われら六稜人【第48回】「日中の架け橋となって」

万里の長城を視察する日中国交正常化の一行
万里の長城を視察する日中国交正常化の一行
撮影:志甫溥(66期)

第4章
楽しくうれしい仕事

    その後も含めて日本関係の仕事をやるのは、私は大変楽しくうれしかった。自分の国は中国だけども、日本は第二の祖国であって、この二つの祖国の橋渡しの仕 事をするのですから。印象深いのは、周恩来さんが中日関係を非常に大事にしていたという点です。例えば、大事な文書を翻訳して外国の人に渡すでしょ。英 語、スペイン語、ロシア語、フランス語、ほかに日本語が入る。日本語は英語と同等ぐらいに重視していました。国交回復していないときからです。
    周恩来さんや廖承志さんは「日本は近隣で重要な国だ。しかし民族の溝が深い。民族の溝を埋めるのは非常につらい仕事だが、民族のパイプをなくすようなこと になったら大変だ。日本の仕事をしっかりやれ」と。また先輩たちは、「敗戦国民をいじめないことが平和の道である。日本にはなによりも友好的な態度であた るべきだ」としばしば語っていました。
    72年の国交回復の時の私は、田中角栄さんにつきっきりで、北京空港から同じ車に乗って人民大会堂まで連れてきました。万里の長城とか故宮とか、観光する ときは私がついて通訳をした。まあ、世話係ということになりますか。たしかにせかせか歩きの人でしたね。
    最近知ったんですが、当時田中首相に同行してきた日本の記者のなかに北野で2年下の志甫溥さん(その後TBS会長、現相談役)がいたそうです。

    文化大革命終わってからは、日本の政党と交流について、もっと広い範囲に広げるべきだと提案しました。一足飛びに自民党と交流するのは反発があるだろうか ら、まず社会党からいこうと。それで私が二年間ぐらい色々根回しをやったりして、1983年に日本社会党と交流関係を結んだんです。石橋委員長の時代です ね。
    登へんにおおざと小平さんの時代の「改革開放」政策が始まる と、党の交流範囲をもっと広げて、相互理解と平和の確立に役立たせるべきだと考えて、大胆に政権党との交流を実現させた。1985年から2年間は日本大使 館に駐在しました。当時、たくさんの代議士とお会いしましたが、ある議員の秘書として同行していた78期の堀内憲治さんとお会いしていたんですってね。こ れも最近知りました。78期といえば、NHKアナウンサーの木村知義さんとは何回もお会いしました。最初はお姉さんと知り合いだったんです。彼が後輩だと いうことも最近までまったく知りませんでした。世間は狭いもんですな。中国大使をつとめられた中江要介さん(53期)とは、日中関係のいろんな会合でお会 いしているうちに、先輩ということがわかりました。

Update : Dec.23,2001

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