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	<title>大阪学講座 &#187; 大阪の橋</title>
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		<title>【連載】大阪の橋</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=121</link>
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		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 15:31:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の橋]]></category>

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		<description><![CDATA[



平田渡のサヨナラ航行（昭和45年3月）



第34回●豊里大橋(4)
豊里大橋
松村　博
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）
 豊里大橋は大阪内環状線、都市計画道路名でいう新庄大和川線の一環として、万国博覧会が開催される直前の昭和45年3月に完成しました。橋長は 561.4m、幅員は19.5mで、川の中央部の低水路を跨ぐ部分には80.5+215.0+80.5mのスパンをもつ3径間連続の斜張橋が採用されまし た。その他はスパン60mの2主桁形式の鋼床版桁が用いられています。この斜張橋は日本国内ではごく初期のもので、大阪では初めてのものでした。斜張橋は桁橋形式では架設が難しい200mを越える距離を一跨ぎしなければな らないような場所に有効な形式であるとされています。その後の技術発展の進行は目覚ましく、本州四国連絡橋の尾道～今治ルートの多々羅大橋では中央スパン は800mに達しています。
高い塔から非常に強いロープで桁を吊っているので、桁への負担を少なくし、桁高を低くすることができ、その結果、取付道路を短くできるという利点ももっ ています。しかし非常に繊細な構造ですので、設計と施工にあたってはケーブルを利用した力のバランスをいかにうまくとるかがポイントになり、綿密な構造計 算と微妙な現場作業が要求されます。
豊里大橋の建設にあたっては、いろいろな技術的検討がなされました。斜張橋の補剛桁は、剛性が低いため風に対して揺れやすい性質をもっています。このた め任意の強さの風を起こすことができせる風洞という実験装置を使って、桁の断面を工夫し、通常の風では橋桁が振動しないことが確かめられました。補剛桁は 強力なケーブルで吊り上げられていますが、その定着部分には大きな力が集中します。この部分が十分な耐力を持ち、なおかつ力がスムースに桁に伝わるような 構造にするために、詳細な構造解析や模型実験が行われました。
桁を吊っているケーブルには非常に強度の高いピアノ線が使われます。それまでの斜張橋では撚り線が使われていましたが、その材料の強度を有効に生かすた めに平行線のケーブルが使われました。




現在の豊里大橋



斜張橋は力学的にも合理的な構造形式であるばかりでなく、そのバランスのよい姿は近代的な都市の景観を向上させる上でも貢献をしています。その面でも先 駆的な役割を果たした豊里大橋は、大阪ばかりでなく日本の橋梁技術の発展にとってもエポックメイキングな橋になったのです。
Last Update: Oct.23,1999
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table border="0" align="RIGHT">
<tbody>
<tr>
<td align="RIGHT"><img src="../../../../home/column/bridge/034_1.jpg" alt="" width="280" height="200" /><br />
<span>平田渡のサヨナラ航行（昭和45年3月）</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p><span>第34回●豊里大橋(4)</span><br />
<span>豊里大橋</span></p>
<p><span>松村　博</span><br />
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）</p>
<ul> 豊里大橋は大阪内環状線、都市計画道路名でいう新庄大和川線の一環として、万国博覧会が開催される直前の昭和45年3月に完成しました。橋長は 561.4m、幅員は19.5mで、川の中央部の低水路を跨ぐ部分には80.5+215.0+80.5mのスパンをもつ3径間連続の斜張橋が採用されまし た。その他はスパン60mの2主桁形式の鋼床版桁が用いられています。この斜張橋は日本国内ではごく初期のもので、大阪では初めてのものでした。斜張橋は桁橋形式では架設が難しい200mを越える距離を一跨ぎしなければな らないような場所に有効な形式であるとされています。その後の技術発展の進行は目覚ましく、本州四国連絡橋の尾道～今治ルートの多々羅大橋では中央スパン は800mに達しています。</p>
<p>高い塔から非常に強いロープで桁を吊っているので、桁への負担を少なくし、桁高を低くすることができ、その結果、取付道路を短くできるという利点ももっ ています。しかし非常に繊細な構造ですので、設計と施工にあたってはケーブルを利用した力のバランスをいかにうまくとるかがポイントになり、綿密な構造計 算と微妙な現場作業が要求されます。</p>
<p>豊里大橋の建設にあたっては、いろいろな技術的検討がなされました。斜張橋の補剛桁は、剛性が低いため風に対して揺れやすい性質をもっています。このた め任意の強さの風を起こすことができせる風洞という実験装置を使って、桁の断面を工夫し、通常の風では橋桁が振動しないことが確かめられました。補剛桁は 強力なケーブルで吊り上げられていますが、その定着部分には大きな力が集中します。この部分が十分な耐力を持ち、なおかつ力がスムースに桁に伝わるような 構造にするために、詳細な構造解析や模型実験が行われました。</p>
<p>桁を吊っているケーブルには非常に強度の高いピアノ線が使われます。それまでの斜張橋では撚り線が使われていましたが、その材料の強度を有効に生かすた めに平行線のケーブルが使われました。</p>
<table border="0" align="LEFT">
<tbody>
<tr>
<td align="LEFT"><img src="../../../../home/column/bridge/034_2.jpg" alt="" width="280" height="200" /><br />
<span>現在の豊里大橋</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>斜張橋は力学的にも合理的な構造形式であるばかりでなく、そのバランスのよい姿は近代的な都市の景観を向上させる上でも貢献をしています。その面でも先 駆的な役割を果たした豊里大橋は、大阪ばかりでなく日本の橋梁技術の発展にとってもエポックメイキングな橋になったのです。</ul>
<p><span>Last Update: Oct.23,1999</span></p>
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		<title>【連載】大阪の橋</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=119</link>
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		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 15:30:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の橋]]></category>

