われら六稜人【第40回】思えばコピーライターの走り


大阪コピーライターズクラブ新人賞を受賞(1965)

第5章
コピーライターへの道

    しばらく兄のやっていた会社の事務とか手伝っていたんですが、たまたま『宣伝会議』という雑誌がコピーライターの養成講座をするというのを新聞広告で見つ けたんです。そのころはまだコピーライターという言葉は知られてなかったですね。のちに職安に行って「コピーライターです」言うても分かってくれへん。 「何ですか、それ」と聞かれて「広告の文章書く仕事です」と言うと「シナリオライターみたいなもんでっか」とか(笑)。
    近所の人に「何やってはるの」と聞かれて、コピーライター言うたら「あれ大変やわね…機械の操作。紙が詰まるんでしょ~」とか(笑)。ゼロックスのことや と思ってはるの。いうてみたら、職業コピーライターの走りやったわ。
    電通入ってから聞いたら、昔は「文案家」いう言い方してたらしい。デザイナーがついでに文章も書いていたこともあったみたいですね。私も最初に新聞の広告 を見た時、コピーライターって何するんやろうと思ってね。電話かけて聞いたんです。それで広告の文章を書く仕事やってことがわかって、面白いんちゃうかな と思って。すぐ受けに行ったんです。7カ月ぐらい養成期間があって、毎月講義の最終週に課題が出るんです。これを提出して一番トップの人に優秀賞とか決めはるんですね。そんな中で私、卒業時 にトータルで最優秀賞をもらったんですよ。アホなことばっかし考える子やったからね(笑)。
    課題は、例えば「胃と肝臓の両方に効くという薬の15秒テレビコマーシャルを作れ」とかね。そういうのが出た。テレビコマーシャルあり、ラジオCMあり、 新聞広告あり、雑誌広告あり。いろいろ勉強になった。それでたまたま優秀賞をもらったら、就職斡旋というか、求人が三社あったんです。一つが広告代理店 で、後二つがメーカー。
    考えたんですけどね…メーカーの宣伝部に入ったら、そこの商品ばっかりやらなあかんでしょ。私、飽きるんちゃうかな…と思って(笑)。代理店やったらいろ んな仕事できるから、そっちのほうがええかなあと思ってね。それで行ったんですよ、大阪読売広告に。そしたら向こうは即戦力になる人材が欲しかったんです ね。私、7カ月間の研修を受けただけですからね。とても即戦力の自信なんかないでしょ。それで「もうちょっと勉強して、御社がまた募集しはった時に実力が ついてたら受けに来ます」言うて去ったんですよ。

    たまたま知り合いの小さな編集スタジオから「手伝いに来ないか」と声がかかって、しばらく勤務しました。朝早く行って、デザイナーの筆洗…白い瀬戸物製 の、筆を洗う小バケツやね…あれを全部洗ろうてね。出勤の時間になったらみんながすぐ仕事できるように。そんなことやりながら。
    そしたら、また大阪読広が社員募集しはったから「もう、ええやろう。一年、現場踏んできたし」思って(笑)。受けに行ったら覚えてはったんですよ。「あん た、1年前うちの会社蹴ったやんか」言われてね(笑)。「蹴ったん違います。こうこうです」言うて説明して…そしたらえらい気に入ってくれはってね。入れ てくれたんです。

    そこで半年ほど頑張ってやってたら、ある日、『宣伝会議』の養成講座の時に講師で来てはった電通のマーケティング局の局次長さんから電話があって「ウチに 欠員ができたけれど、あんた受けてみるか?」言われたんです。それで電通を受けたら、幸運にも入れたんですよ。それが30歳の時でした。

Update : Mar.23,2001

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