<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>大阪学講座 &#187; 大阪の歴史</title>
	<atom:link href="http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?cat=3&#038;feed=rss2" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp</link>
	<description>Just another WordPress weblog</description>
	<lastBuildDate>Thu, 25 Feb 2010 07:36:02 +0000</lastBuildDate>
	<generator>http://wordpress.org/?v=2.8.5</generator>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
			<item>
		<title>北野高校にちなむ大阪の歴史</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=15</link>
		<comments>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=15#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 14:36:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の歴史]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=15</guid>
		<description><![CDATA[
第5話●
十三
脇田 修
(62期・大阪大学名誉教授/文学博士)
 現在の校地に移ったのは、昭和6年(1931)のことです。中津の敷地は三千坪だったので、十三ではかなり広くなったと思います。当時の在学生は、移転 のさい中津から十三まで、自分の机を担いでいったという話を聞いています。ここは摂津国西成郡成小路村でした。大阪の中心から離れた北部にあったのですが、西日本から京都へ上る西国街道や神崎川・中津川・淀川に近く、さまざまな 史跡が残っています。
さて学舎の窓から見える新淀川は、中津川を改修してできたものです。大坂市中へは淀川本流に寝屋川・大和川が流れこんでいたため、洪水の恐れがありまし た。そこで元禄時代には新大和川をつくって本流を河内国分から堺へ流しました。それとともに明治後半、中津川を改修して新淀川をつくり、淀川の水を市中に 流さないようにしたのでした。中津川には橋がなかったため、大坂から北へ向かうには渡し舟で越えましたが、北野高校の付近には十三の渡しがありました。渡 し場のあとは新淀川の流域内になっています。ただ渡し場のところにあった今里屋久兵衛の「あん焼」は、元の地から移っていますが、今も残っています。
なお十三の地名の起こりは分かっていません。西成郡の十三条にあたるとの説や淀から十三番目の渡しとの説などがありますが、確実なところはわかりませ ん。    近くの加島は神崎・江口とならぶ淀川・神崎川河口の要衝でした。そのため藤原道長が高野山参詣の帰途に宿泊するなど発達した港湾都市で、遊女などもいて 「天下第一の楽地」(遊女記)といわれました。また鍛冶が多く住み、近世中期には銭座がおかれ加島銭を鋳造しました。
この地の香具波志神社は古くから尊崇された神社で、倉稲魂神つまり稲荷を祭り、加島稲荷として知られています。近世中期、雨月物語・春雨物語などを書 き、国学者としても知られた上田秋成が、社家の藤家時らに招かれて、40歳代の3年程を過ごしました。秋成は本居宣長とは仲が悪く、なかでも宣長の「敷島 のやまと心と人とはば朝日に匂うやま桜花」という有名な和歌を痛烈に皮肉って、「しき島のやまと心となんのかの   うろんな事を又桜はな」と歌いました。宣長は偉い学者ですが、私は太平洋戦争中に、宣長の歌によって、若者は桜のように潔くパッと散れなどと聞かされたの で、あまりいい思い出がありません。秋成はどの国にもその国の個性があるといっており、宣長の国粋主義的なところをついていますが、さすがに国際都市大坂 の人だと思ったものです。
 Last Update : Jan.23,1998
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="../../../../home/column/wakita/juso.jpg" alt="" /></p>
<p><span>第5話●</span><br />
