‘50話以降’ カテゴリーのアーカイブ

第55話 世間は狭し楽し

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▲夏は飲み食いしながらここで何時間でも世間話・・・。右から、義妹、夫、義父。

今回より、新シリーズが始まります。一住民から見たポラントリュイという町、アジョワという地方、ジュラという州、そしてスイスという国を、年々薄くなりつつある?「日本女性というフィルター」を通してあらゆる角度から語りたいと思います。四方山話へのお付き合い、どうぞよろしくお願いいたします。

③	私がロマンさんに日本語を教えているティールーム。和風に言うと「喫茶店」だろうか。パン屋・ケーキ屋も兼ねている。特に土曜の朝は、席を見つけるのが困難なほど混む。

▲私がロマンさんに日本語を教えているティールーム。和風に言うと「喫茶店」だろうか。パン屋・ケーキ屋も兼ねている。特に土曜の朝は、席を見つけるのが困難なほど混む。

時は15年以上遡る。「Salut ! ハイジの国から」で言えば、第一話から第六話ぐらいだろうか。フランス語がまだ不自由だった頃、そして・・・知り合いがほとんどいなかった頃、人の集まりが大の苦手だった。それがたとえ自分の夫の家族や友達だったとしても。私自身について直接質問されたり、日本に興味を示してくれるならまだ会話が成り立ちやすいし、入りやすい。しかし、そんな甘い時間は長くは続かず、皆は安心して話せる「世間話」へと移っていく。例えば、夫の母がこんな話題を提供したとする。

「ねえ、〇〇って知ってる? 私の妹の義母の兄なんだけど・・・」

日本語であったとしても、「うん?」と考え込み、頭の中で一生懸命家系図を描かなければ、瞬時に関係が分からないであろう。他の人達は通じ合っているらしく、「へえ、そう、そんなことがあったんだあ~!」と話が弾みまくる。

正直に告白すると、私は最初、このような「世間話」が嫌で嫌でたまらなかった。〇〇さんのことはおろか、夫の叔母の顔もおぼろげなのである。皆が楽しそうに笑う中、私は一人取り残され、薄笑いを浮かべるしかなかった。

スイス到着後1年間ほど、まだフランス語での会話についていけない頃は、夫の英語による通訳に頼るしかなかった。しかもそれは話が弾めば弾むほど頻繁ではなくなる。やっと訳してくれた頃には別の話題が盛り上がろうとしており、今更、前の話を出せる雰囲気ではない。たとえ先の話がどんなに面白かったとしても、ガスがすっかり抜けた炭酸飲料を飲んでいるような気分を味わうこと度々であった。コンプレックスも入り混じり、「こんな程度の低い話、どうだっていいんだ!」と、ひねくれて考えていたこともあった。

そんなこんなで・・・苦節、数年。

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▲お気に入り、カフェ・ビストロの「シェ・ステフ」。経営者がステファンという名前である。以前、私はスイスロマンドTVに出演したが、その時のインタビューロケはここの三階(ホテル)で行われた。冬の朝早いこともあって閑散と見えるが、夏は道路まで張り出して椅子とテーブルを並べ、カフェテラスが大繁盛である。

フランス語も人並に話せるようになり、友人知人も日に日に増えた。二人の子を出産、育児。ブルー期間を克服してからぼちぼち仕事を始め、地域に密着した文化活動に頭も手足も突っ込んでいる。スイス人を前にして、「自分はあくまでも日本人だが、同時にポラントリュイ人、アジョワ人、ジュラ人でもある」と豪語できるまでになった。環境にどっぷり浸かると人間とは恐ろしいもので、あれだけ嫌だった「世間話」が逆に面白くてたまらないばかりか、自分から率先してやるようになっているのである。

「私の友達のお子さんの担任の先生が、気分屋でねえ・・・」

などと。

州全体でも人口がたった6万9千人あまり。知り合いの誰かさんと別の誰かさんが何かしら繋がっている。友人知人が多くなるということは、それ以外の人とも間接的に繋がっていると感じ、安心するのがジュラ州の特徴ではないだろうか。他の州の人と話していても、そこに行き着く。大阪という、一応大都会から来た私には、こうした田舎特有の世間の狭さが窮屈に感じたこともあったが、今ではちょうどいい湯加減の温泉に身内だけで浸かっているような、ほっとする環境になってしまった。驚くことに長年暮らしていると、この「世間」は、ジュラという地方だけでなく、スイスという国、ひいては世界にまで広がっていくのである。

