混沌の被災地を取材して(上)

2005年1月1日

炎熱列島からの手紙~ジャカルタ特派員報告【第4話】
※2004年12月26日、スマトラ島(インドネシア)沖のインド洋で大地震があり、沿岸一帯を大津波が襲いました。死者・行方不明者が20万人以上にの ぼるなど被害の詳細はマスコミが伝えてきました。ここでは3回に渡って取材体験記をお話しさせていただきます。

インド洋大津波の最大の被災地、インドネシア、アチェ州の州都バンダアチェ市はその日、人々が大災害の現実を受け止めきれないのか、空港も町も 静まり返っていた。被災翌日の04年12月27日。空港には寝場所や援助を求めて詰め掛けた被災者が既に数百人いた。夕方になってたどり着いた市中心部は 人影がまばらだった。
津波は26日朝、約200㌔におよぶアチェ州南西海岸と北端のバンダアチェ市を襲った。
27日朝、私とジャカルタの取材助手(女性、26歳)はメダンに着いた。「バンダアチェ空港は地震による損壊で閉鎖」との情報もあり、その先、 どうやって被災地に行けるか検討がつかなかった。しかし、メダン到着後、同空港は使用可能と分かり、ガルーダ航空がメダンからバンダアチェへの臨時便を出 した。この便にありつけた外国メディアは、日本の3社を含む数社だけだった。同便の直後にチャーター便でバンダアチェ入りした日本メディアもあった。


▲空港から十数分走ると、
広場に数百体の遺体が集められていた
(バンダアチェ市で12月27日)

バンダアチェ到着は午後2時ごろ。普段なら客引きに寄ってくるタクシー運転手らが1人もいない。時折、難を免れた乗用車が発着するが、多人数を乗せて到 着すると、新たに親せき・知人らしき人たちを乗せてあわただしく立ち去る。助手と一緒に何台かの車に駆け寄り、乗せてくれ、貸してくれと頼んだが断られ続 けた。
空港に家族を迎えに来た人の乗用車に乗せてもらえたのは夕刻だった。町には遺体が散乱しているという。恐れていた通りだ。十数分走ったところに大量の遺 体が集められていた。ざっと500体は下らない。
乗用車の家族は被害のなかった地域で私たちを降ろし、「空港に戻る車が見つからなければ訪ねてきなさい」と高台にある住所を教えてくれた。付近にベチャ と呼ばれるサイドカー付きオートバイが数台走っていた。1台をつかまえ、被災中心地へ向かう。日はほとんど暮れていた。数分走ると、道路のあちこちに遺体が転がっていた。どの遺体も両腕を宙に突き出してマネキンのごとく硬直している。ヘッドライトに照らし出される遺体の 一つ一つが強烈なインパクトで目に飛び込んできた。大通りでは、歩道の各所に十数体~二十数体ずつの死体置き場が設けられていた。驚愕の光景を次々に目の 当たりにし、「この状況を早く日本に伝えなければ!」と気だけがせいた。
ホテルも商店も1軒も開いていなかった。がれきの山に阻まれて近付けない地域も多かった。停電で町は真っ暗だ。空港から乗せてくれた人の家を何とか訪ね あてた。


▲高台の家屋に集まって眠る人たち。
女性は軒先に、私たちは玄関のすぐ内側で眠った
(バンダアチェ市で12月27日)

その家と隣家には十数人ずつが集まっていた。親せきを頼ってきた人や、余震を警戒して自宅よりも丈夫な家屋を訪ねてきた人らがいた。海岸付近から避難し てきた男性に1時間余り取材後、一緒に眠らせてもらった。揺れたらすぐに逃げ出せるよう、扉は開け放したままだ。このため蚊にあちこちを刺された。マラリ アやデング熱がこわいが仕方がない。男数人が玄関口、女性約10人が玄関を出てすぐの軒先に眠った。

この日、アチェに着いてから口にしたものはビスケットと少量のパンだけだ。被災地で食料が入手しにくいことは、95年の阪神大震災でよく知っていた。神 戸市中央区の自宅で被災した私は当日、朝から翌日未明まで神戸市内を歩き回って取材した。開いていた店はコンビニ1軒のみ。それも、開店後20、30分で 食料が完売し、「柿の種」だけを食料に未明まで歩き通すことになった。
その教訓があったので、アチェに着く前に食料を買い込んでおきたかった。しかし、自宅を出たのは午前5時ごろで店は開いていなかった。前日は原稿や出張 準備で忙しかった。メダンでは、臨時便の出発時刻が確定しないため空港を離れられなかった。空港でパンやお菓子をできるだけ詰め込んで「冬眠前のクマ状 態」となり、菓子を買うのが精一杯となった。

明け方、前夜に取材した男性に自宅付近を案内してもらうべく、家を出た。ベチャの運転手が迎えに来てくれていた。少し行くと、路上に眠っている人もたく さんいた。


▲がれきに埋もれた自宅前でぼう然とする男性。
この男性と一緒にがれきの上を歩いた
(大アチェ県で12月28日)


▲被災地を黙々と歩くバンダアチェ市民ら。
(12月28日)

男性の自宅は残っていたが、高さ2㍍を超えるがれきが周囲を埋めていた。がれきの中のところどころに遺体があった。近くのモスクは遺体安置所になってい た。
男性と別れて市中心部に向かった。ベチャのガソリンがなくなりつつあった。実は支局に衛星電話を常備しておらず、通信手段がなかった。他社の衛星電話を 借りて最小限の情報を東京に伝えたが、早くルポ原稿を届けなければならない。ガソリンも切れそうだし、いったんアチェを出ることに決めた。

ところが、空港の混雑が尋常ではなかった。メダンに脱出しようとする人々が券売所に長い列を作っていたのだ。一方で、発券カウンター内に自由に出入りし ては、優先的に航空券と搭乗券を受け取っている空港職員らがいた。観察すると、この職員らは空港の警備に当たっている国軍兵士らから指示を受けていた。そ して、一部の客が折りたたんだ紙幣と搭乗希望者リストを兵士らに渡し、航空券あっせんを依頼していた。
アチェ州では、独立派武装組織「自由アチェ運動」(GAM)と国軍の間で長年、交戦状態が続いている。「GAMの協力者」と疑われた住民が国軍に拷問や 嫌がらせを受ける事例が多く、人々は兵士を極度に恐れている。航空券あっせんは国軍の権力を利用した「臨時アルバイト」だったようだ。おかげで、購入に約 4時間かかった。冷房はなく、煙草の煙が充満する騒がしいロビーで航空券を求めて数時間並ぶ体験をその後も2、3回繰り返した。