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		<description><![CDATA[第33回●豊里大橋(3)
近代の平田渡し
松村　博
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）

 明治になっても個人営業で続けられていましたが、明治37年、淀川改修工事によって豊里村が左右両岸に分断されたときに村営になりました。このように場 所も地名も変わりましたが、渡しの名前はそのまま受け継がれ、明治40年からは府営となりました。その頃の渡し賃は大人が2銭、小人が1銭だったそうで す。そして大正14年にこの辺りが大阪市に編入されましたので市営(ただし個人の請負制)となり、この時から無料になりました。公営の渡しは道路法によって 認定道路として位置付けられているものが多いのですが、平田渡しも「東淀川区第386号線」という道路の一環としての役割を果たしていました。
戦後になって職業安定法が施行されたのを機に、昭和23年には市の直営になりました。淀川右岸地域の都市化が進み、利用者が急増しましたが、手漕ぎの船 では片道20分もかかりましたので、ラッシュ時には積み残しが出る状態になりました。それに少し風雨が強いとすぐに欠航となり、利用者には随分不便なもの でした。そこで昭和35年には21人乗りの発動機船に変えられ、さらに昭和38年からは36人乗りの新造船が就航しました。こうして最盛期には1日 3000人の乗客と670台の自転車を運んでいました。




平太の渡し跡の碑（左岸堤防上）



平田渡しは300年もの長い歴史をもっていますが、昭和45年3月に豊里大橋が完成したのを機にその歴史に終止符が打たれました。淀川の本流では最も遅 くまで存続した渡しであったことになります。そして淀川の左岸堤防上に「平太の渡し跡」と刻まれた石碑が建てられています。
Last Update: Oct.23,1999
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>第33回●豊里大橋(3)</span><br />
<span>近代の平田渡し</span></p>
<p><span>松村　博</span><br />
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）</p>
<p><img src="../../../../home/column/bridge/033_1.jpg" alt="" width="353" height="137" align="RIGHT" /></p>
<ul> 明治になっても個人営業で続けられていましたが、明治37年、淀川改修工事によって豊里村が左右両岸に分断されたときに村営になりました。このように場 所も地名も変わりましたが、渡しの名前はそのまま受け継がれ、明治40年からは府営となりました。その頃の渡し賃は大人が2銭、小人が1銭だったそうで す。そして大正14年にこの辺りが大阪市に編入されましたので市営(ただし個人の請負制)となり、この時から無料になりました。公営の渡しは道路法によって 認定道路として位置付けられているものが多いのですが、平田渡しも「東淀川区第386号線」という道路の一環としての役割を果たしていました。</p>
<p>戦後になって職業安定法が施行されたのを機に、昭和23年には市の直営になりました。淀川右岸地域の都市化が進み、利用者が急増しましたが、手漕ぎの船 では片道20分もかかりましたので、ラッシュ時には積み残しが出る状態になりました。それに少し風雨が強いとすぐに欠航となり、利用者には随分不便なもの でした。そこで昭和35年には21人乗りの発動機船に変えられ、さらに昭和38年からは36人乗りの新造船が就航しました。こうして最盛期には1日 3000人の乗客と670台の自転車を運んでいました。</p>
<table border="0" align="LEFT">
<tbody>
<tr>
<td align="LEFT"><img src="../../../../home/column/bridge/033_2.jpg" alt="" width="300" height="195" /><br />
<span>平太の渡し跡の碑（左岸堤防上）</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>平田渡しは300年もの長い歴史をもっていますが、昭和45年3月に豊里大橋が完成したのを機にその歴史に終止符が打たれました。淀川の本流では最も遅 くまで存続した渡しであったことになります。そして淀川の左岸堤防上に「平太の渡し跡」と刻まれた石碑が建てられています。</ul>
<p><span>Last Update: Oct.23,1999</span></p>
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		</item>
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		<title>【連載】大阪の橋</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=117</link>
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		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 15:29:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の橋]]></category>

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		<description><![CDATA[第32回●豊里大橋(2)
平田渡し【へいたのわたし】