<span>十三</span></p>
<p><span>脇田 修</span><br />
(62期・大阪大学名誉教授/文学博士)</p>
<ul> 現在の校地に移ったのは、昭和6年(1931)のことです。中津の敷地は三千坪だったので、十三ではかなり広くなったと思います。当時の在学生は、移転 のさい中津から十三まで、自分の机を担いでいったという話を聞いています。ここは摂津国西成郡成小路村でした。大阪の中心から離れた北部にあったのですが、西日本から京都へ上る西国街道や神崎川・中津川・淀川に近く、さまざまな 史跡が残っています。</p>
<p>さて学舎の窓から見える新淀川は、中津川を改修してできたものです。大坂市中へは淀川本流に寝屋川・大和川が流れこんでいたため、洪水の恐れがありまし た。そこで元禄時代には新大和川をつくって本流を河内国分から堺へ流しました。それとともに明治後半、中津川を改修して新淀川をつくり、淀川の水を市中に 流さないようにしたのでした。中津川には橋がなかったため、大坂から北へ向かうには渡し舟で越えましたが、北野高校の付近には十三の渡しがありました。渡 し場のあとは新淀川の流域内になっています。ただ渡し場のところにあった今里屋久兵衛の「あん焼」は、元の地から移っていますが、今も残っています。</p>
<p>なお十三の地名の起こりは分かっていません。西成郡の十三条にあたるとの説や淀から十三番目の渡しとの説などがありますが、確実なところはわかりませ ん。    近くの加島は神崎・江口とならぶ淀川・神崎川河口の要衝でした。そのため藤原道長が高野山参詣の帰途に宿泊するなど発達した港湾都市で、遊女などもいて 「天下第一の楽地」(遊女記)といわれました。また鍛冶が多く住み、近世中期には銭座がおかれ加島銭を鋳造しました。</p>
<p>この地の香具波志神社は古くから尊崇された神社で、倉稲魂神つまり稲荷を祭り、加島稲荷として知られています。近世中期、雨月物語・春雨物語などを書 き、国学者としても知られた上田秋成が、社家の藤家時らに招かれて、40歳代の3年程を過ごしました。秋成は本居宣長とは仲が悪く、なかでも宣長の「敷島 のやまと心と人とはば朝日に匂うやま桜花」という有名な和歌を痛烈に皮肉って、「しき島のやまと心となんのかの   うろんな事を又桜はな」と歌いました。宣長は偉い学者ですが、私は太平洋戦争中に、宣長の歌によって、若者は桜のように潔くパッと散れなどと聞かされたの で、あまりいい思い出がありません。秋成はどの国にもその国の個性があるといっており、宣長の国粋主義的なところをついていますが、さすがに国際都市大坂 の人だと思ったものです。</ul>
<p><span> Last Update : Jan.23,1998</span></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?feed=rss2&amp;p=15</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>北野高校にちなむ大阪の歴史</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=12</link>
		<comments>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=12#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 14:35:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の歴史]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=12</guid>
		<description><![CDATA[
第4話●
北野
脇田 修
(62期・大阪大学名誉教授/文学博士)
 校名の元になった地名は、明治35年(1902)4月、堂島から北野に移ったことです。もともと北野というのは、大坂の北部一帯を広くさしており、現在 大阪市北区や大淀区の相当部分がそれにあたります。室町時代の寛正2年(1461)の崇禅寺領目録に北野村が見えますから、早くからの地名であったと思わ れます。崇禅寺というのは、阪急京都線の駅もありますが、当時は大坂北部に多くの所領をもっていた寺院でした。また北野圧という荘園もあり、京都の賀茂神 社の摂社である河合神社が知行していました。近世では大坂三郷の外で、曾根崎村のまだ北になるため、ほとんど民家もなく、三番・下三番・光立寺などの村や梅田三昧と呼ばれた墓地があるだけでした。 溝川の多い湿地帯で、田圃が広がり、春には菜種が咲いていました。今は賑やかになりました茶屋町は、菜種の花見のために鶴の茶屋・萩の茶屋などがあったと ころから、町名がついています。
