ポラントリュイだより: バロック建築様式

2010年2月28日


▲1978年のサン・ピエール教会
修復前の内陣。こてこてのバロック様式だった

▲修復後(現在)の内陣
簡素だが、むしろ心安らかな気持ちになる

▲1768年、宮廷おかかえ建築家Paris氏
により設計された有産階級者の館
各窓やドアにはこのような装飾用要石がついている。どうやら、所有者は向かいに建つ大公司教が建設した中央市場の窓飾りを羨ましく思って、注文したらしい。

▲1761年建造・旧病院の窓・扉の飾り
この時代、為政者・権力者・スポンサーの顔に似せた天使の顔のモチーフが絵画や彫刻に盛んに用いられ た。(だから天使の顔が可愛くないのだ・・・陰の声)

▲ポラントリュイ城内・Roggenbach大公司教のチャペル
司教の紋章入りアーチ型天井の、凝った化粧漆喰

▲中世都市サンチュルサンヌのコレジアル内
後陣のだまし絵は1622年製

バーゼル司教公国において、ゴシックとバロック建築の間に入るはずのルネッサンス建築がほとんど見当たらない、あるとすれば扉の装飾や泉のような部分装 飾・小型建築物だということは前回の章で述べた。今回述べるバロック建築は、ルネッサンス期の遅れを取り戻すかのように、この山がちな小国で大きく花開い た。
第29~33話まで、ポラントリュイの四大「ホテル」=公共建築物について述べたが、それらの建物は正にこの時代を象徴している。10年に渡った大規模 な農民騒動を、フランス王の力を借りて鎮圧した司教は、権力を見せつけるかのように、巨大な館を次々とポラントリュイ市の中心地に建てた。これらの建物に ついてはこの5話を読んでいただくとして、ここではその他の荘厳・華麗な部分装飾について述べる。

16世紀の初頭から中期、宗教改革が猛威を振るい、聖像・聖画、時にはカトリック教会も破壊された。中期以降、イタリアに集結したカトリック勢力による 反宗教改革が起こり、教会の勢力が盛り返した。芸術もしかり、教会や王にとって代わっていたルネッサンス期の大パトロン、市民(力のある有産階級)が再び 教会や王という権威者にリーダーの座を譲ることとなった。そのようなヨーロッパの世情から考えると、バーゼル司教が敢えてルネッサンス建築を追いかけな かったのは、流行から遅れた田舎というだけでなく、「ルネッサンスなど俗なこと」という絶対権力者としての誇りがあったからではないだろうか、という邪推 もできるのである。
バロック、という言葉自体、何やら重厚で荘厳な響きがあるが、実は皆様も知っての通り、語源はポルトガル語の「歪んだ真珠」と言われている。ルネッサン ス時代の端正ですっきりした形よりも、楕円の平面や捻れ柱のような歪んだ形、動きのある形が好まれて使われ、爛熟期には過剰とも言えるほど装飾過多になっ たところを、悪趣味で下品な様式と揶揄または批判して使用した言葉だ。実際、ポラントリュイにあるサン・ピエール教会を改修前(バロック様式)と改修後 (なるたけ建設当時に近い様式、つまりゴシック)を比べてみると、明確である。飾り立てられた祭壇・内陣付近は、「誇張」とも言える派手さ・重々しさが白 黒写真でも伝わってくる。

また、この時代は、感受性を重んじ、驚嘆させる意図から、目の錯覚を多用した芸術を内部装飾に用いた。実はそれほど広くない教会の後陣部分も、写真の通 り、手すりやギャラリーを描くことで少しばかりの奥行きを感じさせるのである。

18世紀の半ば頃からフランス大革命まで、ポラントリュイは全盛期を迎えた。バーゼル司教の地位は揺るぎないものであったが、有産階級市民も自らの邸宅 から古臭いゴシック様式を排除し、流行のバロックに染まった。このため、旧市街の窓々は、上板が真っ直ぐに直され、更に金のある者は、凝った彫刻の要石で 窓を飾った。
内装に関しては、この時代、化粧漆喰による天井・壁の装飾が流行りに流行った。化粧漆喰はイタリア語のスタッコから来た言葉で、フランス語では ” stuc “。石灰に水を混ぜると熱を発して粉末状の「消石灰」を生じる。そこに粘土粉、大理石粉、砂、顔料を混ぜて練る。この材料を使って複雑に絡んだ草花や貝な ど、様々な形をもって飾り立てたのである。写真にある、「Roggenbach司教のチャペル」の天井は、1678~79年頃、バイエルン地方の Wessobrunn学校で化粧漆喰細工を教えるMichael Schmutzerの弟子達によって作られた。この学校出身の化粧漆喰工は引っ張りだこで、スイス各地の教会などの化粧漆喰を担当した。

建築史の順番から言えば、次はロココ(初期=レゲンス様式、盛期=ルイ15世様式)、そして新古典主義と続くが、これらの様式は同時代内に入り乱れてお り、境界が定かでない。また、バーゼル司教公国に限って言えば、芸術様式を楽しむどころでない、大きな歴史のうねりに巻き込まれてしまった。
1792年にフランス大革命軍がポラントリュイに到着した。バーゼル司教公国最後の司教・Joseph-Sigismond de Roggenbachは軍の到着直前に逃亡、Bienneを経てConstanceにたどり着いた。彼はその地で失意のうちに亡くなり、999年から続い たバーゼル司教公国は消滅した。

「フランス王朝と結託して農民を苦しめ惨殺した」かどで「革命の敵」と見なされた公国権力者の館は革命軍に没収された上、町の各地で建物が破壊された。 民主主義が、蛮行により歴史上に汚点を残したことを、非常に遺憾に思う。
ポラントリュイを含む現在のジュラ州は、革命軍が勢いで作った束の間のローラシアン共和国、恐怖政治がはびこった新生フランス国への従属、ナポレオン統 治時代を経て、1815年ウィーン会議が下した併合法令で、ベルン州に属する形でスイス国に組み入れられた。

華やかなバロックは遠い昔の話になったが、落ち着きを取り戻したポラントリュイは、不死鳥の如く蘇り、19世紀半ば過ぎから文化的・経済的に飛躍を遂げ るのである

〈参考資料〉
西洋建築様式史(美術出版社)