逆巻橋寺『淀川両岸一覧』



松村　博
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）
 この辺りの淀川にはかなり古い時代から渡しが設けられていました。元禄時代に編まれた『摂陽群談』には「西成郡平田村より河内国茨田郡十番村(現在の守 口市八雲中町付近)の堤へ渡って街道へ出る。ここは大坂の津より山城国伏見へ登る川船を改めるところである。世に平田番所の渡しといわれる」と説明されて います。この地が淀川の水運の要衝であったことがわかります。平田渡しは平太渡しとも書かれ、この名前が、延宝4年(1676)から淀川の下流域での渡船の営業権を得ていた大道村(東淀川区大桐)の土豪沢田佐平太 【さへいた】の名前に由来するという説もありますが、確かなことは分かりません。
江戸時代末期の安政3年(1856)に発刊された『淀川両岸一覧』には「平太渡口【へいだのわたし】」として「西成郡平太村より、東生【ひがしなり】郡 今市村へ淀川を渡る舟渡しである。今市の渡しともいう」と記述されています。このことから江戸時代前期の渡しの位置よりはかなり下流に移動していたことに なります。
Last Update: Sep.23,1999
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>第32回●豊里大橋(2)</span><br />
<span>平田渡し</span><span>【へいたのわたし】</span></p>
<table border="0" align="RIGHT">
<tbody>
<tr>
<td align="RIGHT"><img src="../../../../home/column/bridge/032.jpg" alt="" width="300" height="230" /><br />
<span>逆巻橋寺『淀川両岸一覧』</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p><span>松村　博</span><br />
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）</p>
<ul> この辺りの淀川にはかなり古い時代から渡しが設けられていました。元禄時代に編まれた『摂陽群談』には「西成郡平田村より河内国茨田郡十番村(現在の守 口市八雲中町付近)の堤へ渡って街道へ出る。ここは大坂の津より山城国伏見へ登る川船を改めるところである。世に平田番所の渡しといわれる」と説明されて います。この地が淀川の水運の要衝であったことがわかります。平田渡しは平太渡しとも書かれ、この名前が、延宝4年(1676)から淀川の下流域での渡船の営業権を得ていた大道村(東淀川区大桐)の土豪沢田佐平太 【さへいた】の名前に由来するという説もありますが、確かなことは分かりません。</p>
<p>江戸時代末期の安政3年(1856)に発刊された『淀川両岸一覧』には「平太渡口【へいだのわたし】」として「西成郡平太村より、東生【ひがしなり】郡 今市村へ淀川を渡る舟渡しである。今市の渡しともいう」と記述されています。このことから江戸時代前期の渡しの位置よりはかなり下流に移動していたことに なります。</ul>
<p><span>Last Update: Sep.23,1999</span></p>
]]></content:encoded>
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		<title>【連載】大阪の橋</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=115</link>
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		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 15:29:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の橋]]></category>

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		<description><![CDATA[



行基の像（近鉄奈良駅前）



第31回●豊里大橋(1)
高瀬大橋【たかせのおおはし】
松村　博
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）
 奈良時代に活躍した僧・行基は信者を率い、各地で様々な土木事業を行いました。要害の地を巡り、橋を架け、堤防を築きました。そのことを聞いた人々は皆 やって来て協力したということです。日本の仏教は導入当初から国家仏教の形をとっていましたが、7世紀後半になると、民衆仏教の発展が見られるようになり ました。道昭やその弟子の行基は国是をおかして民衆への伝道にあたり、国家から弾圧を受けた時期もありました。民衆の日常活動に密接な土木事業を興すこと は民衆を仏縁にあずからしめる宗教活動であり、事業そのものが民衆から歓迎されるものでした。『行基年譜』などの資料によりますと、山城国乙訓郡に山崎橋を、相楽郡に泉大橋を架けました。そして摂津では、高瀬大橋の他、長柄、中河、堀江の3橋を 架けたとされています。橋を架けることは寺院の建設や布施屋の開設などと密接な関連をもつ宗教活動の一環でした。山崎橋と泉大橋の位置はほぼ特定されてい ますが、摂津の4つの橋がどこに架けられていたのかよく分かりません。この内、高瀬大橋は現在の豊里大橋の近くに架けられていたと推定されています。行基 が宗教活動として建設したいろいろな施設を地図上で検討してみますと、生駒山から伊丹の昆陽【こや】に至る道が開かれていたことが想定できます。その重要 なポイントが淀川を渡るところに架けられた高瀬大橋だったというのです。




高瀬大橋架橋想定地点



明治末期に行われた淀川の大改修によって川の流路がすっかり変わってしまっていますので特定するのは難しいのですが、古い地名や式内社の位置などから高 瀬大橋は今の豊里大橋のやや上流部あたりの旧河道に架けられていたと推定されています。
守口市に式内社の高瀬神社が残り、現在では淀川敷になってしまっていますが、それ以前にあった橋寺村という地名は行基が建てたとされる高瀬橋院と同尼院 の位置を想定させます。これらの寺院が橋を管理する役割を担っていた可能性も考えられます。しかし今となってはその証拠を見いだすことは大変難しいことで す。
Last Update: Sep.23,1999
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table border="0" align="RIGHT">
<tbody>
<tr>
<td align="LEFT"><img src="../../../../home/column/bridge/031_1.jpg" alt="" width="150" height="243" /><br />
<span>行基の像（近鉄奈良駅前）</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p><span>第31回●豊里大橋(1)</span><br />
<span>高瀬大橋</span><span>【たかせのおおはし】</span></p>
<p><span>松村　博</span></p>
<p>（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）</p>
<ul> 奈良時代に活躍した僧・行基は信者を率い、各地で様々な土木事業を行いました。要害の地を巡り、橋を架け、堤防を築きました。そのことを聞いた人々は皆 やって来て協力したということです。日本の仏教は導入当初から国家仏教の形をとっていましたが、7世紀後半になると、民衆仏教の発展が見られるようになり ました。道昭やその弟子の行基は国是をおかして民衆への伝道にあたり、国家から弾圧を受けた時期もありました。民衆の日常活動に密接な土木事業を興すこと は民衆を仏縁にあずからしめる宗教活動であり、事業そのものが民衆から歓迎されるものでした。『行基年譜』などの資料によりますと、山城国乙訓郡に山崎橋を、相楽郡に泉大橋を架けました。そして摂津では、高瀬大橋の他、長柄、中河、堀江の3橋を 架けたとされています。橋を架けることは寺院の建設や布施屋の開設などと密接な関連をもつ宗教活動の一環でした。山崎橋と泉大橋の位置はほぼ特定されてい ますが、摂津の4つの橋がどこに架けられていたのかよく分かりません。この内、高瀬大橋は現在の豊里大橋の近くに架けられていたと推定されています。行基 が宗教活動として建設したいろいろな施設を地図上で検討してみますと、生駒山から伊丹の昆陽【こや】に至る道が開かれていたことが想定できます。その重要 なポイントが淀川を渡るところに架けられた高瀬大橋だったというのです。</p>
<table border="0" align="LEFT">
<tbody>
<tr>
<td align="RIGHT"><img src="../../../../home/column/bridge/031_2.jpg" alt="" width="350" height="240" /><br />
<span>高瀬大橋架橋想定地点</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>明治末期に行われた淀川の大改修によって川の流路がすっかり変わってしまっていますので特定するのは難しいのですが、古い地名や式内社の位置などから高 瀬大橋は今の豊里大橋のやや上流部あたりの旧河道に架けられていたと推定されています。</p>
<p>守口市に式内社の高瀬神社が残り、現在では淀川敷になってしまっていますが、それ以前にあった橋寺村という地名は行基が建てたとされる高瀬橋院と同尼院 の位置を想定させます。これらの寺院が橋を管理する役割を担っていた可能性も考えられます。しかし今となってはその証拠を見いだすことは大変難しいことで す。</ul>
<p><span>Last Update: Sep.23,1999</span></p>
]]></content:encoded>
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		<title>【連載】大阪の橋</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=113</link>
		<comments>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=113#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 15:28:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の橋]]></category>