明治7年に大阪駅ができ、明治22年には新橋ー神戸間が開通するなかで、駅付近は開けはじめ、梅田東小学校のあるところには凌雲閣という九層の遊楽場ま でできました。さらに明治38年には阪神電鉄、明治43年には箕面有馬電鉄(阪急電鉄)が開通し、梅田は大阪の北のターミナルとなりました。そして阪急電 鉄のすぐ西側は民家ができていましたが、さらに西の湿地であった大深町は貨物駅となっていました。ちなみに敗戦時は北野中学二年生でした私たちは勤労動員 で、ここで大豆を袋に詰める作業をしていました。
北野中学があったのは、現在の芝田町2丁目です。阪急電車で梅田を出て十三へ向かうと、中津駅の手前の西側に済生会中津病院が見えますが、ここが北野中 学の旧地です。明治44年の地図で見ますと、北野中学の校地は、寺院をはさんで、阪急電鉄にほぼ接するようにあります。やがて阪神北大阪線ができて、北側 が削り取られ、現在の景観に近くなったようです。
済生会病院は北野中学が十三に移転したのち、その跡地に建てたものです。済生会は明治天皇の下賜金150万円を基にして、貧しい人たちのために医療をお こなう目的でできた財団です。そして大阪紡織物株式会社などを創業した嘉門長蔵・コト夫妻が、私財100万円を財団に寄贈して中津病院を建設したのでし た。院内には、今も夫妻の胸像が立っています。
なお当時の中津には梅花女学校や萩の寺があり、なによりも北野中学出身の天才画家佐伯祐三が生まれた浄土真宗光徳寺がありました。
 Last Update : Dec.23,1997
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="../../../../home/column/wakita/kitano.jpg" alt="" /></p>
<p><span>第4話●</span><br />
<span>北野</span></p>
<p><span>脇田 修</span><br />
(62期・大阪大学名誉教授/文学博士)</p>
<ul> 校名の元になった地名は、明治35年(1902)4月、堂島から北野に移ったことです。もともと北野というのは、大坂の北部一帯を広くさしており、現在 大阪市北区や大淀区の相当部分がそれにあたります。室町時代の寛正2年(1461)の崇禅寺領目録に北野村が見えますから、早くからの地名であったと思わ れます。崇禅寺というのは、阪急京都線の駅もありますが、当時は大坂北部に多くの所領をもっていた寺院でした。また北野圧という荘園もあり、京都の賀茂神 社の摂社である河合神社が知行していました。近世では大坂三郷の外で、曾根崎村のまだ北になるため、ほとんど民家もなく、三番・下三番・光立寺などの村や梅田三昧と呼ばれた墓地があるだけでした。 溝川の多い湿地帯で、田圃が広がり、春には菜種が咲いていました。今は賑やかになりました茶屋町は、菜種の花見のために鶴の茶屋・萩の茶屋などがあったと ころから、町名がついています。</p>
<p>明治7年に大阪駅ができ、明治22年には新橋ー神戸間が開通するなかで、駅付近は開けはじめ、梅田東小学校のあるところには凌雲閣という九層の遊楽場ま でできました。さらに明治38年には阪神電鉄、明治43年には箕面有馬電鉄(阪急電鉄)が開通し、梅田は大阪の北のターミナルとなりました。そして阪急電 鉄のすぐ西側は民家ができていましたが、さらに西の湿地であった大深町は貨物駅となっていました。ちなみに敗戦時は北野中学二年生でした私たちは勤労動員 で、ここで大豆を袋に詰める作業をしていました。</p>
<p>北野中学があったのは、現在の芝田町2丁目です。阪急電車で梅田を出て十三へ向かうと、中津駅の手前の西側に済生会中津病院が見えますが、ここが北野中 学の旧地です。明治44年の地図で見ますと、北野中学の校地は、寺院をはさんで、阪急電鉄にほぼ接するようにあります。やがて阪神北大阪線ができて、北側 が削り取られ、現在の景観に近くなったようです。</p>
<p>済生会病院は北野中学が十三に移転したのち、その跡地に建てたものです。済生会は明治天皇の下賜金150万円を基にして、貧しい人たちのために医療をお こなう目的でできた財団です。そして大阪紡織物株式会社などを創業した嘉門長蔵・コト夫妻が、私財100万円を財団に寄贈して中津病院を建設したのでし た。院内には、今も夫妻の胸像が立っています。</p>
<p>なお当時の中津には梅花女学校や萩の寺があり、なによりも北野中学出身の天才画家佐伯祐三が生まれた浄土真宗光徳寺がありました。</ul>
