名月島で疲れた

2014年5月6日

6月24日晴天
バスでは行き辛いと聞いていた明月島だからタクシーで船着き場まで直行。乗船券を買い(シニアは無料)10:30出航までたっぷりある時間をどうしようかとひとまずベンチに腰掛ける。

と、“今がぴったりの気候だよ”となりのおじいさんに話しかけられた。“そうですか。よかったこと。冬は零下何度ぐらいまで下がりますか”“

“-40℃、雪は1メートル超えるね”“島では電気自動車が20元に値上がりしたそうだよ。2年前は5元だったのにさ。将軍府以外見るべきは多くないよ”“じゃ、歩くことにします。”などと、

ぼーっと話していて案内書と一緒に傍に置いた乗船券が見当たらない。やられた。買い直し。

 

 

 

観光船というより連絡船という感じで40分足らずで島に着いた。目だけ出して養蜂に携わる人のイデタチの売店のおばさんたちに出迎えられた。異様な感じに驚いたが上陸してたちまちその謎が解けた。その訳は虫。小さいけれどしつこくついてくる。汗をかくとなおさらなのでみんな手や扇子などで煽ぎながら歩く。ザーロン湿地とおんなじスタイル。

 

明月島内に観光用の列車を走らせ子供づれを喜ばせている。

虫と戦いつつ歩きやっと将軍府に着いた。

「黒龍江将軍府移転の記」に拠れば
康熙22年(1683)清政府は東北の国境整備強化を決定、康熙30年黒龍江将軍薩布素の要請に応え斉斉哈爾城を建設することにした。康熙38年ここに将軍府を置き進駐。ここを黒龍江地区の政治・軍事・経済・文化の中心とした。以来71代の将軍が駐屯した。71代寿山将軍が庚子の役で殉死。光緒26年(1900)斉斉哈爾陥落後、建物は荒れるに任せた状態だった。1999年市人民政府が歴史的価値ある古建築物であるからとできる限り復元し風光明媚な明月島に移し歴史・文化・教育の資源として後世に伝えるべく計らったという。

 

 

 

歴代将軍の年譜や肖像画(途中から写真が出てくる)、清朝の八旗、公印などの展示物をゆっくり見て回る。平日のことで観光客が少ないからガイドは張り合いがなさ気にさっさと行ってしまうのでこっそり写真を撮らせてもらった。満州族の築いた清朝。開祖ヌルハチの出自は遼寧省清原(撫順近辺)、瀋陽から北京に入り明朝を崩壊させ清を開いた時、敢えて漢族の文化や言語を採用し明朝を回顧する人々をも懐柔した。
今回の旅の行く先々で出会う皇帝の名。当時、内モンゴルやチベットをも統治していたかと思えばその凄さに驚かされ、チベット問題、ウィグル族のテロ行為に対する現中国の処し方を考えてみた。