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		<description><![CDATA[第30回●淀川大橋(6)
淀川大橋界隈みてある記
(1999年7月26・30日撮影)
壽榮松正信
（74期）
【淀川大橋近辺】
【淀川大橋北詰】
大正15年に建設された淀川大橋は、かなり老巧化しています。
十三大橋よりもかなり水面に近い橋ですね。
このため、台風や地震の時に高潮の影響があります。
地元の方の話では、第2室戸台風の時には、整備されていなかった このあたりの土が、どんどん削られていったそうです。
【北詰から見る～淀川建築博物館】
北野の前から見る『淀川建築博物館』も、場所を変えると見え方が違いますね。
交通量も大変なものです。ひっきりなしに四方から車が流れ込んできます。
【橋の歩道には…】
歩道を歩いてみると、橋の歩道には100m毎に標識があります。
一番端っこは700mですが、2番目からは矢印で双方向の距離が書いてあります。
先代の『西成大橋』と現代の『淀川大橋』もきっちりと宣伝してあります。
【不思議な構造物：Q】
はて、これはなんでしょう？？？
淀川大橋に、2つあります。
北側には『朝日』、南側には『夕日』があります。8月3日は『平成淀川花火大会』が開かれ、『夕日』の辺りもビューポイントですので、注意書きが出ていました。
【不思議な構造物：A】
不思議な構造物の正体は…？
【鼻川神社】
明治の20年代まで、この神社は今の淀川の中にあったのです。
そのころあった中津川は、このあたり蛇行していました。
その形が『鼻』に似ていたので、『鼻川神社』と名付けられたそうです。
今は、淀川大橋の北詰東側にあります。
ここには、次の碑が置かれています。
【鼻川神社の碑】
『西成大橋』の銘のごとく、大正末期まで利用されていた橋の標識です。
木の橋の大きさも、長さが「404間3分」、幅が「3間」と、書いてあります。
メートル法では、730メートルと6メートルくらいですかね。※写真は、前々回の第28回●淀川大橋(4)で 紹介されています。



【海老江八坂神社】
鼻川神社の丁度対岸に、海老江（えびえ地名）があります。
海老江の地に、八坂神社があります。海老江の鎮守である。
古くこの一帯は海中に浮かんで海老洲（えびす）と呼ばれた砂洲で、開拓されて村となりその折創建されたと思われるので、相当古い神社である。
祭神は素蓋鳴命、旧名牛頭天王社、境内の燈寵に大治（224頃）、大治（138頃）の年号が見え、社伝に永徳三年（1383）再建などとある。
元亀元年（1570）織田信長が野田城にいた三好一党を攻撃したとき、荒木村重に命じて当社に陣刀を奉納して戦勝を祈願、現在も社宝として刀が保存されて いる。
農耕、生産守護、疫病災厄守護神として広く信仰され、明治以後八坂神社の名に改まった。
ということで、かなり古い神社なのです。
地震の影響はここにもあり、社殿が青いビニールシートで囲われていました。




