ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その3》

2010年2月28日

「l’Hôtel de Ville」(市庁舎)


▲1940年10月31日アジョワ暴動の首謀者
ピエール・ぺキニャ処刑の絵(第20、21話参照)

右端の建物が旧・市庁舎。玄関部分に屋根付きの階段が見える。

▲現在、バロックスタイルの市庁舎
正面壁に使われた黄色い石はBourrignon村(Porrentruyから車で20分ほどの距離)の石切り 場から。

▲市庁舎の玄関を入ったところ

▲玄関扉の上から覗くミネルヴァ=アテネ女神
ここに出入りする市長と議員に英知を授けて下さいますようにという意図か?

時のバーゼル大公司教、バルデンシュタインのジョゼフ=ギョーム・リンクは、自分の居住地であるポラントリュイを、「小さなパリ」にしたかったのかも知 れない。室内が暗くカビがはびこり衛生的とは言えないゴシック式の古い市庁舎は、司教の命により、バロック式の優美な豪邸へと変貌を遂げた。

当時の絵画上で見られるように、旧市庁舎の階段部分は通りにはみ出している。改築後、市街の建物は一列に並んだ。建築家はピエール=フランソワ・パリ 氏。建築期間は1761~1764年。先述の病院と、同時進行で作業を行っているのだから建築家の才能は元より、大公司教の財力は相当なものと想像するに 容易い。リンクはこの二つの建物の完成を見ずに亡くなっており、後任のモンジョワが小パリを謳歌することになる。しかし、第32話の主役は大公司教ではな い。

改築前の市庁舎は、14世紀建造で、元々は有産階級者の館として建ち、城壁の一部だった。1413年にヌーシャテルに注文した銅製の鐘(現在の市庁舎の 小鐘楼内にある)は、この地方で最も古いものである。鐘は町に危険が迫った時、すなわち戦争や犯罪を市民に知らせ、犯人が処刑される時の告知にも使われ た。

一階は武器庫として使われていた。自由都市の実質運営を一手に引き受けていた有産階級者は、有事の際には騎士となり、敵と戦うのである。二階は会議室で あったが、台所と隣接し、しばしば大宴会場となった。宴会は議員やその伴侶のためだけでなく、町の有産階級者の婚姻時にもここで開かれた。誓約書宣誓の度 にはすべての有産階級者とその伴侶が招かれ、その数は150~200人にも及んだ。

宴会について面白い逸話がある。酒蔵がなかったため、ワインは買い置きせず、そのつど酒屋に必要なだけ買いに行っていたという記録がある。
現在ではまったく当たり前にように出される食器類は、中世では貴重なものだった。この市庁舎では錫製の皿が100あまり、大皿が50ほど用意されていた が、それは身分の高い者用で、下層民には木製のコップや皿が出された。会食者全員に皿が行き渡らないこともあり、その場合、男性は隣の貴婦人と皿を共有し た。女性が意中の人であった場合、男性は緊張と遠慮のあまり、食欲を忘れたのではないだろうか。
料理用の野菜は菜園に豊富にあった。肉は雌鹿や野ウサギで、その他の肉は肉屋に注文した。大公司教の来訪の折は雌鹿料理でもてなした。

ポラントリュイはバーゼル司教公国に属していたため、絶対君主は大公司教であったが、町は実質、有産階級者が牛耳っていた。市場が開く一時間前に市庁舎 のバルコニー上に小さな旗が上がったが、それは有産階級者が優先的に買い物をしてもよいという知らせであった。

こう書いていると、有産階級者や市会議員は贅沢ばかりしていた感はあるが、組織が秩序化され結束していたことで、後世に伝えられた資料は非常に貴重で、 中世の生活を細かく知る大きな手がかりとなる。この市庁舎に設けられた有産階級古文書室にはヨーロッパ最古の洗礼記録がある。

1481年12月26日。出生日は分からないが、中世では洗礼を受けずに死ぬと天国に行けないと固く信じられていたので、赤ん坊はクリスマスからそう遠 くない日に出生していたのであろう。ちなみに1482~1500年の記録では、男の子に一番多い名前はジャン(Jean)(キリストの十二使徒の一人、ヨ ハネ)で男子全体の30%、女の子はジャンヌやジャネット(Jeanne, Jeannette)(ジャンの女性形)で女子全体の21,8パーセント、現代のようなバラエティに富んだ名前は見当たらない。排他・嫌悪の対象となった ユダヤ教徒を除き、国がカトリック一色に塗られていた時代でもあった。