われら六稜人【第42回】ワタシガラッキー

三の窯 現代陶芸市場の草分け

    私のような仕事はそれまでは売れる範疇ではなかった。売れるのは伝統的な工芸の世界のものに限られていたのです。それを売れる範疇に入れたのは、僕と ちょっと前の加守田章二さん、その辺じゃないかなと思うんです。ですから、後の若い人に伝統的な轆轤でない世界でも生きていけるという感覚を持たせた点で は、ちょっと功績があったのではないかなと思っています。当時人間国宝の藤本能道さんという藝大学長だった方が、色絵の仕事をされていて飛びぬけて売れていたのです。私は、その頃ちょっと考えがあって伝統工芸と いうところに出品しだしたのです。というのは伝統工芸の幅はこういうものと思われているけれども、時代として若い最近のものを伝統と言っているけれども、 縄文の影響をうけたものは伝統工芸の中に入っていなかったのです。しかし連綿としてその仕事はあるわけだから、私の仕事もその範囲にあるわけだから、それ なら自分の作品も広い意味で伝統工芸の中に入るのではないか…と。その頃ちょっと名前も売れ始めていたので、私が出すなら伝統工芸も範囲を広げてくれるだろうという相当あつかましい思いで出したら、その通りになった。で も、その組織の中に入ったら私なんか幕下みたいなものでした。藤本さんは横綱ですね。ところが販売の実績からいうと、横綱と幕下が同格になってしまったの です。一番先に売れるのはそのどちらかだと…。それは画期的なことだったと思います。40歳代に入った頃でしたね。今まで陶器の世界で考えられていた市場 性が変わったのです。お金を出して買おうという人が、それまで意識を持っていたけれど、その対象物がそこになかったということだと思います。それまでは絵 や他のものに意識を持っていた人が、陶器を買おうという接点に私がいたというわけです。そういう人は今までの伝統的な陶器には興味がなかったんですね。そ れまでは陶器の画商と、絵の画商とは全然違いました。絵の画商が陶器を扱うようになった最初の頃だと思います。


    伝統的工芸品産業振興協会のシンボルマーク

    芸術作品と市場性 今はまた状況が違ってきて、景気の後退で画商の世界はひどい事になっています。バブルの時には展覧会の前に泊まり込みで行列ができてしまったのです。業者 さんに頼まれたアルバイトの若い人までその中に混じっていました。何点か確保するためにね。この時期には業者は、特に画廊はお客が誰であるか作者に明かさ ないのです。最初の頃は個人的に買って下さった方と親しくなるのでわかりますが…回顧展では作品を集めるのに苦労しました。ある程度は個人のコレクターの 方から借りる事ができたのですが、バブルの時期のものについては画廊なりデパートなりの担当者に問い合わせて、集めるように頼んでもなかなか集まらず、所 有者がわかってもやはり出せないとか色々なケースがあって大変でした。昨年の信楽焼の展覧会では、最初の頃の個人のお客さんが来られて「おもしろいな あ。」と言って買って下さったのです。バブルの時にはそういう方たちは買えない状況だったんです。その方達とは今も交流があります。個人的なお付き合いで 親しくなったことが多いですからね。

    バブルの崩壊は、美術関係でもかなりの影響がありました。銀座でも次々画廊が撤退していく今日このごろです。アートの分野で、後にまで投資性にからむよう な残り方をしていく人は、相当限られています。どうにかあるラインに残る人が数人いて、あとはダァーっと下がってしまう。新しめの仕事をしている人達が、 それだけで食べていくのは難しいと思いますね。だから女性がふえてます。ダンナがかせいできてくれる…(笑)作家活動をしながら先生をやっているという人 も多いですね。 社会的な変化と創作と言う事はやはり密接な関係がありますね。今はむづかしいですね。ルネッサンスの昔から政治と文化は密接に結びついていますから。 バブルの時期には企業がその役割を果たしていたわけです。その企業のオーナーにどれだけ芸術的な意識があるかということと、作家がその時にどれだけの物を 創っていて、どれだけ有名だったかということ。建築家と造形作家の結びつきもそうですね やはり自分で作家としてやっていくためには、ある程度我慢というか強引でも自分のものを押していくということが必要でしょうね。あるラインにのるまで。 のってしまえば又次のチャンスが来る、それでまた上れるということはあるでしょう。そういう関係の人との人間的なつながりをどれだけ作れるかということも 必要だと思います。もっとも政治的なつながりだけで、何であんな人が取り上げられるの?、ということもありますけれどね。

Update : May.23,2001

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