【海老江八坂神社にある『西成大橋』の親柱】
対岸の鼻川神社にもあるこの親柱、淀川大橋の下流側にあった『西成大橋』にあったものです。
 【潮位計】
淀川大橋は、かなり低く、高潮があれば水が溢れます。
その潮位は、常に観測されていて、その結果は無線で報告されます。
【建設省淀川工事事務所福島出張所】
潮位を管理する事務所が、淀川大橋のたもとにありました。
大地震の時は、これから下流の堤防がかなり傷み、決壊のキケンもありました。
その後、着々と改修作業が行われています。
Last Update: Aug.23,1999
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>第30回●淀川大橋(6)</span><br />
<span>淀川大橋界隈みてある記</span><br />
(1999年7月26・30日撮影)</p>
<p><span>壽榮松正信</span><br />
（74期）</p>
<ul><img src="../../../../home/column/bridge/030-1s.jpg" alt="" hspace="10" width="128" height="100" align="RIGHT" />【淀川大橋近辺】<br />
<img src="../../../../home/column/bridge/030-2s.jpg" alt="" hspace="10" width="128" height="183" align="RIGHT" />【淀川大橋北詰】<br />
大正15年に建設された淀川大橋は、かなり老巧化しています。<br />
十三大橋よりもかなり水面に近い橋ですね。<br />
このため、台風や地震の時に高潮の影響があります。<br />
地元の方の話では、第2室戸台風の時には、整備されていなかった このあたりの土が、どんどん削られていったそうです。<br />
<img src="../../../../home/column/bridge/030-3s.jpg" alt="" hspace="10" width="128" height="100" align="RIGHT" />【北詰から見る～淀川建築博物館】<br />
北野の前から見る『淀川建築博物館』も、場所を変えると見え方が違いますね。<br />
交通量も大変なものです。ひっきりなしに四方から車が流れ込んできます。<br />
<img src="../../../../home/column/bridge/030-4s.jpg" alt="" hspace="10" width="128" height="132" align="RIGHT" />【橋の歩道には…】<br />
歩道を歩いてみると、橋の歩道には100m毎に標識があります。<br />
一番端っこは700mですが、2番目からは矢印で双方向の距離が書いてあります。<br />
先代の『西成大橋』と現代の『淀川大橋』もきっちりと宣伝してあります。<br />
<img src="../../../../home/column/bridge/030-5s.jpg" alt="" hspace="10" width="128" height="100" align="RIGHT" />【不思議な構造物：Q】<br />
はて、これはなんでしょう？？？<br />
淀川大橋に、2つあります。<br />
北側には『朝日』、南側には『夕日』があります。8月3日は『平成淀川花火大会』が開かれ、『夕日』の辺りもビューポイントですので、注意書きが出ていました。<br />
<img src="../../../../home/column/bridge/030-6s.jpg" alt="" hspace="10" width="128" height="79" align="RIGHT" />【不思議な構造物：A】<br />
不思議な構造物の正体は…？<br />
<img src="../../../../home/column/bridge/030-7s.jpg" alt="" hspace="10" width="128" height="100" align="RIGHT" />【鼻川神社】<br />
明治の20年代まで、この神社は今の淀川の中にあったのです。<br />
そのころあった中津川は、このあたり蛇行していました。<br />
その形が『鼻』に似ていたので、『鼻川神社』と名付けられたそうです。<br />
今は、淀川大橋の北詰東側にあります。<br />
ここには、次の碑が置かれています。<br />
【鼻川神社の碑】<br />
『西成大橋』の銘のごとく、大正末期まで利用されていた橋の標識です。<br />
木の橋の大きさも、長さが「404間3分」、幅が「3間」と、書いてあります。<br />
メートル法では、730メートルと6メートルくらいですかね。<span>※写真は、前々回の第28回●淀川大橋(4)で 紹介されています。</span></p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0">
<tbody>
<tr>
<td valign="TOP">【海老江八坂神社】<br />
鼻川神社の丁度対岸に、海老江（えびえ地名）があります。<br />
海老江の地に、八坂神社があります。海老江の鎮守である。<br />
古くこの一帯は海中に浮かんで海老洲（えびす）と呼ばれた砂洲で、開拓されて村となりその折創建されたと思われるので、相当古い神社である。<br />
祭神は素蓋鳴命、旧名牛頭天王社、境内の燈寵に大治（224頃）、大治（138頃）の年号が見え、社伝に永徳三年（1383）再建などとある。<br />
元亀元年（1570）織田信長が野田城にいた三好一党を攻撃したとき、荒木村重に命じて当社に陣刀を奉納して戦勝を祈願、現在も社宝として刀が保存されて いる。<br />
農耕、生産守護、疫病災厄守護神として広く信仰され、明治以後八坂神社の名に改まった。</p>
<p>ということで、かなり古い神社なのです。<br />
地震の影響はここにもあり、社殿が青いビニールシートで囲われていました。</td>
<td valign="TOP"><img src="../../../../home/column/bridge/030-8s.jpg" alt="" hspace="10" width="128" height="100" align="RIGHT" /></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p><img src="../../../../home/column/bridge/030-9s.jpg" alt="" hspace="10" width="128" height="160" align="RIGHT" />【海老江八坂神社にある『西成大橋』の親柱】<br />
対岸の鼻川神社にもあるこの親柱、淀川大橋の下流側にあった『西成大橋』にあったものです。<br />
 <img src="../../../../home/column/bridge/030-10s.jpg" alt="" hspace="10" width="128" height="100" align="RIGHT" />【潮位計】<br />
淀川大橋は、かなり低く、高潮があれば水が溢れます。<br />
その潮位は、常に観測されていて、その結果は無線で報告されます。<br />
<img src="../../../../home/column/bridge/030-11s.jpg" alt="" hspace="10" width="128" height="171" align="RIGHT" />【建設省淀川工事事務所福島出張所】<br />
潮位を管理する事務所が、淀川大橋のたもとにありました。<br />
大地震の時は、これから下流の堤防がかなり傷み、決壊のキケンもありました。<br />
その後、着々と改修作業が行われています。<br />
<span>Last Update: Aug.23,1999</span></ul>
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		<title>【連載】大阪の橋</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=111</link>
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		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 15:27:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の橋]]></category>