<p><span> Last Update : Dec.23,1997</span></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?feed=rss2&amp;p=12</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>北野高校にちなむ大阪の歴史</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=10</link>
		<comments>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=10#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 14:34:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の歴史]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=10</guid>
		<description><![CDATA[
第3話●
常安町
脇田 修
（62期・大阪大学名誉教授/文学博士）
 今まで校歌に従って述べて来ましたので、少し抜けたことがあります。実は難波御堂から堂島へと移る前、明治10年6月からは中之島常安町にあって、大阪 府第一番中学校といい、同12年に府立大阪中学校と改称しています。そのあと所属の変化などはありましたが、明治16年、堂島浜通三丁目に移って、堂島中 学校となったのでした。そして明治35年4月、堂島から北野へ移って、ここに府立北野中学校が誕生しました。　常安町時代は6年程ですが、中学校としては 最初の時期になります。第一番中学校・大阪中学校とあるように、府立の最初の中学校です。そのあと他にも中学校ができたこともあって、堂島中学校・北野中 学校といった地域名がついたのでした。ちなみに大阪では始めこそ第一番中学校といいましたが、あとは府立一中といった番号の付いた呼称を使いませんでした.京都・神戸・東京などでは番号が付 いていました。そして東京では四中が進学率も高く良い学校といわれましたが、他地域ではどうしても一中が良いということになり、序列を意識させました。大 阪では地域名を学校名にしたことによって、各地域に特色のある名門校ができているのは周知のことですが、それはひとつの見識でした。それはそれとして北野 高校は大阪の第一番中学校の後身であり、大阪で最初の中学校という歴史をもっています。
さて常安町付近は、今は吹田に移転しましたが、近年まで大阪大学本部や医学部・歯学部があったところです。さてこの町名は淀屋の三代常安に因んだもので す。淀屋は山城の淀または八幡の出身といわれますが、近世前期、日本一の豪商といわれ、肥料になる干鰯、材木の営業権を幕府に認められ、京橋に青物市場を 開いたりしました。また大名貸なども破約からおこない、巨大な富を蓄積しました。辰五郎を通称としていますが、三郎右衛門広当(ひろまさ)の代に、将軍綱 吉の幕府により欠所すなわち財産没収となりました。淀屋橋を架けたことは知られていますし、御堂筋から西へ入る淀屋小路が残っています。
さて常安町には分家で常安町家といわれた淀屋善右衛門家がありましたが、今も常安橋が残って、往時を偲ばせています。近世ではこの付近は広島・久留米・ 明石など各藩の蔵屋敷が並んでいました。大川筋で輪送の便も良かったからです。
近代には、大阪中学校がおかれたのでしたが、また大阪女学校のちの大手前高等女学校(大手前高等学校の前身)もありました。大阪大学も移転して、あとは まだ開発が終わっていませんが、新たな文教地区となることを願っています。
 Last Update : Nov.23,1997
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="../../../../home/column/wakita/jouan.jpg" alt="" /></p>
<p><span>第3話●</span><br />
<span>常安町</span></p>
<p><span>脇田 修</span><br />
（62期・大阪大学名誉教授/文学博士）</p>
<ul> 今まで校歌に従って述べて来ましたので、少し抜けたことがあります。実は難波御堂から堂島へと移る前、明治10年6月からは中之島常安町にあって、大阪 府第一番中学校といい、同12年に府立大阪中学校と改称しています。そのあと所属の変化などはありましたが、明治16年、堂島浜通三丁目に移って、堂島中 学校となったのでした。そして明治35年4月、堂島から北野へ移って、ここに府立北野中学校が誕生しました。　常安町時代は6年程ですが、中学校としては 最初の時期になります。第一番中学校・大阪中学校とあるように、府立の最初の中学校です。そのあと他にも中学校ができたこともあって、堂島中学校・北野中 学校といった地域名がついたのでした。ちなみに大阪では始めこそ第一番中学校といいましたが、あとは府立一中といった番号の付いた呼称を使いませんでした.京都・神戸・東京などでは番号が付 いていました。そして東京では四中が進学率も高く良い学校といわれましたが、他地域ではどうしても一中が良いということになり、序列を意識させました。大 阪では地域名を学校名にしたことによって、各地域に特色のある名門校ができているのは周知のことですが、それはひとつの見識でした。それはそれとして北野 高校は大阪の第一番中学校の後身であり、大阪で最初の中学校という歴史をもっています。</p>
