われら六稜人【第37回】神の御手となりて

4度焼き
九死に一生を得て


南方○○戦線の朝ぼらけ~聖壽万歳を奉唱・軍旗に敬禮する第一線部隊
(昭和18年1月初旬の新聞切り抜きより/写真提供:南方軍報道部)
    レンバン島に集結させられて4ヶ月が経った。何もすることはなく、畑を耕して芋をこさえたりしてた。それが初めて収穫できる…という時分に「おまえ、帰っ ていい」と宣告された。比較的早いほうやった。それからアメリカ製のセメントでできたリバティ船に乗って帰って来たんや。所要10日間。往路は21日もか かったコースをたったの10日間で帰って来た。シンガポールへ来た時は、いくら何でも戦争の最中やからね。護送船団で、敵の攻撃をかわしながらジグザグに進むから21日もかかった。敵の潜水艦を発見す ると味方の駆逐艦が信号を出しよるねん。それで船団は一斉にジグザグや。だから前に進めへん。しかもそういう時はコンボイっちゅうて一番遅いやつにスピー ド合わすやろ。取り残されたアカンから。それで9ノットくらいかな。全然進まへんわ。それで時間が3倍かかったんやな。
    それでもサイゴン(今のホーチミン)の沖で何船沈められたか。潜水艦に仰山やられたんや。轟沈やで、ひとたまりもない。オレンジ色の火柱が数十メートルくらいあがって、それきり。もう跡形もない。魚雷っちゅうのはすごいよ。
    こっちも駆逐艦が7杯あって護衛してくれてんねんけど。あかんな、やられるねん。駆逐艦が走り回って爆雷を落としていくんや。夜になったら艦砲射撃してくる。滅多にあたらんけど、夜はきれいな花火にさえ見えた。
    こっちは普通の汽船やからな。1万トンくらいの貨物船やろ。それでも大砲を装備してて、撃ち返したけど、それも当たらんかったわ。

    で、その時の船に赤痢患者が2人乗っとったんや。船の中は全員赤痢。蔓延するんや。船長一人だけ…酒ばっかり飲んで飯食わへんかったから、彼一人だけ赤痢 にならへんかった。あと全部赤痢。赤痢いうても怖いよ。O-157と一緒や。脳に来るやろ。だから気違いになる。大声で呻いとるわけや。そら悲惨なもん や。この平和な時代からしたら考えられへん。仰山死んだよ。
    わしはまた不思議に助かったんや。シンガポールで入院してな。治療薬もあらへんから絶食や。それから下剤飲む。何回も下剤を飲まされて、それから炭の粉や。木炭の粉を飲まされる。それが菌を吸着して排出するわけ。それで治らん奴は死ね、というわけやな。
    ひどかったで。いやぁ、これは辛い。便所行ってキバってもな、出えへんねん何も。血が出るだけ。あとはリンパ液みたいなのばっかり。みんな舷側に並んでキバっとんねん。しぶきがばぁーっと飛んで、そこらじゅう赤痢菌だらけや。極限状態に近い。戦時中はそんなもんや。

    で、まぁ…ほうほうの体で復員した。リバティ号は名古屋港に接岸して、そこで新円で1,000円もろて、みんな故郷に帰るんや。どこまで行っても汽車賃はただや。「1,000円で好きなとこへ行け。あとは知らん」そういうことやった。

    幸い、わしの場合は親父が会社やっとったから、バッテリー屋で電気自動車なんかを製作してたから…そこへ転がりこんだ。「おまえは俺の後継ぎや。俺の仕事 を手伝え」とね。「よそへ行きたい」言うても行かしてくれへんかったよ。しゃあない。貧乏な会社でな。儲からへんねん、あんなもん(笑)。
    木村鉛鉄(木村化工機)いう会社があって、一部上場の企業やねんけど、そこの社長が親父の友達でな。うちに遊びに来て「君、うちに来てくれんか。月給 73,000円でどうかね」って誘惑しよる。その時、わしが親父から貰てた月給7,000円やで。10分の1や。「行きます、行きます」言うて二つ返事し たら、親父が目を三角にして怒りよった。「君は俺の息子を取るって言うのか?」激昂してた。弟も一緒や。「73,000円やったら、ボクも行く行く!」言 うたけど。結局、親父は許してくれんかった。あの当時の73,000円いうたら値打ちあったんやで(笑)。

Update : Nov.23,2000

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