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		<description><![CDATA[



現在の淀川大橋



第29回●淀川大橋(5)
淀川大橋
松村　博
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）
 西成大橋が架設されて以来、阪神間は著しく発展しました。殊に大正3年に起こっ た第一次世界大戦の後の好景気によって、沿道には工場などが次々と建てられ、車馬 の通行が激増しました。それにもかかわらず道路幅は4～6mと、旧来のままでしたから混雑が激しく、道路を拡幅してほしいという要望が高まりました。大正 8年になって大阪府は調査を開始し、兵庫県とも協議をして阪神国道改修の計画をまとめまし た。こうして総工費約540万円の計画案が府会で認められました。この事業によって西成大橋の架け換えが行われました。事業が進められる途中で、 路面電車が設置されることになったり、関東大震災の経験から耐震設計の見直しが行 われるなどの変更を加えながら、橋は大正15年8月に完成しました。
淀川を渡る部分の長さは約731m、幅員は20mと一気に広くなりました。中央に幅5.5mの電車軌道をもち、両側に1.8mづつの歩道がとられまし た。河川中央部の6径間は32.9m、両側の12径間は21.9mのスパン長になっています。橋脚と橋台は鉄筋コンクリート製ですが、基礎として中央部の 4基には1橋脚につき4本の鉄筋コンクリート製の井筒基礎(外径3.6m、深さ21m)が沈められ、他の橋脚の基礎には合計約8000本の落葉松及び米松 の杭(末口25cm、長さ9.1m)が打ち込まれています。
上部工の中央部は上路式の単純ワーレントラス4列で構成され、他には鋼単純桁が 用いられています。工事報告書によりますと、総鋼重は約4500トンで、鋼板は主として国産(八幡製鉄所製)でしたが、型鋼は国産のものが少なく、主に輸 入材が用いられたとされています。そして橋の工事費は中津運河の小橋の分を含めて約246万円でした。
架橋地周辺は、橋の工事中に大阪市へ編入となり、西成郡という地名がなくなりま したので、西成大橋という名前の根拠がなくなってしまいました。新しい橋は淀川筋 では破格の規模をもつものになったことから、淀川大橋と名付けられました。
淀川大橋は、現在は国道2号の一環として建設省近畿地方建設局の管理になってお り、阪神間の重交通を支え続けていますが、戦前から続いた地盤沈下の影響によっ て、橋面が堤防より相当低くなってしまいました。このため橋の両端部には高潮や洪 水の時に水が入ってこないように、閉鎖用の鉄扉が設けられています。
Last Update: Aug.23,1999
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			<content:encoded><![CDATA[<table border="0" align="RIGHT">
<tbody>
<tr>
<td align="RIGHT"><img src="../../../../home/column/bridge/029.jpg" alt="" width="350" height="200" /><br />
<span>現在の淀川大橋</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p><span>第29回●淀川大橋(5)</span><br />
<span>淀川大橋</span></p>
<p><span>松村　博</span><br />
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）</p>
<ul> 西成大橋が架設されて以来、阪神間は著しく発展しました。殊に大正3年に起こっ た第一次世界大戦の後の好景気によって、沿道には工場などが次々と建てられ、車馬 の通行が激増しました。それにもかかわらず道路幅は4～6mと、旧来のままでしたから混雑が激しく、道路を拡幅してほしいという要望が高まりました。大正 8年になって大阪府は調査を開始し、兵庫県とも協議をして阪神国道改修の計画をまとめまし た。こうして総工費約540万円の計画案が府会で認められました。この事業によって西成大橋の架け換えが行われました。事業が進められる途中で、 路面電車が設置されることになったり、関東大震災の経験から耐震設計の見直しが行 われるなどの変更を加えながら、橋は大正15年8月に完成しました。</p>
<p>淀川を渡る部分の長さは約731m、幅員は20mと一気に広くなりました。中央に幅5.5mの電車軌道をもち、両側に1.8mづつの歩道がとられまし た。河川中央部の6径間は32.9m、両側の12径間は21.9mのスパン長になっています。橋脚と橋台は鉄筋コンクリート製ですが、基礎として中央部の 4基には1橋脚につき4本の鉄筋コンクリート製の井筒基礎(外径3.6m、深さ21m)が沈められ、他の橋脚の基礎には合計約8000本の落葉松及び米松 の杭(末口25cm、長さ9.1m)が打ち込まれています。</p>
<p>上部工の中央部は上路式の単純ワーレントラス4列で構成され、他には鋼単純桁が 用いられています。工事報告書によりますと、総鋼重は約4500トンで、鋼板は主として国産(八幡製鉄所製)でしたが、型鋼は国産のものが少なく、主に輸 入材が用いられたとされています。そして橋の工事費は中津運河の小橋の分を含めて約246万円でした。</p>
<p>架橋地周辺は、橋の工事中に大阪市へ編入となり、西成郡という地名がなくなりま したので、西成大橋という名前の根拠がなくなってしまいました。新しい橋は淀川筋 では破格の規模をもつものになったことから、淀川大橋と名付けられました。</p>
<p>淀川大橋は、現在は国道2号の一環として建設省近畿地方建設局の管理になってお り、阪神間の重交通を支え続けていますが、戦前から続いた地盤沈下の影響によっ て、橋面が堤防より相当低くなってしまいました。このため橋の両端部には高潮や洪 水の時に水が入ってこないように、閉鎖用の鉄扉が設けられています。</ul>
<p><span>Last Update: Aug.23,1999</span></p>
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		<title>【連載】大阪の橋</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=108</link>
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		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 15:27:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の橋]]></category>

