第55話 世間は狭し楽し

2010年4月26日

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▲夏は飲み食いしながらここで何時間でも世間話・・・。右から、義妹、夫、義父。

今回より、新シリーズが始まります。一住民から見たポラントリュイという町、アジョワという地方、ジュラという州、そしてスイスという国を、年々薄くなりつつある?「日本女性というフィルター」を通してあらゆる角度から語りたいと思います。四方山話へのお付き合い、どうぞよろしくお願いいたします。

③	私がロマンさんに日本語を教えているティールーム。和風に言うと「喫茶店」だろうか。パン屋・ケーキ屋も兼ねている。特に土曜の朝は、席を見つけるのが困難なほど混む。

▲私がロマンさんに日本語を教えているティールーム。和風に言うと「喫茶店」だろうか。パン屋・ケーキ屋も兼ねている。特に土曜の朝は、席を見つけるのが困難なほど混む。

時は15年以上遡る。「Salut ! ハイジの国から」で言えば、第一話から第六話ぐらいだろうか。フランス語がまだ不自由だった頃、そして・・・知り合いがほとんどいなかった頃、人の集まりが大の苦手だった。それがたとえ自分の夫の家族や友達だったとしても。私自身について直接質問されたり、日本に興味を示してくれるならまだ会話が成り立ちやすいし、入りやすい。しかし、そんな甘い時間は長くは続かず、皆は安心して話せる「世間話」へと移っていく。例えば、夫の母がこんな話題を提供したとする。

「ねえ、〇〇って知ってる? 私の妹の義母の兄なんだけど・・・」

日本語であったとしても、「うん?」と考え込み、頭の中で一生懸命家系図を描かなければ、瞬時に関係が分からないであろう。他の人達は通じ合っているらしく、「へえ、そう、そんなことがあったんだあ~!」と話が弾みまくる。

正直に告白すると、私は最初、このような「世間話」が嫌で嫌でたまらなかった。〇〇さんのことはおろか、夫の叔母の顔もおぼろげなのである。皆が楽しそうに笑う中、私は一人取り残され、薄笑いを浮かべるしかなかった。

スイス到着後1年間ほど、まだフランス語での会話についていけない頃は、夫の英語による通訳に頼るしかなかった。しかもそれは話が弾めば弾むほど頻繁ではなくなる。やっと訳してくれた頃には別の話題が盛り上がろうとしており、今更、前の話を出せる雰囲気ではない。たとえ先の話がどんなに面白かったとしても、ガスがすっかり抜けた炭酸飲料を飲んでいるような気分を味わうこと度々であった。コンプレックスも入り混じり、「こんな程度の低い話、どうだっていいんだ!」と、ひねくれて考えていたこともあった。

そんなこんなで・・・苦節、数年。

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▲お気に入り、カフェ・ビストロの「シェ・ステフ」。経営者がステファンという名前である。以前、私はスイスロマンドTVに出演したが、その時のインタビューロケはここの三階(ホテル)で行われた。冬の朝早いこともあって閑散と見えるが、夏は道路まで張り出して椅子とテーブルを並べ、カフェテラスが大繁盛である。

フランス語も人並に話せるようになり、友人知人も日に日に増えた。二人の子を出産、育児。ブルー期間を克服してからぼちぼち仕事を始め、地域に密着した文化活動に頭も手足も突っ込んでいる。スイス人を前にして、「自分はあくまでも日本人だが、同時にポラントリュイ人、アジョワ人、ジュラ人でもある」と豪語できるまでになった。環境にどっぷり浸かると人間とは恐ろしいもので、あれだけ嫌だった「世間話」が逆に面白くてたまらないばかりか、自分から率先してやるようになっているのである。

「私の友達のお子さんの担任の先生が、気分屋でねえ・・・」

などと。

州全体でも人口がたった6万9千人あまり。知り合いの誰かさんと別の誰かさんが何かしら繋がっている。友人知人が多くなるということは、それ以外の人とも間接的に繋がっていると感じ、安心するのがジュラ州の特徴ではないだろうか。他の州の人と話していても、そこに行き着く。大阪という、一応大都会から来た私には、こうした田舎特有の世間の狭さが窮屈に感じたこともあったが、今ではちょうどいい湯加減の温泉に身内だけで浸かっているような、ほっとする環境になってしまった。驚くことに長年暮らしていると、この「世間」は、ジュラという地方だけでなく、スイスという国、ひいては世界にまで広がっていくのである。

