入院は有産階級者優先で、次にポラントリュイ市の人間、そして外部者という順位付けがあったからだ。また、有産階級者でない老人は、「寄付の見込みがない」ことから門前払いを食らうことが多かったようだ。ちなみに当時のベッド数は30ほどだった。

 
 ▲聖マルト会の修道女によって病人は
介護された。


 

 看護の人間は聖マルト会の修道女が担当した。この修道会は15世紀にフランスのボーヌ(Beaune)にて設立され、修道女は市の病院にて献身的な看護を数百年に渡って続けてきた。彼女達のうち三人がポラントリュイに呼び寄せられたことが始まりである。看護者数はその後、順調に増えた。有産階級者の娘を対象に公募も行われた。選ばれた女性は二年間の修練期間を経た後、修道会入りした。

 旧体制下の病院は、宗教施設として見なされていた。薬草がせいぜいで、現在で言う「薬」による治療はまだ行われていなかった。病院は「魂を救い、身体を養う」場所であるから、体を休めつつ祈りと信仰に忠実な生活を送ることが回復に向かう一番の療法とされた。

 
▲長い修道服の裾を
たくし上げなくても上がれる階段

現在高校がある元・イエズス会の修道学校も
同様の上がり幅の低い階段である。

 二階の中央に礼拝堂があり、窓を開け放ってミサを行った。動けない病人も自室の窓を開ければミサを聴くことができた。フランス革命まで、実に、年に572回ものミサが上げられた。礼拝堂付司祭は、1870年まで、会計係と医師よりも高給取りだったという。

 1792年、ポラントリュイ市はフランス革命軍により占拠され、以来、1814年までフランス国の一部となったが、この期間、初めて近代医学が導入された。薬局は1847年、ポラントリュイの高級家具職人Jean-Baptiste Carrazによって作られた。カエデ、コナラ、プラムやマツの木などが使われている。修道女はラテン語を読めなかったため、241ある薬の瓶(ガラス製と陶製)と引き出しの表示はフランス語である。


▲1847年製の薬局
 

 この建物は拡張工事を続けてベッド数を徐々に増やし、1956年まで病院として使われていた。現在は上記の薬局や市の貴重な文化財が収められている博物館、図書館、観光局、文化局などが入っている。時代を経て役目は変わったと言えど、依然として町で一番の美しさを誇る文化施設として大いに機能し、市民生活に役立っている。



  Mes remerciement particuliers s'adressent a :
Monsieur Pierre-Yves Donzé de Porrentruy, l'auteur de
《L'hôpital bourgeois de Porrentruy 1760-1870》

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Last Update: May.23,2006