太陽電池と「低い国」と〜民間企業研究者の海外転職記【第10話】
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オランダから見たドイツ《1》
Deutschland、ドイツ、Duitsland、Germany そして Dutch


 本来であれば今回は、「オランダで家を買う《3》」の予定だが、書いているうちに思いのほか大ネタになってしまった。諸般の事情で今回更新分の掲載はお待ちいただきたい。代わりに、将来書き進める予定の大ネタ「オランダから見たドイツ」の序章を、小ネタとして掲載させていただく。「オランダで家を買う《3》」は、次回更新時には掲載できるようにしたい。「オランダから見たドイツ」本編は、もう少し準備期間をいただき、内容の充実を図っていきたい。両ネタとも、今後の展開にご期待いただけると幸いである。

 オランダ語でドイツのことを、Duitslandという。カタカナで書き表すとダゥツラント、日本語表記の「ドイツ」の語源でもある。
 オランダ語は文法的にドイツ語によく似ており、言語学的にはドイツ語の方言に分類される。9世紀にフランク王国が3つに分裂したのが、フランス・ドイツ・イタリアの起源といわれるが、フランク王国の名前を受け継いだフランス以外は、国民国家を形成しようという意識が乏しく、19世紀に至るまで統一国家としての形を成さなかった。


▲Pieter Bruegel (1525-69)「狩」(1565)
 分裂後の東フランク王国に相当する部分は、概ね今のドイツ、オーストリア、スイスの一部、そしてオランダ及びベルギーの北部ということになる。この領域に住む人々は、方言による地域差はあるもの、共通の古ゲルマン語を話したという。東フランク王国は統一の体をなさず、各所に勃興する領主による分裂支配の状態となったが、一応同じ古ゲルマン語を話す人々が住む領域全体を「われわれの土地」と称して、希薄ながらも帰属意識を持っていたようだ。
 この「われわれの土地」という言葉が、現代ドイツ語におけるDeutschlandである。もともとは「われわれの土地」を規定する境界線の定義などは、非常に曖昧なものだったという。


▲Rembrandt van Rijn (1606/'07-1669)「夜警」(1642)
絵画の世界では「集団肖像画」というオランダ独特の
ジャンルが確立された。これはその代表傑作。
 歴史上、「われわれの土地」の中で最も早く経済や商工業が発展したのが低地地方すなわちネーデルランド、つまり今のオランダの地域である。ハプスブルグ家など有力領主の領地として発展したが、バルト海貿易を独占することで徐々に住民たちが力をつけ、16世紀には世界最初の共和国として実質的に独立を勝ち取り、17世紀前半にはフィリピン・オーストラリアからカリブ海・メキシコ湾まで、世界の貿易をリードする存在に上りつめた。商人を中心とする中流階級が政治に強い影響力を持ち、貴族・上流階級との階層差の小さい社会を構築した。
 その間、オランダを除く「われわれの土地」では、ルターの宗教改革に端を発する血みどろの宗教戦争が繰り広げられた。社会構造は農業・酪農が中心で、領主・貴族階級によって一元的に支配され、中流階級の影響力は小さかった。

 17世紀半ばを過ぎると、オランダの栄華の前に立ちはだかる者が現れた。英国である。当時のオランダは造船技術・武器製造技術・経済構造、どれをとっても世界の最先進国であった。一方、オランダ商人にいいように貿易を握られる他国人は面白くない。一人勝ちは反感を呼ぶ。周辺各国に反オランダ感情が広がった。英国人にしてみれば、目の前の英仏海峡を、富を満載したオランダ商船が行き交うのが面白くなくて仕方がない。技術に遅れはあるものの、喧嘩を売らずには気がすまなかった。英蘭戦争は17世紀後半、三度に渡って繰り広げられた。


▲Pieter Cornelisz van Soest (1640?-1667) 「Medwayを攻撃するオランダ軍船」(1667)

 オランダは結果敗れはしなかったものの、大幅な譲歩をした。英国に、外洋航路の急所とも言うべき地の利を握られ、フランスと手を組んでまで攻め上げられては、商売自体が成り立たない。商売の存続を優先させるため、海上の覇権は英国に譲った。
 この頃英国人はオランダ人たちを何と呼んだか。正式には相手の国名ネーデルランダーだが、会話の中では、「われわれの土地」の住民たちの自称する発音をまねて、Dutchと呼んだ。もともとは「われわれの土地」の住民たち全体を指す言葉として使われていたが、この頃以降、英語の文脈の中ではDutchはオランダのみを指す頻度が圧倒的となり、いつしか「われわれの土地」の残りの領域は意味しないことになった。


▲鉄血宰相ビスマルク
 19世紀前半、ナポレオンへの屈服を克服した「われわれの土地」の住民たちは、国民国家形成の意思に目覚めた。1871年にかつて屈辱を受けた皇帝の甥っ子ルイを跪かせ、ついに鉄血宰相ビスマルクの指導のもと、「われわれの土地」Deutschlandを国号とする国家が誕生した。

 さて、困ったのは英国米国など、英語を話す人々である。本来Deutschlandを指すはずだった英単語Dutchは既にオランダに売約済みである。仕方がないので、より広い意味を包含するGermanを、ドイツのみを指す言葉にも転用するという、非常にまずい選択をした。
 本来Germanと言えば、オランダも含めたドイツ民族だけでなく、デンマーク、スカンジナビア、そして英国内に広く分布するアングロサクソンも含まれる。我々日本人は、別の言葉であるゲルマンとドイツとを明確に区別することができるが、英語を母語とする国民、特に米国人で、Germanという一つの言葉に対して、ゲルマンとドイツの違いを正しく理解して使い分けられる人間は余程のインテリ層だけだろう。歴史の理解に混乱を呼んでいることは想像に難くない。
 米国人一般の世界観が時に致命的に誤っている場面に遭遇することは稀ではないが、その原因の一つが、Germanという言葉一つに複数の意味を持たせていること、そしてそれが引き起こす混乱を放置することに鈍感であることに現れていると思えてならない。

 ところで、ご存知のように英語におけるDutchという言葉はネガティブな意味に使われることが多い。これとて、17世紀の反オランダ感情、先進地への妬み心に端を発するもので、ほとんどの物は根拠に薄い品のない罵りである。結果的に英語が世界一メジャーな国際語になってしまったのでこれらの表現が世界中に継承されてしまったが、オランダ人にすれば失礼千万な表現である。
 言葉の表現に敏感な我々日本人なら、とうの昔に使用禁止になっていてもおかしくないこれらの言葉は、できる限り使用を差し控えることで、英語国民より言葉に対してナイーブな民族であることをさりげなくアピールするほうが得策だ。

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Last Update: Mar.23,2007