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▲初対面のヴァレー州在住女性の学友で、現在スイスロマンド国営TVの番組ディレクター、ロマン・ゲラさん。休暇と仕事で年に何度も日本に行くという、大の日本びいき。彼の計らいでTV局を案内してもらった時の写真である。

例えば、こんな話がある。

仕事を通じて出会ったヴァレー州在住女性との何気ない会話。彼女とは初対面、私が切り出した世間話である。

私「ヴァレー州出身の綺麗な女性アナウンサーがいますよね。あの人の恋人はジュラの出身ですよ。私の日本語レッスンの生徒でもあってねえ・・・△△って名前。この人もTV関係者で・・・」

ヴァレー女性「ああ、△△ね。同じカレッジで学んでたわ。彼、元気?」

もう一つ、凄い出会い。沖縄で、ラ・ショー・ド・フォンというヌーシャテル州の町出身者に共通の友人の紹介で会った時。

私「隣村に住んでいる友達(日本人)のご主人がラ・ショー・ド・フォン出身でねえ。××っていう名の・・・」

その人「××? ああ、知ってるよ。彼と幼稚園に一緒に通ってたんだ。懐かしいねえ~」

沖縄で、ですよ! 東京じゃなくて、沖縄!

しかもその後、この男性、私がフランス語で自伝を寄稿した文学集に同じく寄稿していた芸術家の友人だったことも分かり、運命の不可思議さに私は頭をひねるばかりであった。

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▲沖縄・万座ビーチにて。右が、沖縄で出会ってびっくりのラ・ショー・ド・フォン市出身の男性。左は、共通の友達、沖縄在住写真家・ダニエル・ロペス氏。彼はポラントリュイ近郊の村出身である。この日、命全開の(笑)二人は那覇市栄町商店街代表として沖縄名物ボートレース「ハーリー」に出場した。

このような偶然を、私は「ジュラ・マジック」と呼んでいる。

土地を遠く離れてもこれなのだから、ジュラ内部、そしてポラントリュイの町中では網の目のように人脈が絡み合っている。「ああ、☆☆と知り合い? 僕もなんだ」共通の友人知人がいると、初対面でも話が弾んでくれるのが嬉しい。日本の某長寿TV番組で「友達の友達は皆、友達だ。世界に広げよう、友達の輪ッ!」と司会者が言っているが、それを地で行っているのがジュラ人ある。特にポラントリュイとこのアジョワ地方は、ジュラの中でもフランスに近く、平地も多いせいか、人がオープンで明るい。時にはびっくりするほど率直であるが、私のような外国人にはかえってやり易い。

「Bonjour !」「Bonjour ! Ça va ?」ペラペラペラペラ・・・。

町ですれ違えば挨拶は伝統的礼儀。いや、立派な文化と言えようか。知り合いで尚且つお互い時間がちょっぴりあれば、立ち話に発展。カフェにでも入ればいいのに、立ったまま延々としゃべっている。通りすがりの人に話の内容が聞こえても平気なのだ。もちろん、狭い旧市街に何軒もあるカフェは朝から大繁盛。それぞれのカフェには常連がいて、店の人と挨拶だけでなく抱擁・キスもするほど親しいということが分かる。ちなみにスイスの挨拶用のキスは、頬に三回。若いイケメン男性とする時は、「スイスに住んで良かった」と心の中でほくそ笑む私である。女性だと同性同士でもするが、男性同士は普通、握手である。

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▲青空市場が立つ木曜の朝に写真撮影したため隠れてしまったが、ここも人気のカフェ・ビストロ、老舗の「ドゥ・クレ」(二本の鍵という意味)である。この店のビールは種類が多く、ビール通を唸らせる。去年、レストラン部分がリニューアルオープンし、従来の「飲み屋」の他に優雅な空間も作り出した。

挨拶も会話も、人間関係を円滑にする。今の日本では知らない人に話しかけられると悲しいかな、身構えてしまいがちだが、ジュラは違う。とりあえず話を聞こう、何か聞かれたら教えてあげよう、困っている人なら助けよう、という本来の人の優しさ・思いやりが自然に備わっているような気がする。最先端技術を取得し、流行に乗り遅れないようにする心がけることもある意味大事だが、物質の有無よりも人間同士心を通い合わせることこそが幸せをもたらす第一条件である、と後世に伝えていきたいものである。