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▲初対面のヴァレー州在住女性の学友で、現在スイスロマンド国営TVの番組ディレクター、ロマン・ゲラさん。休暇と仕事で年に何度も日本に行くという、大の日本びいき。彼の計らいでTV局を案内してもらった時の写真である。

例えば、こんな話がある。

仕事を通じて出会ったヴァレー州在住女性との何気ない会話。彼女とは初対面、私が切り出した世間話である。

私「ヴァレー州出身の綺麗な女性アナウンサーがいますよね。あの人の恋人はジュラの出身ですよ。私の日本語レッスンの生徒でもあってねえ・・・△△って名前。この人もTV関係者で・・・」

ヴァレー女性「ああ、△△ね。同じカレッジで学んでたわ。彼、元気?」

もう一つ、凄い出会い。沖縄で、ラ・ショー・ド・フォンというヌーシャテル州の町出身者に共通の友人の紹介で会った時。

私「隣村に住んでいる友達(日本人)のご主人がラ・ショー・ド・フォン出身でねえ。××っていう名の・・・」

その人「××? ああ、知ってるよ。彼と幼稚園に一緒に通ってたんだ。懐かしいねえ~」

沖縄で、ですよ! 東京じゃなくて、沖縄!

しかもその後、この男性、私がフランス語で自伝を寄稿した文学集に同じく寄稿していた芸術家の友人だったことも分かり、運命の不可思議さに私は頭をひねるばかりであった。

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▲沖縄・万座ビーチにて。右が、沖縄で出会ってびっくりのラ・ショー・ド・フォン市出身の男性。左は、共通の友達、沖縄在住写真家・ダニエル・ロペス氏。彼はポラントリュイ近郊の村出身である。この日、命全開の(笑)二人は那覇市栄町商店街代表として沖縄名物ボートレース「ハーリー」に出場した。

このような偶然を、私は「ジュラ・マジック」と呼んでいる。

土地を遠く離れてもこれなのだから、ジュラ内部、そしてポラントリュイの町中では網の目のように人脈が絡み合っている。「ああ、☆☆と知り合い? 僕もなんだ」共通の友人知人がいると、初対面でも話が弾んでくれるのが嬉しい。日本の某長寿TV番組で「友達の友達は皆、友達だ。世界に広げよう、友達の輪ッ!」と司会者が言っているが、それを地で行っているのがジュラ人ある。特にポラントリュイとこのアジョワ地方は、ジュラの中でもフランスに近く、平地も多いせいか、人がオープンで明るい。時にはびっくりするほど率直であるが、私のような外国人にはかえってやり易い。

「Bonjour !」「Bonjour ! Ça va ?」ペラペラペラペラ・・・。

町ですれ違えば挨拶は伝統的礼儀。いや、立派な文化と言えようか。知り合いで尚且つお互い時間がちょっぴりあれば、立ち話に発展。カフェにでも入ればいいのに、立ったまま延々としゃべっている。通りすがりの人に話の内容が聞こえても平気なのだ。もちろん、狭い旧市街に何軒もあるカフェは朝から大繁盛。それぞれのカフェには常連がいて、店の人と挨拶だけでなく抱擁・キスもするほど親しいということが分かる。ちなみにスイスの挨拶用のキスは、頬に三回。若いイケメン男性とする時は、「スイスに住んで良かった」と心の中でほくそ笑む私である。女性だと同性同士でもするが、男性同士は普通、握手である。

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▲青空市場が立つ木曜の朝に写真撮影したため隠れてしまったが、ここも人気のカフェ・ビストロ、老舗の「ドゥ・クレ」(二本の鍵という意味)である。この店のビールは種類が多く、ビール通を唸らせる。去年、レストラン部分がリニューアルオープンし、従来の「飲み屋」の他に優雅な空間も作り出した。

挨拶も会話も、人間関係を円滑にする。今の日本では知らない人に話しかけられると悲しいかな、身構えてしまいがちだが、ジュラは違う。とりあえず話を聞こう、何か聞かれたら教えてあげよう、困っている人なら助けよう、という本来の人の優しさ・思いやりが自然に備わっているような気がする。最先端技術を取得し、流行に乗り遅れないようにする心がけることもある意味大事だが、物質の有無よりも人間同士心を通い合わせることこそが幸せをもたらす第一条件である、と後世に伝えていきたいものである。