<p>さて常安町付近は、今は吹田に移転しましたが、近年まで大阪大学本部や医学部・歯学部があったところです。さてこの町名は淀屋の三代常安に因んだもので す。淀屋は山城の淀または八幡の出身といわれますが、近世前期、日本一の豪商といわれ、肥料になる干鰯、材木の営業権を幕府に認められ、京橋に青物市場を 開いたりしました。また大名貸なども破約からおこない、巨大な富を蓄積しました。辰五郎を通称としていますが、三郎右衛門広当(ひろまさ)の代に、将軍綱 吉の幕府により欠所すなわち財産没収となりました。淀屋橋を架けたことは知られていますし、御堂筋から西へ入る淀屋小路が残っています。</p>
<p>さて常安町には分家で常安町家といわれた淀屋善右衛門家がありましたが、今も常安橋が残って、往時を偲ばせています。近世ではこの付近は広島・久留米・ 明石など各藩の蔵屋敷が並んでいました。大川筋で輪送の便も良かったからです。</p>
<p>近代には、大阪中学校がおかれたのでしたが、また大阪女学校のちの大手前高等女学校(大手前高等学校の前身)もありました。大阪大学も移転して、あとは まだ開発が終わっていませんが、新たな文教地区となることを願っています。</ul>
<p><span> Last Update : Nov.23,1997</span></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?feed=rss2&amp;p=10</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>北野高校にちなむ大阪の歴史</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=8</link>
		<comments>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=8#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 14:33:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の歴史]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=8</guid>
		<description><![CDATA[
第2話●
堂島界隈
脇田 修
（62期・大阪大学名誉教授/文学博士）
 堂島が開けますのは、近世に入ってからです。堂島川に面した土地なので、元禄年間に堂島新地が認められたことによります。徳川幕府は大坂の発展のため に、新地造営を奨励します。曽根崎新地や安治川口新田などがそうです。そして新地の繁栄のために、家役を免除したりしますが、堂島新地にはお茶屋125株 を認め、茶立女・茶汲女という名目で遊女を置かせたのです。幕府は治安管理の上から、遊廓の場所をさだめ、江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町などに限り ました。ですから他の場所には遊女はいない建前ですが、新地には別の名目で遊女を置くことを認めたので、近松門左衛門は「新色里」といっています。なお彼 の名作「曽根崎心中」は、梅田新道の近くの露天神社(俗にお初天神)の境内で亡くなったお初・徳兵衛の心中を劇化したものですが、お初は堂島新地の天満屋 の抱え遊女でした。また風呂屋を認め、芝居小屋も二軒許可していました。その後は曽根崎新地と堂島新地は一緒になって発展しています。堂島で忘れることのできないのは、ここに米相場が立ったことです。近世前期では京都と大坂がならび立っていましたが、西廻航路がひらけて、日本海側の物 資が直接に大坂へ送られるようになるとともに、大坂は「天下の台所」といわれました。全国から年間130～40万石の米が入荷して取引きされました。はじ めは淀屋辰五郎で知られた淀屋橋辺で相場がたったといいますが、それが堂島に移りました。堂島川に面して、水運の便に恵まれていたからです。
