われら六稜人【第33回】風にまかせた夫婦人生


今宮戎神社で福娘を体験

第3フライト
オーストラリアへ語学留学

    北野から奈良女子大を受験しました。結構イージーで…進路といっても「将来何になりたいか」とかは余り考えずに「とりあえず大学へ行きたいな」って。行き たいけれども、数学が大の苦手でしたからね。文系は文系でも、入試の科目に数学が無いところ…というのが必須条件でした(笑)。
    親の条件は「国公立で、家から通学が可能で、浪人しないこと」でしたから、いろいろと総合して奈良女に決めたんです。それで運良く合格して、あの十三の第2コーポから毎日、奈良まで通いました。大学時代はとにかくアルバイトを一杯しました。留学してみたいという思いがあって、その資金稼ぎにひたすらバイトに明け暮れたのです。最初は家庭教師とか 塾の講師とかをしていたのですが、今宮戎の福娘をやったことで、イベント関係のバイトが多くなりました。いわゆるキャンペーンガールと呼ばれる仕事です ね。あれは結構、割りがいいんです。結婚式の巫女さんもやりました。それから「食堂のおばちゃん」も(笑)。
    いろんなことをやりました。そうやってアルバイトで溜めたお金を基に、親にも援助をしてもらって、1年間、語学留学をすることにしたんです。ハッキリ言っ て高校時代の英語は嫌いでした。あまりにも文法ばかりで、先生も厳しく「丸暗記しろ」って難しい単語を覚えさせられていたので。でも英会話には興味があっ て、大学に入ってから英会話を習い始めたんです。それで、とりあえず3年生が終わった時点でオーストラリアへ行くことにしました。


    大阪城築城400年祭のキャンペーンガール(左から3番目)

    一応、シドニーの学校を決めて行きました。ビザを取って、授業料も払って。だけど、それ以外は随分無計画でしたね(笑)。とくに下調べもしないまま、1泊目のホテルだけ決めて行ったんです。「さて、それからどうしよう。なんか、みつかるかなぁ…」そんな感じで。
    結局、行きの飛行機でたまたま隣に座った人の知り合いの家にしばらく居候させて貰うことになりました。もう10年位オーストラリアに住んでいる方で、日本 人のおじさんですが、やはりすでに日本人の若い子を何人か世話している親切な方でした。「女の子もいるから、おいで」と言われて気軽に居候させてもらった のです。

    しばらく居候させて貰ううちに「住み込みでベビーシッターをしてくれないか?」という家庭を見つけました。離婚した母子家庭で「週に3日くらい…(当時7才の)子供の面倒をみてくれたら、あとは好きにしていいから」と言われて、結局その家にずっと居ることになったんです。
    宿代がタダになるんだったら、その分でバイクが買えるかな…と皮算用して、わたしは免許も取らないうちから250ccの中古のバイクを購入してしまいまし た。どれがブレーキだか分からない本当のド素人で、買ってから、みんなにいろいろ教えてもらって、乗る練習をして…それから免許を取りました。唆されると すぐその気になっちゃうタイプなんですよ(笑)。

    オーストラリアには都合1年間いましたから、いろんな国の友達ができました。特にアジア系が多かったですが、ブラジルやスイスの友達もできて、彼等の母国の話を聞いていると「行きたいな。面白そうだな」という思いが募りました。
    両親の影響か…わたしも旅が好きでしたから、学校の合間にはオーストラリア国内をあちこち旅行しました。いわゆるバックパッカーでしたけど、ユースホステ ルなんかに泊まったりして、そこでまたいろんな国の人と交流する機会に恵まれて…ますます「行きたい」という気持ちが高まったのです。

    ユースで知り合った人とは一緒に組んでヒッチハイクしたり「ガソリン代を払うから」と言って車に乗せてもらったり…そういうことを繰り返しているうちにだんだんと「貧乏旅行」が楽しくなってきたんですね。
    子供の頃から引っ越しが多かったので人見知りは全然しないし、結構どこに行っても楽しくできるタイプだったので…元々そういう素地はあったんでしょうね、きっと。順応性が高かったんだと思います(笑)。

    飛行機に乗ったのも海外へ出たのも、このオーストラリア留学が初めての経験だったのですが、現地の友達も沢山でき、今でも家族みたいに親しくしている人がたくさんいます。わたしにとってのオーストラリアは「第2の故郷」のような気分なんです。

Update : Jul.23,2000

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