われら六稜人【第37回】神の御手となりて

素焼き
ガキ大将も創造性

    1925年、もう四分の三世紀も前やな。高槻の服部っちゅうとこで生まれたんや。家は真上にあったんやけど、当時は珍しい洋館建てでな。みんながよく絵を 描きに来てた。まだあの頃は「高槻町」いうて、辺り一帯のどかな田園地帯やった。裏山でよく兵隊ごっこをして遊んだものや。昭和9年の室戸台風は今でも忘れられんな。芥川小学校の4年生で、わし一人だけ無傷で助かった。2階建てで、古い米材使てたんやな。だからひとたまりもな い。ベキベキ言うて2秒で天井が落ちてきた。わしはその2秒で机の下にパッと潜りこんだんや。この素早さ!それで命拾いした。
    女の子は「キャー、先生ーっ」いうて悲鳴をあげて走りまわってるんや。落ちてきた梁に打たれて、ようけ死んだんやで。可哀相にな。今でこそ予報というもんがあるけど、当時はそんなもん全然あれへん。想像もでけん。ただただ運が良かってんな。不思議なもんや。

    男の子の兄弟4人とも全員北野や。わし2番目やけど、二歳違いの兄貴は北中から京都府立医大へ行って医者になった。今も高槻で開業医してる。この兄貴の真 似して、わしも5年生で北中を受けたんやけど…国語かなんかですべってしもた。その時、5年で受けたやつが5人おって、皆仲良くすべったんや(笑)。一 応、次の年には皆揃って通ったけどな。
    成績も悪いけど、素行も悪かった。「行い」やな…操行「乙」っちゅうやっちゃ。悪いことばっかりしとった。ガキ大将や。

    うちは貧乏で自転車買うてくれへんかったんやけど、他人の乗ってきた自転車に乗ってな…乗りとうてしゃあなかったんやな…だーっと枚方から守口まで漕いで行ってさ。へとへとになって腹ぺこで帰ってきたら、女の子が泣いてんねん。「自転車どっか行ってしもた~」言うて。
    善悪の区別というもんが、あんまり分からんかったんやな。まったく盗る心算はないし、ちょっと借りるだけ…乗ってても良いもんや思うとったんや。我ながらどうも、うん、まずかったよな(笑)。
    それで立たされてな。職員室で、水を一杯に張った茶碗を両手に持たされて。1時間か…もっと立たされたかな。「ちょっとは性根治ったか」「はい、治りました」言うて。そんなんや、昔は。

    ガキ大将の務めは、みんなの遊びを考案することなんや。「今日は陸軍の戦争ごっこやろか」「今日は海軍式でやろう。おまえは哨戒艇、おまえは戦艦や」そん なふうに役目を割り振るわけ。みな、色の紐を持ってて、それで敵味方を識別して、捕まえに行くわけや。一種の鬼ごっこやな。捕まったら「撃沈」ということ や。そういう「決まり」「ルール」…「演出」を考え出すのがガキ大将の務めなんや。
    遊びを考え出さな、誰も付いて来えへんで。遊んでくれへん。「今日はどんな遊びをさせてくれるか…」みんな楽しみにしてるわけや。そこに創意工夫がいるわけやな。ガキ大将いうのは極めて創造的なシゴトなんやで(笑)。

Update : Nov.23,2000

ログイン