大坂に、これほど多量の米が入荷したのは、産業都市として経済基盤にすぐれており、また金融業が発達していて、大名が借銀の返済や利息に年貢米を当てた からでした。ここでは延売買といって、現物だけでなく、手形による空米相場も行なわれ、それが全国の米穀取引の基準となりました。享保改革をおこなった八 代将軍徳川吉宗は、領主財政の維持のため、米価操作をおこない米公方といわれましたが、その操作の中心となったのが、この堂島米市場でした。そして近代で も米穀取引所として受け継がれ、旗振り通信で相場を伝えたなどの話を残しています。
さて、堂島付近には各藩の蔵屋敷がおかれ、経済的な事務を取り扱いました。北野中学は旧豊前・中津藩蔵屋敷を修理して移転したのですが、ここは近代の思 想家福沢諭吉が生まれたところとして知られ、現在、生誕の地の碑が建っています。町人の都大坂で生まれ、北浜の緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだことが、福沢 の思想形成に意味をもったことは明らかです。そして近代には商工会議所などがあり、近年まで大阪大学医学部付属病院がありました。
 Last Update : Oct.23,1997
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="../../../../home/column/wakita/dojima.jpg" alt="" /></p>
<p><span>第2話●</span><br />
<span>堂島界隈</span></p>
<p><span>脇田 修</span><br />
（62期・大阪大学名誉教授/文学博士）</p>
<ul> 堂島が開けますのは、近世に入ってからです。堂島川に面した土地なので、元禄年間に堂島新地が認められたことによります。徳川幕府は大坂の発展のため に、新地造営を奨励します。曽根崎新地や安治川口新田などがそうです。そして新地の繁栄のために、家役を免除したりしますが、堂島新地にはお茶屋125株 を認め、茶立女・茶汲女という名目で遊女を置かせたのです。幕府は治安管理の上から、遊廓の場所をさだめ、江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町などに限り ました。ですから他の場所には遊女はいない建前ですが、新地には別の名目で遊女を置くことを認めたので、近松門左衛門は「新色里」といっています。なお彼 の名作「曽根崎心中」は、梅田新道の近くの露天神社(俗にお初天神)の境内で亡くなったお初・徳兵衛の心中を劇化したものですが、お初は堂島新地の天満屋 の抱え遊女でした。また風呂屋を認め、芝居小屋も二軒許可していました。その後は曽根崎新地と堂島新地は一緒になって発展しています。堂島で忘れることのできないのは、ここに米相場が立ったことです。近世前期では京都と大坂がならび立っていましたが、西廻航路がひらけて、日本海側の物 資が直接に大坂へ送られるようになるとともに、大坂は「天下の台所」といわれました。全国から年間130～40万石の米が入荷して取引きされました。はじ めは淀屋辰五郎で知られた淀屋橋辺で相場がたったといいますが、それが堂島に移りました。堂島川に面して、水運の便に恵まれていたからです。</p>
<p>大坂に、これほど多量の米が入荷したのは、産業都市として経済基盤にすぐれており、また金融業が発達していて、大名が借銀の返済や利息に年貢米を当てた からでした。ここでは延売買といって、現物だけでなく、手形による空米相場も行なわれ、それが全国の米穀取引の基準となりました。享保改革をおこなった八 代将軍徳川吉宗は、領主財政の維持のため、米価操作をおこない米公方といわれましたが、その操作の中心となったのが、この堂島米市場でした。そして近代で も米穀取引所として受け継がれ、旗振り通信で相場を伝えたなどの話を残しています。</p>
<p>さて、堂島付近には各藩の蔵屋敷がおかれ、経済的な事務を取り扱いました。北野中学は旧豊前・中津藩蔵屋敷を修理して移転したのですが、ここは近代の思 想家福沢諭吉が生まれたところとして知られ、現在、生誕の地の碑が建っています。町人の都大坂で生まれ、北浜の緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだことが、福沢 の思想形成に意味をもったことは明らかです。そして近代には商工会議所などがあり、近年まで大阪大学医学部付属病院がありました。</ul>
<p><span> Last Update : Oct.23,1997</span></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?feed=rss2&amp;p=8</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>北野高校にちなむ大阪の歴史</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=6</link>
