Salut! ハイジの国から【第19話】 まえ 初めに戻る つぎ

ポラントリュイだより:
スイスで一番有名なジュラの村〜Courgenay

その1 村の歴史と伝承

 
▲村の紋章
金色の足を緑の山の頂に
かけている雁(がん)

 ジュラ州・コージョネ村。行政中心地ポラントリュイの東南5kmに位置する。2005年現在、人口2173人。ポラントリュイ市の副都心として、また新産業区域として発展し続けているが、ジュラ州のどこにでも見かけるような小さな村である。
 この村が何故、スイスで一番有名なジュラの村になったのか? そのお話は少し先に延ばすとして、今回はコージョネ村の歴史を追ってみる。

 コージョネ村が文献の中に出てくるのは1139年、法王イノセント2世の大勅書の中であるが、紀元前から集落は存在していた。その確固たる証拠が今日「穴あき石」(La Pierre-Percee)とよばれている巨石である。
 高さ2,4m、幅2,3m、厚さ40cmの石には、直径60cmほどの丸い穴が空いている。巨石遺跡はイギリスのストーンヘンジなどに見られるように一般にはケルト文化と思われがちだが、元々は更に以前の時代より巨石は築かれており、ケルト人は自分達の信仰・神話・伝承を巨石遺跡と結びつけたに過ぎない。「穴あき石」が建てられた時代は、ケルトの初期民族セクァ二ア文明が栄えていた紀元前3000年頃と推定される。

 
▲謎の巨石、「穴あき石」(La Pierre-Percee)
 この巨石建造の目的は謎に満ちているものの、最近の研究では、この石は集合墓地において、墓碑を組み立てる石の一枚ではないかと見られている。穴は埋葬品を外から入れるためである、または霊魂の不滅を信じるケルト信仰において魂が出入りするためだとも言われている。標石であるとも、ドルイド(神官)が天体観測をした穴とも言われている。

 何世紀もの間ヨーロッパで勢力を伸ばしていたケルト人も、紀元前3世紀に入ると、次々と敗北するようになった。紀元前58年、ジュリアス・シーザーがローマ軍を率い、当時ガリアと呼ばれたケルト人の土地に侵攻した。そして、当時セクァニア人の土地を強奪し圧政を加えていたゲルマン人の一民族・スエヴの長、アリオヴィストの軍勢を破った。
 その戦いについて、「ガリア戦記」の中でシーザーは「戦場はライン川より5万歩、ブザンソンより19里」と書いているが、それは正にコージョネの平原に位置している。内容を信じた人々は、その辺りを「シーザーの野営地」と名づけたが、実際は現在のフランス・アルザス地方の町、Ribeauville(リヴォヴィレ)付近と言われている。しかし、ローマ人・ローマ軍がコージョネ村近郊を通ったことは発掘物からも明らかである。

 最後に、ポラントリュイ行政区の旗にも描かれている、下半身が蛇、上半身が鳥という大蛇の伝説をご紹介しよう。
 この大蛇は小さな丘の岩場に住み、夜になると水を飲みに下りてきた。その目は宝石でできていて、超自然の能力があり、健康と富をもたらした。大蛇は水の中に落とさないように、飲む時は目玉を外す習慣があった。

 
▲「大蛇伝説」の主人公(悪役?)

 ある夜、ある農家の召使がこの目を奪おうと、鋼鉄の針を張り巡らした樽の中に入り、大蛇を待ち伏せした。樽には小さな扉をつけていた。大蛇が目を外すと召使はその扉を開け、手を伸ばして奪い取った。気づいた大蛇は怒り狂い、樽に巻き付いたが、針に刺さって皮膚を裂かれ、大怪我をして逃げていった。
 召使は早速その目を持って帰り、足が不自由だった主人を治した。その効力と奇跡はたちまち村人達に知れ渡った。この農民と召使は豪奢な生活を始めた。

 しかし、この物語の結末は、めでたしめでたしとはいかない。
 ある日、村の代表団がこの豪農を訪れた。中に入ってみると、凄惨な光景が目に入った。大蛇に締め上げられたような形で体が潰された主人と召使が青い顔で床に転がっていたのだ。村人達は家中を探したが、「目」は見つからなかった。大蛇は自分の財産を取り戻しに来たのである。以後、村人達は決してその目を手に入れようと試みなかったそうである。


  〈参考文献〉
Courgenay-Courtemautruy村公式サイトhttp://www.courgenay.ch/
ジュラ州情報サイト・ジュラネットよりCourgenay村のページhttp://www.juranet.ch/localites/communes/ajoie/Courgen.htm
http://www.juranet.ch/localites/communes/ajoie/autreAjoie/Courgenay/courgenay.html


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Last Update: May.23,2005