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		<description><![CDATA[



西成大橋と工事中の淀川大橋



第28回●淀川大橋(4)
西成大橋
松村　博
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）
 新淀川の開削中には新しい河道にも仮の桟橋が架けられていましたが、往来には不便なものでした。そこで明治39年に大阪府は新淀川の開削によって分断さ れていた6つの路線のうち、特に緊急を要する3路線にかかる橋を優先的に架設することにしました。同年11月には大阪府会郡部会の承認を得て、3カ年の予 定で、予算約39万円(うち国庫補助20万円)をもって工事を進め、明治41年には完成しました。 このとき、十三橋と長柄橋と共に完成したのが西成大橋です。この場所は当時は西成郡に属していましたので、このように命名されたものと思われます。西成 大橋は明治40年10月に着工され、41年12月に竣工しました。長さ735m、有効幅員約5.5mの規模をもつ鋼桁橋で、工費は13万5300円を要し たと記録されています。
この橋のたもとに建てられていた親柱が、西淀川区花川二丁目にある鼻川神社の境内に残されています。その石柱の4面には「西成大橋」という橋名はもちろ ん、施工者の「大阪府」、そして「明治四十一年十二月竣工」と「延長四百四間参分　高欄内法三間」という橋の寸法が彫られています。
Last Update: Jul.23,1999
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<table border="0" align="RIGHT">
<tbody>
<tr>
<td align="RIGHT"><img src="../../../../home/column/bridge/028_1.jpg" alt="" width="300" height="208" /><br />
<span>西成大橋と工事中の淀川大橋</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p><span>第28回●淀川大橋(4)</span><br />
<span>西成大橋</span></p>
<p><span>松村　博</span><br />
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）</p>
<ul> 新淀川の開削中には新しい河道にも仮の桟橋が架けられていましたが、往来には不便なものでした。そこで明治39年に大阪府は新淀川の開削によって分断さ れていた6つの路線のうち、特に緊急を要する3路線にかかる橋を優先的に架設することにしました。同年11月には大阪府会郡部会の承認を得て、3カ年の予 定で、予算約39万円(うち国庫補助20万円)をもって工事を進め、明治41年には完成しました。<img src="../../../../home/column/bridge/028_0.jpg" alt="" align="LEFT" /> このとき、十三橋と長柄橋と共に完成したのが西成大橋です。この場所は当時は西成郡に属していましたので、このように命名されたものと思われます。西成 大橋は明治40年10月に着工され、41年12月に竣工しました。長さ735m、有効幅員約5.5mの規模をもつ鋼桁橋で、工費は13万5300円を要し たと記録されています。</p>
<p>この橋のたもとに建てられていた親柱が、西淀川区花川二丁目にある鼻川神社の境内に残されています。その石柱の4面には「西成大橋」という橋名はもちろ ん、施工者の「大阪府」、そして「明治四十一年十二月竣工」と「延長四百四間参分　高欄内法三間」という橋の寸法が彫られています。</ul>
<p><span>Last Update: Jul.23,1999</span></p>
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		<title>【連載】大阪の橋</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=105</link>
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		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 15:26:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の橋]]></category>
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[第27回●淀川大橋(3)

松村　博
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）
 この地にも明治になって初めて橋が架けられました。野橋と名付けられた橋は右岸の野里村より出願され、明治9年4月に落成しています。橋の工事に際して対岸 の塚本村との間で協定が結ばれています。その内容は、橋は野里村の出願によって架けられるものであるから、橋本体は野里村の責任で施工するが、東岸(左 岸)は塚本村の領地であるから東岸の橋台と取付道路は塚本村で工事をする。その代わり、月のうち1日、11日、21日の3日間の橋賃銭(通行料)を塚本村 が徴収するというものでした。 そして出水などの非常事態になれば双方協力して橋を守ることが約束されています。このように両村の話し合いによって、共同経営で維持されていましたが、 明治38年8月、淀川の改修に伴って河道が付け替えられたために撤去されてしまいました。
現在では中津川の河道を示すことは難しくなっていますが、野里の商店街の道が旧中津川の右岸に沿っていたことになります。その商店街に面して「の橋　野里の渡し跡」と彫られた小さな石碑が建てられています。
新淀川の開削が進む中で、塚本村は一時的に新旧の川に挟まれ、中ノ島のようになってしまいましたし、鷺洲村も新淀川に分断されて一部が取り残されること になりました。また新しく架けられた十三橋や西成大橋へも距離があったため塚本村の村長の個人名義で渡しの設置を願い出ます。そしてこの渡しは塚本の渡し と呼ばれ、大正7年まで続けられました。
Last Update: Jul.23,1999
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>第27回●淀川大橋(3)</span><br />
<img src="../../../../home/column/bridge/027title.gif" alt="" width="76" height="35" /></p>
<p><span>松村　博</span><br />
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）</p>
<ul> この地にも明治になって初めて橋が架けられました。<img src="../../../../home/column/bridge/kashiwa.gif" alt="" width="17" height="11" />野橋と名付けられた橋は右岸の野里村より出願され、明治9年4月に落成しています。橋の工事に際して対岸 の塚本村との間で協定が結ばれています。その内容は、橋は野里村の出願によって架けられるものであるから、橋本体は野里村の責任で施工するが、東岸(左 岸)は塚本村の領地であるから東岸の橋台と取付道路は塚本村で工事をする。その代わり、月のうち1日、11日、21日の3日間の橋賃銭(通行料)を塚本村 が徴収するというものでした。<img src="../../../../home/column/bridge/027.jpg" alt="" width="280" height="300" align="RIGHT" /> そして出水などの非常事態になれば双方協力して橋を守ることが約束されています。このように両村の話し合いによって、共同経営で維持されていましたが、 明治38年8月、淀川の改修に伴って河道が付け替えられたために撤去されてしまいました。</p>
<p>現在では中津川の河道を示すことは難しくなっていますが、野里の商店街の道が旧中津川の右岸に沿っていたことになります。その商店街に面して「<img src="../../../../home/column/bridge/kashiwa.gif" alt="" width="17" height="11" />の橋　野里の渡し跡」と彫られた小さな石碑が建てられています。</p>
<p>新淀川の開削が進む中で、塚本村は一時的に新旧の川に挟まれ、中ノ島のようになってしまいましたし、鷺洲村も新淀川に分断されて一部が取り残されること になりました。また新しく架けられた十三橋や西成大橋へも距離があったため塚本村の村長の個人名義で渡しの設置を願い出ます。そしてこの渡しは塚本の渡し と呼ばれ、大正7年まで続けられました。</ul>
<p><span>Last Update: Jul.23,1999</span></p>
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		</item>
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		<title>【連載】大阪の橋</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=102</link>
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		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 15:25:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の橋]]></category>
		<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[第26回●淀川大橋(2)
野里渡し
松村　博
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）

