六稜NEWS-090801
併設展の様子
六稜トークリレー【第67回】
「針目に込めた女たちの哀しみ」森南海子さん@64期

reporter:黒田悠紀子さん@69期

2009年8月1日、北野高校の六稜会館に着くと、入口から人が溢れていました。同窓生だけでなく、新聞報道で知った一般の人もたくさん来られたようです。

 1階ロビーには、日本列島の形に並べられた机の上に、千人針の実物が誰でも手にとって見られるように並べられています。森さんが全国を訪ね歩いて、その持ち主に会い、お話を聞いて受け取ってこられた大切な物ばかりです。どれも黄ばんで、汗や血がにじんでおり、破れてぼろぼろのものもありますが、戦地に向かう人の母や妻、姉妹、恋人たちが必死で集めた千人の針目が集まっています。私は、目の前にある千人針にそっと手を触れながら、この持ち主が生還されたからこそここにあるのだと自分に言い聞かせるうちに、この背後には、何千何万という、戻ってこなかった千人針があることに思いが至り、こみあげてくるものを抑えることができませんでした。

 3階ホールでのトークは、2時から始まりました。

「私は北野にはちょっとこだわりを持っていまして、卒業以来2度と来ることはないと誓っていたのですが、今回、とうとう来てしまいました」「卒業式の前日、先生が、明日はどんな服装で来てもいいよと言われましたので、真っ赤なドレスに真っ赤な靴で登校しましたら、みんな何時もの紺色の服を着ていましたの。裏切られた!という思いを、ずーっと今日まで引きずってきました」。学生時代の思い出話に、どっと笑い声が起こり「ああ、個性の強い方なんだ」という空気が場内に漂います。
 服飾に興味を持ち、応募して海外に研修に行った時も、華美なファッションに興味はなく、独りで庶民の暮らしを訪ね歩き、生活に根差した“繕い”や“仕立て直し”の文化を学んだこと、仕立てたものをほどくことから、着やすさ、動きやすさを考えだしたことなど、「リ・フォーム」の原点を語られたあといよいよ本題に入りました。

刺し子の野良着
「そのころ私は“仕事着”探しに熱中していました。」スクリーンには分厚い刺し子の野良着が映しだされ、続いて一枚の千人針の写真に変わります。
「さらし木綿に赤い木綿糸を使って“返し縫い”で縫われたこの千人針は、私に千人針も地方によっていろいろあるということを教えてくれました。」
大阪では、玉結びを千個こしらえていくのが普通で、小学生であった森さんも、街頭で駅頭で、何針も刺した記憶があると話されます。「針の周りにくるくると糸を巻きつけたあと針を抜いて玉結びを作る……ほとんど上の空で刺した千人針でしたが、これを身につけて戦地に赴いた人とその周りの人々の過酷な運命を知るにつけ、何も考えずに一針を縫ってしまった悔恨の情が、私を千人針を訪ねる巡礼のような旅に駆り立てたのでした。」

森さんが休憩も取らずに話し続けられた、お話のいくつかを紹介しましょう。

グリーンの上にピンクの玉結び
photo:NODERA Yuko
【グリーンの上にピンクの玉結び】「鮮やかなグリーンで“武運長久”と書かれた字の上にショッキングピンクの刺しゅう糸で刺された玉結びが並ぶこの千人針は、南の島に旅立つ人に18歳の恋人から贈られたものです。皮肉な運命は、特攻隊出撃が突然中止となり、青年は終戦で生還します。けれど、“再会”を考えない別れをした二人が元の間柄に戻ることはありませんでした。」

バイヤス仕立ての千人針
photo:NODERA Yuko
【バイヤス仕立ての千人針】焼津の海の男金作さんは、召集を受けることが度々で「来ちゃまた往っちゃばかり」。「妻かねさんの母が小幅の布を斜めに継いで作った千人針は、バイヤスゆえにしっかり巻きつき、貫通銃創を負ったときには、野戦病院までの道のりを、血止めの役割を果たし命を救ったのです。」けれど、軍を離れて一人で歩いたこと、途中出会った敵兵を殺さなかったことが軍の恥だからと、言っちゃならぬこととしてずーっと秘められてきたということです。

入隊の日が終戦
【入隊の日が終戦】「写真を見てお分りのとおり、この方は私よりも小柄です。そのために、なかなか出征の日が来ませんでした。戦争は人の体に甲・乙・丙と差別をつけたのです。早くお国のために役に立ちたい・・。千人針はこの方にとって“あこがれ”でもあったのです。ついに召集令状が来て、8月15日に出征。けれど、待機ののち帰還命令がでます。「これが自分にとってよかったのだと分かるまでには、ずいぶん時間がかかりました」と話されました。」

【小麦畑にローラーかけた】「北海道の開拓民だった市川さんの千人針は、病身の実母に代って“魚屋のかあさん”が慌ただしい仕事の合間に作ってくれたものでした。」出征した北支での仕事は、青々とした小麦畑にローラーをかけて飛行場を作ることでした。「農耕の苦労を知る市川さんはどんな気持ちで中国の農夫たちの耕地を潰していったのでしょうか。私は“魚屋のかあさん”の娘さんを尋ね当て、擦り切れた千人針を見せながら、市川さんがご恩を深く感じておられたことをお伝えし、いくらか気持ちを和らげたのでした。」

小学生でさえ何針も縫った千人針
 お話は、さらに続きます。千里を走るという虎が描かれた千人針。死線を越える5銭玉や、苦線を越える10銭玉が縫い付けられた千人針。武運長久の文字や針目の点々が印刷され百貨店で販売された千人針用の布地。帽子やチョッキの形の千人針など。スクリーンに次々映し出される千人針は、国全体の女や子供までが、催眠術にかけられたように戦争一色になっていったことを知らせます。戦地に送る慰問袋、その中に入れる手紙書き、そして、小学一年生でさえも、女性ということで何針も縫った千人針は、国民の心を一つにまとめあげるための魔術として利用されたのではなかったでしょうか。

 熱気のこもった会場から吐き出された私に、一緒に参加した友達の一人がつぶやきました。「私も、もっと母や祖父に話を聞いておけばよかった。千人針は帰って来なかったけれど。」……
 そう、彼女のお父さんは戦地から帰って来ることはなかったのでした。小学校から一緒の彼女に、お父さんがどこで戦死されたのか、私はまだ聞くことができないで今日まできています。森さんが、重く苦しい気持ちを抱きながらも、千人針の持ち主を訪ねて歩かれた勇気に、改めて尊敬の念を抱き、会場を後にしました。

Last Update: Aug.18,2009