ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その4》

2010年2月28日

「l’Hôtel des Halles」(旧中央市場)


▲「l’Hôtel des Halles」
正面壁はポラントリュイ南東部のVoyeboeufという場所で取れる石灰岩の切り石で構成されている

▲ネオ・ゴシック風・半円アーチ天井が組み合わされた美しい内部
ここに続く中庭を経て反対側の通りに出ることができる

▲旧中央市場と隣の建物を分ける細い路地
火災の際、延焼を防ぐ役割も果たした

▲財力に物を言わせた有産階級者の館
窓飾りの数は御向かいさん、大公司教自慢の中央市場より多い!(1768年完成)

1283年早春、時のバーゼル司教アンリ・ディズニー(Henri d’Isny)は気が気でなくなった。ポラントリュイを含むアジョワ地方に、ブルゴーニュ王ルノーが押し入ってきたからだ。ルノーは、46年間バーゼル司 教と平和にポラントリュイ市を共同で統治していた亡き大領主ティエリー三世(Thierri III de Monbéliard)の孫娘の婿。だからといってこんな横暴は許されるはずがない。困った司教は、親しい仲である神聖ローマ皇帝・ハプスブルク家のルド ルフ一世に助けを求めた。友人の危機に、皇帝はすぐに援軍を差し向け、3月2日に町を包囲。6週間後の4月16日、ルノーは退却し、支配地域をすべてバー ゼル司教に返還した。
その僅か4日後である4月20日、ルドルフ一世はコルマールと同じ権利を所有した「自由都市特許憲章」をポラントリュイに授与した。つまりポラントリュ イは神聖ローマ帝国の保護下にあり、バーゼル司教を領主とするが、独立し自治を行う一つの町としての権利を獲得したのである。

都市として認められるには、城壁の存在、刻印の保持、そして市場の設置という3つの条件が必要だった。防衛能力、政治的そして経済的基盤を求められたの である。この憲章により、ポラントリュイは毎週水曜日に市を開くことと、年4回の定期市を許された。市場では穀物、食料品やその他の物資が売られ、市は秤 を貸し出した。スイス各州、ヨーロッパ近隣諸国やバーゼル司教区など、60数種の通貨が使用された。

時は流れ、バーゼル大公司教としては初めてのフランス語圏出身者、モンジョワのシモン‐ニコラ(Simon-Nicolas de Montjoie)が就任した。旧体制下のポラントリュイが最後の輝きを見せる時代、そしてフランス語圏出身とあって、この大公司教はなかなか人気があっ たらしい。
「私はモンジョワ(=喜びの山)のシモン‐ニコラ。皆に喜びを持ってきた!」 と宣言したとか。

彼は前大公司教リンクの仕事を引き継いで病院と市庁舎を完成させた後、1551年建造の古びた中央市場を壊して最新様式に建て替え、自分のものとした。 建築家は同じ、ピエール‐フランソワ・パリ。1766年から作業は始められ、1769年に完成。新古典様式の建物正面は、パリ(=フランスの都)視察旅行 で大いに影響されたパリ氏の最高傑作である。合計4つの建物には商人が売買を行うホールや市の計量管理所、政府の穀物貯蔵所が入った。ビリヤード場や劇場 もあったらしい。また、アパート(使用人の小部屋が隣接)が12部屋ほど用意された。大公司教が城に客人を泊め切れなくなった場合の予備の部屋である。
この豪華な市場を見て羨ましくなったか、向かいの家の所有者であった有産階級者は、パリ氏に依頼し、ほぼ同時進行で自分の家屋を改築してもらった。(そ のために司教の怒りを買ったという話はないが)

完成からわずか13年後、フランス革命の余波がポラントリュイにも押し寄せ、モンジョワ亡き後の大公司教ロッゲンバッハは町から逃亡。翌年、コンスタン スで他界した。バーゼル大公司教所有の建物はすべて革命軍に押収された。モンジョワ絶頂の証、旧中央市場は革命政府や共和国の国民議会場、ナポレオン政府 下ではフランス国オーラン県の郡庁として転用され、スイス国ベルン州に併合された後は裁判所と警察が設けられた。1979年のジュラ州独立まで支配の象徴 として機能したのである。
1990年代の修復後、美しい壁の白さを取り戻した建物には、ジュラ州立図書館、古生物学事務所、美術ギャラリー、多目的ホールなどが入り、自由市民の 知的空間を提供している。