		<comments>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=6#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 14:33:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の歴史]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=6</guid>
		<description><![CDATA[ 第1話●
「その昔、難波御堂に堂島に」
 脇田 修
（62期・大阪大学名誉教授/文学博士）
 御承知のように、北野高校には『北野百二十年』という立派な校史が刊行されていますので、学校の歴史はおきまして、ここでは北野高校にちなむ土地の歴史 を話します。さて北野高校は、明治6年(1873)難波御堂につくられた欧学校にはじまり、集成学校などの経過をへて、明治16年(1883)に創立された大阪府立 大阪中学を起点としています。
 この難波御堂は、浄土真宗大谷派本願寺(東本願寺)の大阪別院です。俗に南御堂といわれ、本派本願寺の北御堂とともに、大阪のメイン・ストリートである 御堂筋を形成しています。よく知られていますが、本願寺八世蓮如が「生玉の庄内大坂」に坊舎を営んだのが、大阪の地名が記された最初で、天文元年 (1522)本願寺が移ってきて、寺内町が発達します。ついで豊臣秀吉によって城下町大坂の建設がなされました。この時期、慶長3年、教如上人は大坂に大 谷本願寺を造営しますが、その後、京都へ本願寺は移り、そのあとが難波御堂として残ったのでした。これが北野中学の最初の場所になります。
このように大坂は、戦国時代に一向宗の本山である本願寺から開けた土地で、これを大坂本願寺といいます。はじめ坊舎をつくったさい、建築素材になる石が 出てきたので、仏の加護だとして石山と呼んだという話が残っていて、通称、石山本願寺といいますが、大坂本願寺が正式の呼称です。この石は、おそらく難波 宮の石であったと考えています。この一向宗の勢力は強くて、大坂本願寺は織田信長を相手にして十年を越える戦闘をやりましたし、また大坂近郊には八尾・久 宝寺・摂津富田・富田林・貝塚・今井など一向宗寺院の境内都市つまり寺内町として成立した都市が多いのです。
それから堂島に移りました。大川のなかの島が起こりでしょうが、堂島の名については諸説あります。四天王寺のお堂を造るための材木を置いた、薬師堂が あった、また鼓の胴の恰好をしていたから胴島、堂島になったとか、さまざまいわれています。
ただ地名は古く、堂島の初見は室町時代にさかのぼります。阪急京都線は十三から南方・崇禅寺・淡路へとまいりますが、この崇禅寺駅の由来は、室町時代に は栄えた寺院です。寛正2年(1462)寺領目録によりますと、大坂の北部一帯に領地を持っていまして、そこには堂島を含めて曽根崎・福島・十三・国分な どの地名が出ています。
なお、私は曽根崎小学校の出身ですが、曽根崎も目録に出ていて、特におもしろいのは、そのなかに「埋田之内、角田」という肩書の付いた田地があることで す。現在の梅田は、元は埋田といったが、感じが良くないので、植物の梅に変えたという伝承がありますが、それを裏付けていますし、阪急電鉄本社のある角田 町の地名の初見です。
 Last Update : Sep.23,1997
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span> 第1話●</span><br />
<span>「その昔、難波御堂に堂島に」</span></p>
<p><span> 脇田 修</span><br />
（62期・大阪大学名誉教授/文学博士）</p>
<ul> 御承知のように、北野高校には『北野百二十年』という立派な校史が刊行されていますので、学校の歴史はおきまして、ここでは北野高校にちなむ土地の歴史 を話します。さて北野高校は、明治6年(1873)難波御堂につくられた欧学校にはじまり、集成学校などの経過をへて、明治16年(1883)に創立された大阪府立 大阪中学を起点としています。</p>
<p><img src="../../../../home/column/wakita/namba-mido.jpg" alt="" align="LEFT" /> この難波御堂は、浄土真宗大谷派本願寺(東本願寺)の大阪別院です。俗に南御堂といわれ、本派本願寺の北御堂とともに、大阪のメイン・ストリートである 御堂筋を形成しています。よく知られていますが、本願寺八世蓮如が「生玉の庄内大坂」に坊舎を営んだのが、大阪の地名が記された最初で、天文元年 (1522)本願寺が移ってきて、寺内町が発達します。ついで豊臣秀吉によって城下町大坂の建設がなされました。この時期、慶長3年、教如上人は大坂に大 谷本願寺を造営しますが、その後、京都へ本願寺は移り、そのあとが難波御堂として残ったのでした。これが北野中学の最初の場所になります。</p>
