われら六稜人【第33回】風にまかせた夫婦人生


体育大会(1981.10.4)
クラブ紹介(行進)の前に同期生と(左から2人目)

第2フライト
職住近接の善し悪し

    クラブは剣道部でした。1年生の時、北野の入学が決まってすぐに入部。というのも小学校6年生の時から道場に通って剣道をやっていたんです。たまたま知り 合いの先輩がいて「入れ入れ!」って言われたので。わたしも剣道は好きだったし、友達も先輩もいい方だったので、入ることを決めました。
    もう楽しくてねぇ。だから余計勉強が出来なくて(笑)。クラブは熱心にやってました。まぁ、宝塚歌劇を観に行く時はサボりましたが。怒られながらも「観に 行くから」って。1に宝塚、2に剣道、3,4がなくて5に勉強…って感じですね(笑)。文化祭や体育祭も張り切ってましたから。剣道部の友達とは今でも本 当に親しくしています。今回の出産の際も、アメリカから「どう?」って友達が電話をくれたり、本を出した時も先輩方が協力して売って下さったりね。本当に 有り難いなと思っています。北野の忘れられない思い出といえば、3年生の担任が化学の猿田先生で「金八クラス」って言われる位、まとまっていました。本当にいい先生で、いまだに色々 とやり取りしています。あと食堂の林さん御夫妻にもすごくお世話になりました。みなさん少なからずそうだと思いますが、わたしは特別かわいがってもらった んです。というのも家が学校の近所だったこともあって、卒業後も体育祭や文化祭の時などに「忙しいから手伝って」と呼ばれて「食堂のおばちゃん」をしてた んですよ。
    長靴を履いて、割烹着を着て、ゴムの腰巻きをつけて…大抵は売り場にいましたから後輩からも「おばちゃん」って声を掛けられて。「何よ!」って言い返すと 「あっ、先輩!」っていう感じでね(笑)。恩師の先生からも「君、いったい何してるの?こんなところで」ってびっくりされました。

    北野高校の東隣に「第2コーポ」というマンションがあるでしょ。高1の終わり頃に、東三国からあそこへ引っ越してきたんです。学校が近くなっていいなと思 う反面、校内放送が全部聞こえるんですよね。一度帰宅してから呼び出されているのが聞こえて、また制服を着て行ったり…(笑)。
    それまでは塚本駅から通っていたので、人通りの少ない正門のほうから登校してましたが、近くなってからは毎日あの通用門の並木道を走りました。朝は予鈴が 鳴ってからでも、走って行って十分間に合うんです。だから、わたしの姿を見るとみんな焦り出して「もうそんな時間?!」って走り出すんですよね。遅刻のバ ロメーターにされてました。

Update : Jul.23,2000

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