われら六稜人【第6回】4本の弦で紡ぐ音色は

終曲
帰国、そしてプロの修羅場へ

    リヨンの音大に受かって、まずアパートを探しました。それまでは贅沢も言ってられないので、先生の家に居候させていただいていたんですが。
    それから必要に迫られて料理も少しできるようになって…意外と独り暮らしは楽しかったですね。日本では手に入りにくい食材も、向こうではスーパーなんかで売ってたりして…。
    家計の管理というのも、それまでは自分でしたことのない経験でした。一番困ったこと、というか不思議だったのは、どのお店も…(レストランと飲み屋以外ですけど)…みんなが仕事から帰ってくる頃には閉まってるんです。これ で一体、向こうの人はいつ買い物をしたり、愉しんだりしているのか。不思議でしたね。百貨店などでは日曜日が定休日で…祭日、とりわけ勤労感謝の日などは 電車まで動かない。昨日まで大勢の人でごった返していた…大阪のミナミのような…大通りに、人っこ一人いなくなるんです。誰かの捨てたコカコーラの紙コッ プが、ヒューと風に吹かれてコロコロ転がっていく…そんな殺風景な印象でした。一斉にみんなが休むという習慣…あれには参りましたね。

    そんなリヨンに3年間滞在しました。音大は本来4年で卒業なんですが、僕は1年早く出られたんです。3年間、毎日…「音楽」を考えない瞬間というのはあり ませんでした。周りには美しい景色があって、食べ物もおいしくて…学校に行けば楽友がいつでもたむろしていて…まるで、常に「芸術にまとわりつかれてい る」というような感じで。これは「考えるな」と言われても「考えてしまう」というのが正直のところだったと思います。

    時々、創作の気分転換にビリヤードにはまって発散したり…(バイオリン弾き、というか一般に弦楽器の人はみな上手でしたよ。動きが似てるんでしょうか ね)…意図的に何も考えない時間を持つようにはしましたけれど。毎日が「芸術」に浸っている贅沢な感覚は、僕にとって3年間を非常に有意義なものにしたと 思いますね。

    それで…1年浮いた時間をパリで過ごしました。単に都会で暮らしてみたかった、というだけのコトだったのですが(笑)。その後、渡米してダラスの音大で助 手を勤めました。学生の数が多すぎて面倒みきれない…という教官の下で、本格的に2人ほど指導に当たりました。ただ、僕自身が学生ビザでの滞在でしたか ら、職業というよりはアルバイト程度だったのですが。

    そうして日本に帰国して、プロとしての活動を歩みはじめました。僕ら演奏家の舞台というのは…舞台の上で、大したトークするわけでもなくて、楽器を通じてメッセージを伝えるわけじゃないですか。それで、お客さんに幾ら かのお金を払って貰って、チケットを買って貰って、わざわざ聴きに来ていただいている。ですから、それに見合う…いや、それ以上の感動を持ち帰っていただ かなければいけないナと思っています。

    まだ駆け出しですからね。「どんな活動をしたい」とか「気に入った仕事は何か」とかいうよりも、まず誠意ある仕事を…人間的にフェアに生きて行きたいです よね。演奏会というイベントの成功が重要なのではなくて、レッスンの時間が大切なのでもなくて、やっぱり耳を傾けてくださる人々との対話があって、自分の 出す音(表現、主張)に一人でも多くの人に共感して欲しいと思うンです。そういったことを忘れないで、この仕事を続けていきたいと思います。

    もちろん苦労は多いと思います。自分の好きなことで飯を喰うわけですから、一流のホールばかりではなくて雑踏の中で演奏…ということもあるかも知れませ ん。けれど一度音を出し始めたら、それは作曲者に対しての責任というのもありますし、通りすがりの人の中にもやはり聴く耳を持った人は随分おられると思う んですね。却って音楽の知識がない、ずぶの素人の方のほうが感性は豊かなのです。
    演奏会では毎回アンケートを取りますが、得てして、そういう結果は如実に現れてきます。そういう…ナァナァではない「修羅場」をどれだけくぐり抜けられるか…これは自分との戦いなんだと思います。

    2月からバイオリン教室を開きます。そこで、下は子供さんから上は京都芸大の学生まで…教えることになっています。 ダラスでの経験が活かせるわけですね。一方でそうした安定収入の道は確保しつつ、常に自分の技に磨きをかけて、プロの演奏家としての厳しい道程を精進して 行きたいと考えています。どうかみなさん応援してください。

Update : Feb.23,1998

ログイン