われら六稜人【第34回】妖怪へのいざない

高校2年の時、教室で

三板
挫折・不安・焦燥は青春の星のしるし

    自分はすごく勉強ができるんだって意識をずっと持ちつづけられる人って、北野ではあまりいないんじゃないでしょうか。僕も2年間浪人してるんですけど。高 校に入ってからは、勉強ができるという心境になったことはありません。テストの度に、赤点を心配するという感じでした。僕は中学校時代からそうですが、い ろんなことがある何パーセントかはずっと不安で、ある何パーセントかはずっと愉快なんですよ。今、思い返してみれば、それは切り離しては考えられない。だから振り返って完全にバラ色の青春を語るひとがいますが、僕の実感として、そういうのは嘘だと思う。また逆に完全に真っ暗闇の青春もやっぱり嘘だと思 う。それはもうどんな時代であってもね。そんなふうにいいわけしては、いけないと思う。何が愉しくて、何が苦しいかは、それこそ人それぞれでしょう。高校 時代というのは、その分かれ目の時代なのではないでしょうか。

    たとえば数学がご飯食べるより好きな人は、数学の問題を解くことが好きで好きでしょうがなくて、たぶん数学の勉強がものすごく苦痛である人の気持ちはわか らない。わかる必要もないんです。英語もおなじでしょう。僕は数学とか英語とか、普通の科目の勉強では、そういう愉しみは特に見い出さなかった。

    高校3年、教室で

    これは北野の話ではなく、大学に入ってからのことですが、僕の友達で外語大学で英語ばかり勉強しているのがいて、一方でスポーツ万能の元高校球児がいて、 彼は大学では格闘技に転向したのですが、その彼が外語大学生の英語だらけの時間割をみて、「おれはそんな英語漬けの時間割を与えられるのならば死を選ぶ ね」と口に出して言いました。これは決して大げさな話ではなく、それくらいの適性、才能の違いは、その年齢では生まれていて当然なんですね。外語大学の学 生に、元高校球児が日々こなしている格闘技のトレーニング・メニューをやれといったら、「こんな苦しいことを強いられるのなら死にたい」と言うかもしれな い。
    リスクの一番最初の入口ぐらいな話
    現役の北野生に言うとしたら、どんなことでも100パーセントの愉しみはないし、100パーセントの不安というものもありません。必ず苦しいことの中に も愉しみはあるし、逆もそうです。そりゃあもう、そうできてるんですよ。僕はそんなふうに世の中とか、身の回りのものごとの成り行きを理解しているんです けれども。だから、あんまり愉しいことが続いたら警戒した方がいいし、あんまり苦しいことが続いたら喜んだ方がいい。

    ただ、先行きがよく見えないところで、高校生だから勉強が一応本業で、そこに集中的にかかるストレスというか、不安度っていうのは、それはやっぱり非常に 大きいでしょう。僕もそうでした。でもね、それは形を変えながらも、人生ずっと引きずってゆくわけです。やっぱり死ぬまでそういう不安は抱えてゆく。普通 に勉強してれば点数取れるっていう世界から、違ったところに放り出されて、どうすればいいのかわかんないってなるわけですけれども。
    希望の大学へ入っても、希望の会社に入っても、たぶん不安がなくなることはありません。まあ、僕みたいな職業は特にそうですけれども。先行きどうなるかと いう不安は、増えることはあっても、減ることはないと思うんですよね。どんどんどんどん自分で決めて、自分でリスクを負ってやっていかないとしょうがな い。その一番最初の入口ぐらいな話じゃないかなと思うんですけどもね。

Update :Aug.23,2000

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