 現在の国道2号に近い道は古くは梅田街道と呼ばれ、大坂から尼崎へ至る近道として西国往来の人々や尼崎の魚商人、西宮や兵庫の飛脚や商人など、緊急を要 する人達の利用が多かったようです。新淀川が開削される以前の中津川は大きく蛇行し、塚本村(現在の淀川区塚本・西淀川区柏里付近)はその左岸にありまし た。そして右岸の野里村とは川で隔てられていました。この両村を結んで野里渡しが設けられていたことが『摂陽群談』に見えますので、元禄の頃にはすでに渡 しが通うようになっていたと考えられます。このルートは近世に近い頃に開かれたと思われます。現在の西淀川区や此花区には島のつく地名が多いことからもわかりますように、このあたりは淀川河口部 のデルタ地帯で、古くは八十島という呼び方がぴったりする所でした。したがって古代から中世にかけては中国街道から下流部には安定した街道は作られません でした。江戸時代になって大坂の西部地域や尼崎城下の町の発展が進み、それを短距離で結ぶ道がしだいに利用されるようになっていきました。そしてそこには 常時渡しが通うようになりました。
Last Update: Jun.23,1999
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>第26回●淀川大橋(2)</span><br />
<span>野里渡し</span></p>
<p><span>松村　博</span><br />
（74期・大阪市都市工学情報センター理事長）</p>
<p><img src="../../../../home/column/bridge/026.jpg" alt="" width="150" height="225" align="LEFT" /></p>
<ul> 現在の国道2号に近い道は古くは梅田街道と呼ばれ、大坂から尼崎へ至る近道として西国往来の人々や尼崎の魚商人、西宮や兵庫の飛脚や商人など、緊急を要 する人達の利用が多かったようです。新淀川が開削される以前の中津川は大きく蛇行し、塚本村(現在の淀川区塚本・西淀川区柏里付近)はその左岸にありまし た。そして右岸の野里村とは川で隔てられていました。この両村を結んで野里渡しが設けられていたことが『摂陽群談』に見えますので、元禄の頃にはすでに渡 しが通うようになっていたと考えられます。このルートは近世に近い頃に開かれたと思われます。現在の西淀川区や此花区には島のつく地名が多いことからもわかりますように、このあたりは淀川河口部 のデルタ地帯で、古くは八十島という呼び方がぴったりする所でした。したがって古代から中世にかけては中国街道から下流部には安定した街道は作られません でした。江戸時代になって大坂の西部地域や尼崎城下の町の発展が進み、それを短距離で結ぶ道がしだいに利用されるようになっていきました。そしてそこには 常時渡しが通うようになりました。</ul>
<p><span>Last Update: Jun.23,1999</span></p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>【連載】大阪の橋</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=96</link>
		<comments>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=96#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 15:24:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の橋]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=96</guid>
		<description><![CDATA[第24回●神崎橋(8)
神崎橋界隈みてある記
(1999年4月28日撮影)
壽榮松正信
（74期）




 
【現在の神崎橋】

【神崎橋北詰】

【モスリン大橋】
震災で大きな影響のあった橋です。
【金比羅さんの石灯籠】

【金比羅さんの石灯籠2】
 
【金比羅さんの石灯籠3】




Last Update: May.23,1999
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>第24回●神崎橋(8)</span><br />
<span>神崎橋界隈みてある記</span><br />
(1999年4月28日撮影)</p>
<p><span>壽榮松正信</span><br />
（74期）</p>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0">
<tbody>
<tr>
<td valign="TOP"><img src="../../../../home/column/bridge/024.gif" alt="" align="LEFT" /></td>
<td align="RIGHT"><a href="./?p="> <img src="../../../../home/column/bridge/024-1s.jpg" alt="" width="128" height="100" /></a><br />
【現在の神崎橋】</p>
<p><img src="../../../../home/column/bridge/024-2s.jpg" alt="" width="128" height="100" /></p>
<p>【神崎橋北詰】<br />
<img src="../../../../home/column/bridge/024-3s.jpg" alt="" width="128" height="100" /><br />
【モスリン大橋】<br />
震災で大きな影響のあった橋です。<img src="../../../../home/column/bridge/024-4s.jpg" alt="" width="128" height="100" /><br />
【金比羅さんの石灯籠】<br />
<img src="../../../../home/column/bridge/024-5s.jpg" alt="" width="128" height="160" /><br />
【金比羅さんの石灯籠2】<br />
 <img src="../../../../home/column/bridge/024-6s.jpg" alt="" width="128" height="100" /><br />
【金比羅さんの石灯籠3】</td>
<td></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p><span>Last Update: May.23,1999</span></p>
]]></content:encoded>
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		</item>
	</channel>
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