<p>このように大坂は、戦国時代に一向宗の本山である本願寺から開けた土地で、これを大坂本願寺といいます。はじめ坊舎をつくったさい、建築素材になる石が 出てきたので、仏の加護だとして石山と呼んだという話が残っていて、通称、石山本願寺といいますが、大坂本願寺が正式の呼称です。この石は、おそらく難波 宮の石であったと考えています。この一向宗の勢力は強くて、大坂本願寺は織田信長を相手にして十年を越える戦闘をやりましたし、また大坂近郊には八尾・久 宝寺・摂津富田・富田林・貝塚・今井など一向宗寺院の境内都市つまり寺内町として成立した都市が多いのです。</p>
<p>それから堂島に移りました。大川のなかの島が起こりでしょうが、堂島の名については諸説あります。四天王寺のお堂を造るための材木を置いた、薬師堂が あった、また鼓の胴の恰好をしていたから胴島、堂島になったとか、さまざまいわれています。</p>
<p>ただ地名は古く、堂島の初見は室町時代にさかのぼります。阪急京都線は十三から南方・崇禅寺・淡路へとまいりますが、この崇禅寺駅の由来は、室町時代に は栄えた寺院です。寛正2年(1462)寺領目録によりますと、大坂の北部一帯に領地を持っていまして、そこには堂島を含めて曽根崎・福島・十三・国分な どの地名が出ています。</p>
<p>なお、私は曽根崎小学校の出身ですが、曽根崎も目録に出ていて、特におもしろいのは、そのなかに「埋田之内、角田」という肩書の付いた田地があることで す。現在の梅田は、元は埋田といったが、感じが良くないので、植物の梅に変えたという伝承がありますが、それを裏付けていますし、阪急電鉄本社のある角田 町の地名の初見です。</ul>
<p><span> Last Update : Sep.23,1997</span></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?feed=rss2&amp;p=6</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>六稜・大阪学講座</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=3</link>
		<comments>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=3#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 14:30:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[大阪の歴史]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?p=3</guid>
		<description><![CDATA[北野高校にちなむ大阪の歴史
脇田　修
（62期・大阪大学名誉教授/文学博士）
 第5話●十三
第4話●北野
第3話●常安町
第2話●堂島界隈
第1話●「その昔、難 波御堂に堂島に」
 Last Update : Apr.30,1999
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span>北野高校にちなむ大阪の歴史</span></p>
<p><span>脇田　修</span><br />
（62期・大阪大学名誉教授/文学博士）</p>
<ul> 第5話●<a href="./?p=6">十三</a><br />
第4話●<a href="./?p=8">北野</a><br />
第3話●<a href="./?p=10">常安町</a></p>
<p>第2話●<a href="./?p=12">堂島界隈</a><br />
第1話●<a href="./?p=15">「その昔、難 波御堂に堂島に」</a></ul>
<p><span> Last Update : Apr.30,1999</span></p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.rikuryo.or.jp/series/osakagaku/wp/?feed=rss2&amp;p=3</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
	</channel>
</rss>
