われら六稜人【第45回】「養生こそ至上の処方なり」

藤岡さんの現在の写真藤岡さんの高校時代の写真第1診察室
ピカソと呼ばれて

    明石で生まれたんですね、戦争中だったので、おやじが、いわゆる徴用に取られて、飛行機を造る工場で働かされとったんです。戦争が激しくなって、おふくろ の郷里、三重県の鈴鹿へ疎開をしました。結局、元々おやじが働いていた大阪へ出てきたのです。それは4歳か5歳だったでしょうかね。ですから、これからは 覚えているのですが、疎開している時の記憶も何もないのです。
    小学校へ入るまでに腎炎をやって、その後栄養足らなんで、結核をやって、一応、結核も初期の段階で何とか治って、それから小学校へ入ったんです。ずっとよ く風邪をひく方でしたしね、風邪ひいたら結核が再発したんちゃうかということで、レントゲンばかり、よう撮られたんですよ。このことが医者になるきっかけ になったのですが。

    藤岡さんの小学校時代の写真

    当時は不衛生だったのでしょうね。頭に「シラクモ」と呼ばれるものが出来やすかったのです。白うなってかゆいんですよ、これ一種のかびやからね。治りにく いんですけども。いわゆる水虫みたいなものが頭にできるんですね。
    それからもう一つは太股とか、お尻とか、頭にも結構芯の深いおできができるんですよ。あれ栄養失調ですよ、今から考えたら。それができると、深いから自分 で口開いて膿が出ないんですよ。それで外科へ行って切ってもらわなくてはならないし、痛いんですよこれは。
    頭なんて切るでしょう。そうすると、後が禿げるんですよ。治ったら後ここの毛が抜けるんですよ。夏にできてね、秋に学校始まって行くと、2つ3つ禿げてる わけですよ。そういう学校時代があるんですよ。丸く大きく禿げているわけですな。だから嫌なものですよ子供心にね、あだ名がピカソ言うんです。ぴかっと 光っているから、子供の発想やからね(笑)。

    もう一つさっき言った白クモでね、軟膏を塗られたわけです、それでぴかっと光って、ポマード塗っているようなもんですから、丸刈りで軟膏塗ってね。それか らもピカソと言われたのですね。
    DDTの白い粉みたいな物を頭からシャツの中までやられました。ノミやシラミの時代やからね。大変な時代でしたね。泉尾北小学校の想い出です。

    藤岡さんの中学校時代の写真

    中学校は大正東いうとこやったんですけどね。今で言うところの3学区になっていたのです。だから高校は市岡なんですよ、しかし市岡が嫌でね。市岡高校いう のはあまりいい場所じゃないしね、建っている場所が。見に行ったら校舎も汚くてガラスも割れたりしていて印象悪かったんです。それでどっか行こうと思っ て、天王寺、大手前、北野と見に行ったわけです。北野が一番気に入ってね。あの頃、淀川のいい雰囲気でしたよ。入って行ったらテニスコートあったり、プー ルがあったりしてね、よかったんですよ。あの当事、越境入学の問題もありましたが、住所を移してね。米穀通帳いうのもらって、米の配給まで受けてという時 代でしたね。ちゃんとそこ住んでいるようにしてね。今なら許されなかったと思いますよ。でもね、本当は中学校で一番上に女の子がおったんですよ。僕は2番やったんです、クラスでね。一番上の女の子にどうしても勝てないのです。彼女は市岡へ行 きますから、それで僕は北野に決めたのです(笑)
    女の子おるからそっちへ行きたいんじゃなくて逆やったからね(笑)。その子のことは、その後の状況を、全然知らんのです。僕は、あきませんのですわ、過去 がわからんのですよ。過去を覚えていないんですよ。何かこう先の事ばっかり考える質なんかな。結局、5年先、10年先考えてやってしまうんですね、過去の ことはもうどうもあかんのです。

    藤岡さんの北野時代の写真

    家から北野までは遠いからね、僕らは通学も大変でしたよ。あの頃、環状線が繋がっていなかったんです。省線と呼んでいましたね。まず梅田に出るのはバスで すよ。何回も乗り継いで登校したものです。

    クラブ活動は、卓球をやっていました。それに、山岳部もやっていました。30キロの砂を背負って、階段上り降りとかそんなことやっていました。 僕ね、山岳部の時に蓬莱峡で練習したんですよね、岩登りですね、その時にね、一人落ちたんですよ、滑落したんですよね。それで血だらけになりおったんで す、擦り傷で。落ちたけど命綱あるからね、下まで落ちたわけではないんですが。ズルズルっと血だらけになって、僕は下におったんやけど、そいつ血だらけに なって上まで登ったんです。僕それ見てね。ああ、俺はようせんわこれは。それで山岳部をやめて卓球部に行ったんです(笑)。

    北野の先生では、やはり飯田先生。3年の時に担任でしたが、いい思い出がないんですよ。僕ね、どう言われたかというとね、阪大医学部受けると言ったでしょ う。「それは危ない、だから滑り止めとしてどこか受けるように」と。滑り止め言われても、受けたいとこがない。しかし、どうしても受けと言われて、京都府 立医大やったら受けると言ったのです。飯田先生は、そこだったら同じぐらいだから、受けんでもいいと。こう言うたわけです。これは覚えているんですね、 しっかりと(笑)。
    それで僕は阪大に合格してね、報告に行くでしょう。行ったら、たまたまおられなくて、これはええわと思って、メモだけ残してね。それっきり会わずですよ。 通りましたというメモだけ残してそれっきり会わずね(笑)。
    北野での想い出は、残念ながらこれくらいなんですよ。過去のことはもうどうもあかんのです。

Update : Aug.23,2001

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