第54話 ポラントリュイだより: スイス・ジュラの年中行事~冬支度編

ホワイトクリスマスだった2008年

8月半ば。湿気王国・大阪から帰ってきて、気温差に震え上がることもあるが、晴天が広がればしめたもの。故郷シックに陥らず、楽しいジュラ生活が再開する。

奇跡の聖母像8月15日は、カトリック州のみが休日、聖母被昇天祭である。この日の朝、ポラントリュイでは、聖職者達と参列者が、普段は聖ピエール教会に安置されている聖母子像をかつぎ、駅の裏手からロレットチャペルまで行進する。

06年の聖母被昇天祭は、とりわけ魅力的であった。というのは、当時の司教・ジャン=マリー・ヌスバウムさんが、バチカンと懇意の仲であったということもあり、ジュラ出身の新旧スイス傭兵が、特別に、祭りに参列したからだ。普段、バチカンに行かない限りは、せいぜいテレビの中で見るぐらいだった傭兵さん達を間近で見て大感激。勿論、ミサ後に話しかけに行くことも忘れなかった!

この後、ジュラの「熱い」夏は、8月末にムーチェ市と1年交代で開かれるブラッデリーという大きな祭りで終幕する。6月頃から各週末、各市町村単位で行われていた中小規模の祭りも、この頃には尽きる。冷たい季節の到来と共に、人々の心は身も心も冬に向かっていく…。

11月1日、やはりカトリック州のみ休日の「諸聖人の大祝日」。この祝日のフランス語訳である「Toussaint」は、「全聖人」というような意味であるが、一般家庭にとっては、聖人というよりは各々の先祖を供養する日になっている。我が家では、夫の父母の家に行き、祖父母の墓参りをすることが多い。

2006年8月15日、聖母被昇天祭のミサこれといった陽気な行事もなく、何となく湿っぽい気分になりそうな11月であるが、ポラントリュイを中心とするアジョワ地方は違う。そう、豚を食べて食べて食べまくる祭り、聖マルタン(サン・マルタン)祭りが近づくからである!
村々では豚の屠殺、そして豚肉食品作りが始まり、その様子がテレビで放映されたりする。サン・マルタンの独特な騒ぎ具合は第47話スイスグルメ話~アジョワ名物編で書いたので、ここでは繰り返さない。ちなみに、この文章は11月末に執筆を始めたが、その2週間前も、豚肉コース料理全7品を平らげながら、踊り歌い狂った筆者である。

豚祭りが終わり、12月に入ると、町全体がイルミネーションで彩られ始め、子供達には一年に一度の楽しみがある。
12月6日。日本では12月24日の夜にやって来るサンタクロースの方が一般的だが、スイスでは、サンタクロースの原型と言われる聖ニコラ(サン・ニコラ)がやって来る日である。
聖ニコラと次女聖ニコラは聖人には珍しく、殉教せずに天寿を全うした。肉屋にさらわれ塩漬けにされていた子供を復活させたり、貧しい娘に持参金を恵んだりした、という ような伝説から、子供の守護聖人、そして彼の死んだ日、すなわち12月6日にプレゼントを持ってくる聖人として親しまれるようになった。
私の娘達も、幼い頃は信じていたものである。ボランティアでサン・ニコラの扮装をして子供達を訪ね歩いてくれる女性(!)にプレゼントを言付けて訪問を お願いしたこともある。また、町のデパートでは、聖ニコラの握手会もある。こういうイベントでは、ピーナッツやみかん、チョコレートという「三点セッ ト」(第50話~クリスマス編その1を参照)をくれたりする。
しかしながら、サン・ニコラに会うことは、子供達の修業の一環でもある。なぜなら、彼は一人ではやって来ず、「鞭打ちじいさん」と呼ばれる全身黒装束の 男を伴っており、良い子でなければ彼が持っている藁の鞭で打たれると言われている。(注・勿論、実際に子供を傷つけたりはしないが)陰気な黒尽くめの男が 藁を片手に傍で立っているのを見つけた途端、小さな子は震え上がり、プレゼントをもらうのも忘れて泣きじゃくるのである。

各市町村ではこぞってコーラスやミサ曲などのコンサートが行われたり、クリスマス市も(ポラントリュイは小さいながら)立つ。こう書き連ねてみると、何だ、冬もそう陰気じゃないどころか、楽しくわくわくするようなことが一杯じゃないかと元気になってくる。

コーラス系のコンサートが多いのも、この季節の特徴

去年はホワイトクリスマスだったが、今年はどうか。スイスにしては異常とも思えるほど暖かな秋が続いた後、冬になってもまだ肌を刺すような日はめったにない。この暖冬が続くのか、それともいきなりドカ雪が降るのか。優秀な天気予報官と神のみぞ知るの