ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その1》

2010年2月28日

グレレスの館

フランス語で「ホテル」(l’hôtel)と言うと、観光客が泊まるホテルの他に、「公共の建物」という意味と、「(貴族などの)私邸、館」という意味 がある。


▲グレレスの館
現在はバーゼル大公司教統治時代の貴重な資料が眠る古文書図書館。カメラに収まらないほど巨大。

▲当時の売れっ子鍛冶屋Jollat(ジョラ)製作の錬鉄の階段手すり。
グレレス夫妻婚姻記念の紋章付き。

▲大公司教の妹、グレレス卿夫人
ヴィクトワールの墓

▲妹思いの大公司教、バルデンシュタイン出身の
ジョゼフ=ギョーム・リンク

18世紀、「アジョワ暴動」(1730~40年)(第20、21話‐ジュラのウィリアム・テルになり損ねた男をご参照に)後、Porrentruyを含 むアジョワ地方は、表面上は静けさを取り戻した。バーゼル大公司教支配下でPorrentruyの町が最後の輝きを見せる時代である。 町は建設ラッシュとなった。ブルジョワ階級は流行のバロック・レジェンス様式で邸宅の一部を改装したが、大公司教の財力は部分装飾だけではとどまらず、彼 らの邸宅の何軒分かに相当する「ホテル」建設を実行させた。

1750年頃、最初の「ホテル」が完成した。「グレレスの館」(Hôtel de Gléresse)と呼ばれる建物は、当時の大公司教、バルデンシュタイン出身のジョゼフ=ギョーム・リンクが、妹・ヴィクトワールと、その婿であるグレ レスのジャン・フレデリック・コンラッドに結婚祝いとして贈ったものである。(グレレスはドイツ語読みでは「Ligerz」。
Bienne/Biel湖を見下ろす小さな村で、ワインの産地である)その頃、グレレス卿は大公政府の実力者でもあり、多忙を極めていたが、彼と妹がせ めてPorrentruyで束の間の休日を楽しめるようにという心遣いだったという。

写真でご覧の通り、威圧感のあるドイツバロック式の館は、建築家ヨハン・カスパー・バグナート設計によるものである。バグナートは1696年ライン地方 Landauに石工の息子として生まれた。建築家として多忙を極めたため病弱になったが、1757年に亡くなるまでバーゼル司教区のために貢献した。スイ スとドイツの国境、ボーデン湖に浮かぶマイナウ島の教会は彼が建造した。ジュラ州都・ドレモンの市庁舎の設計者でもある。
館は豪華なだけではなく実用的でもあった。馬車に乗ったまま出入り内部に出入りできるように車道と歩道の段差を少なくし、入口を高く広く設計している。 馬車は大きな玄関ホールでグレレス夫妻や客人を下ろすと、中庭を一周して180度方向転換をし、再びホールに戻ってきて待機する。

グレレス卿夫人ヴィクトワールの墓をPorrentruyで最古の教会、サンジェルマン教会で偶然見つけたので写真をご覧いただきたい。司教の庇護で恵 まれた結婚生活を送っていた彼女が、フランス革命軍による破壊活動や司教区の解体後、どのような運命をたどったのかは知られていない。せめて墓に刻まれた 言葉を読み、彼女の人柄や功績を想像してみよう。
「グレレスのヴィクトワール夫人。旧姓バルデンシュタイン出身のリンク。1810年9月(?)20日死去、享年92歳。彼女は美徳の手本であり、貧しき 者の母であった。裕福なものよ、彼女を真似よ。貧しきものよ、彼女を祝福せよ。すべてのものよ、彼女のために祈れ。安らかに眠りたまえ」


〈参考資料〉
「Images du vieux Porrentruy」Roger Ballmer 著
Porrentruy市公式サイト : http://www.porrentruy.ch/