われら六稜人【第47回】「スタンダード・プラス・ワン」

大学時代
大学時代、図書館通いをするうち
奥さんと知り合った

第2簡
敗戦で東洋史へ

    東洋史をしようと思ったのは、敗戦がきっかけです。歴史やろうと思ったのは中学3年生ですがね。その時はちょうど戦争が始まった時で、それから、皇国史観 の教育ばっかりでしょ。私は歴史をするにしても、江戸の終わりの思想史のようなもの、維新の志士とか、そういうのをやろうと思ってたんです。ところが高等学校入って、1学期だけ授業で、2学期から動員にいって、池田のダイハツに行った。それで、みんながあっちこっち行ってますから、日本史の好 きな者が歴史の先生の所に月に一ぺん寄って輪読会をやった。その時に吉田松陰の『講孟余話』というのを読んだんです。ところが、わからへんのやなあ。つま りね、陣中報告とか、討ちてしやまんとかいう話になったら、そんなもんはわかる。ところが、なんで松陰がこう言うのかというのがわからんかった。
    おかしいな、なんでかなと疑問に思ってたんやけど、よく考えたら、『講孟余話』というのは、松陰が孟子を講義してそこから脱線して話をしてるから余話なの に、こっちは孟子を知らないで読んでいるからね。僕らの子供のころの、いわゆる皇国史観が華やかであったころは、吉田松陰というのは日本主義と言うのか な、そういうふうな人のチャンピオンとして取り扱われていたわけだけど、その松陰の思想の背景の中に孟子というものがある、こっちは孟子を読んでへん。こ れではわかるはずない、これはアカンな、いうことがわかって、吉田松陰を理解するならば中国の古典を知らないではいけないのではないか、というあたりに頭 が向いていたあたりで敗戦になったんです。

    実は、僕は昭和20年8月14日に入隊して、一週間で帰ってきたという経験があるんです。昭和20年に徴兵年齢に達したものは大正15年生まれの者で、昭 和2年生まれは簡閲点呼というものを受け、15年生まれについで赤紙が来た。2年分兵隊を集めて本土決戦をやろうとしたわけね。

    8月14日午後1時に中部第22部隊に入隊しました。中部第22部隊というのは、JOBKの南側にあったもと八連隊、今度大阪の歴史博物館ができたあの場 所、昔むかしは難波の宮のあった所です。営門を入った新兵は集められて、早速入るべき防空壕を指示された。その30分後から例の大阪城東側の砲兵工廠の ジュウタン爆撃ですわ。2時間余りも続いて、最後の爆弾が僕らの兵舎の端の棟に命中して何人かが死んで、僕はその隣の兵舎の防空壕に入ってた。その日の空 襲で、JRの京橋あたりに無縁の仏さんが多いのは、僕らを送りに来た人がそこで退避していて死んだからなんですね。
    それで、その翌日に玉音放送を聞いたんです。言うてはることの意味はよくわかりました。周りの連中はようわからんかったのでしょう、ぽかんとしてました。 確かにあのクラシックな文語体は学力がないと聞き取るのはむずかしいですからな。僕は、その前の8月10日ごろの新聞の社説に「承詔必謹」という論説が出 たのを見て、何か詔勅のような形で戦争が終わるだろうと感じていたのです。

    とにかく、歴史の転換期にいきなり出会ってしまった。そしたら、今までの価値観が全部反対になったでしょ。僕らの小学校・中学校の時代は、たとえば中学校 の入学試験が日本史の試験だけという時代で、その歴史は皇国史観というウルトラ・ナショナリズムの教育で育ってきた。日本は負けないと言っていたのが負け たでしょ、負けないと教えていたのに負けたという事実は何だったのか、これは難問でっせ。しかも負けない言うてたのに負けたという現実は教師にも生徒にも 来ている。教師もわからん、生徒ももちろんわからん。それがひとつの混迷の理由ですね、あの時期の。その中で、孟子を読まなければ『講孟余話』だけ読んで 理屈を言っても始まらないという知恵、アメリカは言われていたような鬼畜ではないらしいという経験、そういうようなことが重なって、やはり世界のことを知 らなければならない、日本のことを知るには中国のことがわかっていないといけないと考えて、東洋史に行こうと決めたんです。

Update : Nov.23,2001

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