われら六稜人【第38回】演劇の情熱…いま映画に

早稲田大学、自由舞台での記念写真
早稲田大学1年。自由舞台「どん底」で舞台監督助手を務める
記念写真の中には別役実(劇作家)、加藤剛(俳優)、鈴木忠(舞台演出家)らの顔も

シーン3
自由舞台、結婚そして
スクリプターの世界へ

    1959年(昭和34年)早稲田の演劇科に入ったといっても、劇団に入ったようなもんです。当時の早稲田は自由舞台と劇研で、私は自由舞台に。上級生に加藤剛さんがいて、当時から素敵な人でしたね。60年安保の前年で、自由舞台に入ってもすぐデモにいこうということになって、連れ出されました。60年のあの6月15日には私も国会に入りましたよ。捕 まりませんでしたけどね。大学の後半は、東大の劇研との交流がさかんで、ほとんどそこへ通っていました。当時、米倉斉加年さんが「青芸(劇団青年芸術劇 場)」という劇団を主宰していて、東大劇研が舞台公演に参加、協力したことがあります。

    私、大学1年のときに演劇仲間の学生と結婚して、大学4年のときに出産してます。63年に卒業して、それからは夫の実家の家業を切り盛りする生活になりま したが、夫は演劇ばかりで家庭は顧みず、28歳のときに子を残して家を出る形になりました。その時に米倉夫妻にお世話になり、斉加年さんに紹介していただ いて、民芸映画社で映画のさまざまな記録を担当するスクリプターの見習いをすることになりました。

    テレビドラマ『黒部の太陽』撮影完了時の記念写真
    スクリプターになって1年半(29歳)
    テレビドラマ『黒部の太陽』(監督:鈴木清順) 撮影完了を祝って

    その後、国際放映などをふくめスクリプター生活18年。とくにテレビ作品の『黒部の太陽』の鈴木清順監督が、人間的にも演出面でも印象に残っています。鈴 木監督の撮影初日、私は前作品のフィルム編集作業(ミックスといいます)から現場へ直行しました。すると「どっかで寝てなさい」とやさしく声をかけてくだ さった。もちろん、寝たりはしませんでしたよ。監督の演技指導に興味津々でしたから、映画作りにずいぶん影響を受けたと思います。スクリプターといって も、当時はまだ見習いでしたから、記録だけでなく、助監督のような仕事も、掃除からお茶の準備まで製作助手のような仕事もするんです。

    40歳位のとき、原ひさ子さんと共に
    スクリプター12年(40歳位)
    教育映画で原ひさ子さん(当時71歳位)と
    以後親交を結ぶ

    そんな私が自分で映画を作ろうと思ったのは1985年で、企画制作パオを設立しました。後に有限会社としました。このころ、アイドルといわれた少女タレン トの飛び降り自殺、東京・中野の中学生がいじめにあって「生きジゴク」と言い残しての自殺、テレクラをきっかけにした少女買う買春……胸の痛む事件が続き ました。私は再婚して36歳で男の子をもうけていましたが、この子が小学校でいろいろつらい目にあっていました。
    こういうときこそ命の重さを伝えたい、性とは生であり、共生であることを訴えたい、そんな思いから86年に『子どもたちへ…いのちと愛のメッセージ』という映画を作りました。その後『若人よ』『地球っ子』『わたしがSuKi』と続いて『老親 ろうしん』が5作目です。

    『わたしがSuki』撮影風景
    監督4作目『わたしがSuKi』撮影風景、狛江にて。57歳

Update : Dec.23,2000

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