われら六稜人【第39回】がちゃぼいマンガ道

執筆中の手塚
撮影:岡原進(59期)

第5話
男子志を立てて東京へ出る

    僕はそれで東京へ来ましてマンガ家になったわけですが、ここでまた非常に困った。何が困ったかといいますと、大阪の人間というのはその頃(今から20何年 か前なんですけれど)バカにされる時代があったんですよね。非常に情けなかった。「大阪の人間」というより「大阪の文化人」といいますか…絵描きとか作家 とか芸能人とか、こういったものが東京のそういう人たちに迎え入れられない時代があったのです。
    僕がたまたま東京へ行きまして、東京のマンガ家と付き合いますと「なんだ、大阪のマンガ家が」と必ず言われるんですね。これは、今では考えられない事です ね。その頃には、東京と大阪は汽車に乗りますと11時間もかかりました。急行に乗っても9時間もかかりました。これくらいの長い距離の間を東京へ行くわけです から「東京へ出る」ということは…今でこそ隣へ行くようなもんですけど…その頃で言いますと「男子志を立てて」という一つの覚悟がなければ東京へ行けな かったわけです。
    したがって、僕も東京へ行くからには、東京でとにかくマンガで身を立てたいという気持ちで行ったわけなんです。けど、行ってみると、地方のマンガ家とか、 あるいは地方から出てきた人に対して冷たい目がある。今でも東京というところは街全体に冷たい雰囲気がありますよ。しかし、その頃には特に文化的仕事をし ている人間にとっては辛い場所だったんです。だから大阪からマンガ家が出て行って東京でマンガ家として名前を上げるなんてことは、おおよそ考えられなかっ たんです。

    皆さん、ご存じかどうか知らないけれど、南部正太郎という人が『ヤネウラ3ちゃん』というマンガを大阪新聞に描いていて(1946年頃)、これだったら東 京へ行ってもマンガ家として十分暮らせるだろうと思って東京へ行ったところが、非常にコンプレックスに陥りまして。また、大阪に帰って来て、ガッカリして しまったという話があります。
    僕もここまでいじめられるのだったら、とにかく大阪へ帰って来てしまおうと何度思ったか分からないわけです。それでもとにかく一応、最後まで粘ってみよう ということで粘ったところが、どうにかマンガ家の生活に入れたというわけですね。

Update : Jan.23,2001

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